第47話 真実よ、名探偵を守りたまえ
「じゃ、さらにもうひとつ。覆面の下にいたのは、本物のヴィクトリアス・フェニックスだろうか?」
そのとき、男は「ヘヘッ」と声を立てて笑った。
そしてこう言った。
「旦那、それを言っちゃおしまいですぜ!」
それは耳を
ラトはその後も次々にやって来る客たちに同じ質問を投げかけた。
ある者はこう答えた。
「それは、店の常連たちの間じゃ、言っちゃいけない禁句って奴ですよ!」
次の者はひとしきり笑った後で、まじめな顔をして言った。
「だって――いや、こんなことは本当は口が
「
「台本があるんですよ。どんなにピンチになったって、ヴィクトリアスは勝つようになってんです。覆面の下に誰が入ってようとね」
クリフが
「覆面の下には誰が入っているの?」
「さあね、俺は知りませんし、興味もない。ただ、ヴィクトリアスは地下拳闘場の
客たちを追い返した後は
「ラト、どいうことだ? つまり……拳闘場で行われていた試合は、全部
八百長、つまりはいかさまだ。
賭けがからむ勝負事で、あらかじめ勝敗を打ち合わせておくことをそう呼ぶのだった。
「ああ、それも特殊な八百長だよ、クリフくん。それを八百長と呼ぶならだけど。つまり、
「そんなことあるはずが――」
「ない? これは夢の中ではなく現実なんだよ、クリフ君。それというのも、僕も思い込んでいた。ナミル氏に限って、こんなミスをおかすはずがないってね」
ラトはモーリスから紅茶のカップを受け取りながら、やや
「おそらくヴィクトリアス氏はもう長い間、リングには立っていない。フェニックスの
「そんなことありえないだろう」
「何故? 僕からしてみれば、十五年もの間、全ての試合で勝つなんてこと自体がありえない」
「それが現実だとしても、
「それが当たり前だからだ。芝居を見に行くのと一緒だよ。舞台の上に立つ美しい女神を
「そんな、まさか……」
クリフは今しがた自分が見たものが信じられずに、
「覆面男の中に誰がいるかは、わからないんだ。誰にもだ。客はだれひとりとして、覆面の下を確認していない。でも覆面をかぶっているかぎり、彼はヴィクトリアス・フェニックスなんだ。わかっちゃいるけど、誰一人として口には出さない……そういうルールを、彼らは十五年かけて作りあげたんだよ」
「しかし、それは賭けとして成立していないじゃないか」
「いいや。成立し得る。拳闘士の強さに賭けるか、その背後に仕組まれたストーリーに賭けているだけのちがいでしかない」
「そんなことナミル氏は許さないだろう」
「そこだ」
ラトは人差し指を立てた。
「ナミル氏はけっして八百長を許さない。彼が求めるのは真実の暴力だからだ。だけど、裏を返せば、ナミル氏だけを
それが正しいとしたら、ヴィクトリアス氏はデュマン殺しにかかわることができないという
「だとしても……ヴィクトリアス氏はどうしてデュマンを殺したんだ? 動機がわからない」
「それについては十五年前の弟殺しが関係していると僕は思う」
ラトは遠い目をして紅茶のカップの底を見つめていた。
「おそらく、デュマンは覆面兄弟の
なぜ、そんなことがわかるのかと
「もしかすると――顔か?」
ラトは
「被害者は顔を集中的に
「
「僕が思うに、デュマンは十五年前の弟殺しの件でヴィクトリアス氏を脅迫していたのではないかな」
「弟殺しの件はヴィクトリアス氏がすでに罪を認めている。片はついているはずだ」
「しかし十五年の歳月を
ラトはそう言って、クリフに視線を投げた。
「証拠がない」
「なんだって?」
「事件現場に残された痕跡は、すべてコーネルピン隊長が奪い去って行ってしまった。十五年前の件に関してはナミル氏自身がすべて処分してしまっていることだし……すなわち、現時点で、ヴィクトリアス氏は通そうと思えば
「要するに……?」
クリフは嫌な予感がした。
「要するに僕たちは、この事件の真相を明らかにしたときナミル氏が――お
「ナミル氏がヴィクトリアス氏の身の安全を優先した場合は?」
「彼の秘密を知っている僕と君をロープで縛り、馬車の後ろに
「大いにあり得る話だ……」
「何か作戦を考えなくちゃ」
「作戦というと」
「
ラトは
そのとき、モーリスがやってきて「黒ずくめの使者様がお見えです」と渋い顔つきで言った。
ナミル氏の使者は今夜、関係者を集めると伝えてきた。
それは時刻にしてあと三、四時間ほどで、ラトとクリフが夜明けを見られるかどうかが決まるということだった。
*
夜の九時ぴったりに、ラトの指示通り事件の関係者たちが
ナミル氏と支配人のブランドン氏、ヴィクトリアス氏が
集められた場所はてっきり拳闘場かと思いきや、少し離れた場所にある高級レストラン『
その個室に
呼び出したラトはクリフを連れて
そして部屋に入って来るなり、ステッキを掲げた。
「《
合図を送ると、レガリアが薄青い光を放つ。光はステッキを中心に部屋中をまんべんなく
ナミル氏は
「なんだなんだ、これはどうしたことだ、ラト
「失礼しました。これは僕のレガリアの新しいスキルで、ここにいる人たちが魔法やレガリアを所持しているかどうか、そしてこの場所に使用した痕跡があるかどうか調べる力があります。約束に
「結果はどうだい」
「どちらも使用された形跡はありませんでした。もともと、僕はこの件について魔法の
「殴り合いは正々堂々じゃねえと面白くないからな」
ナミル氏はそう言った。
「で、犯人はわかったんだろうな、お前さんの言うところの真犯人とやらが」
「はい。ブルーノ氏を解放してください、彼が事件の真相を知っていることは間違いありませんが、デュマンに直接手を下したのは別人です」
罪を自白したブルーノは部下たちに連れられ、縄で縛られた姿だった。
部下たちが拘束を解こうとすると、ブルーノは何故か抵抗した。
「ちがう! デュマンを殺したのは俺だ!」
ラトはその
「事件の説明をするまえに、ナミル氏にも確認しておきたいことがあります。事件の
「なんでも聞いてくれ」
「拳闘場の運営のことです。あの店では不正は
「当然だ。俺とここにいる支配人はな、どっちも心の底から拳闘が好きなんだ。男たちが
男の、と言ったとき、ナミル氏はラトに片目をつぶってみせた。
彼なりの
「もしも八百長をするような拳闘士がいたら、どうしますか?」
「残念ながら、そいつには
「そうですか。ではもうひとつ。これは僕が事件を調べていくあいだにふと気がついたことで、そして最初に確認しなかったことを後悔したことでもあります。ナミル氏、もしかしてですが、事件の当日あなたは地下拳闘場にはいらっしゃらなかったのでは? 大の拳闘好きを
ナミル氏は拳闘好きで、木曜日は必ず拳闘を楽しむ――それは迷宮街の地下の事情というものを知っている人間にとっては常識だったはずだが、ナミル氏はその問いにあっけなく
「その通りだ。俺は試合の最中、店に行くことはしない。ここにいた」
「ブランドン支配人も一緒でしたね」
「まるで見てきたように言い当てるじゃねえか、ラト坊。そうとも、拳闘の試合があるときは、店は手下に
「その習慣は、長い間続けられたものでしょうか」
「必ずこの店で食事をする、というのは言い過ぎだな。しかし店には一歩も立ち入らないようにしている。支配人にもそう言い聞かせてある。十五年以上前からそうだ」
クリフはナミル氏の返事を聞いて驚いた。
拳闘好きだと言うからには毎週店に通って、特等席に座り試合を
続けざまにクリフは
この信じ難い事実は誰の目にも
「女たちを呼ぶこともあるが……そいつらもここに呼んだほうがいいか?」
「いいえ、結構です。あなたとブランドン支配人は事件現場にいなかった、それだけが確認できればよかったのです。しかしその理由についてはもう少しくわしく説明していただかねばなりません」
「つまりだな、この店が俺の持ち物だというのが問題なんだ。経営のほうはブランドンにまかせっきりだが、新しい拳闘士を雇うだの、故障した拳闘士を
「さあ、まだわかりません」
「こういうことだ。俺が店に出ると拳闘士たちは正々堂々戦わなくなるんだよ。支配人だってそうだ。俺達のように、拳闘士たちの今後を左右しかねない力を持った人間が店にしょっちゅう出入りしてみろ、たちまち連中は俺達の顔色をうかがうようになるんだ」
「なるほど、それはジレンマといっていいでしょうね」
ナミル氏は拳闘を心の底から愛しているのだ。だからもちろん店に
ナミル氏のように感情の
店の主人、しかも裏社会の顔役のお気に入りを、力いっぱい
だからナミル氏はあえて店には通わず、支配人と共に離れたレストランで食事をすることにしていたのだ。
「試合の様子は部下たちに命じて事細かに報告させている」
「貴方の部下が直接、店に来るのですか」
「いや、それだと同じことになりかねないからな。部下たちにも店の
「それで大体の事情がわかりました。すなわち、なぜこの事件がここまで複雑になってしまったのかということについてです。ご協力ありがとうございました、ナミル氏。ですが、今日は貴方に残念なお知らせをしなければならないかもしれません」
「ぜひとも
「その前にお約束して頂きたい。すなわち僕が良いと言うまでは、
いいだろう、と言って、ナミル氏はテーブルに
もちろん、
「では、申し上げます。残念ながら貴方の聖域である拳闘場には不正がはびこっていました。八百長です。試合の結果は、あらかじめ決められていたのですよ」
ラトは昼間、カーネリアン邸に人を集めて行った実験について話した。
その結果をナミル氏は深い怒りを持って迎えることとなった。
約束通り、彼は怒鳴り散らすことはなかった。
ただ部屋に揃った部下たちと拳闘士をぐるりと眺めただけだ。
その途端、ランドン支配人やナミル氏の部下たちはみな
「そしてデュマンを殺害したのはブルーノ氏ではありません。犯人はあなただ、ヴィクトリアス・フェニックス氏」
その瞬間、並び立つ拳闘士たちが一瞬で
ナミル氏も負けず
当然だ。
ラトは店一番の売れっ子であり、試合に出れば負けなしのヴィクトリアス氏を
もしも答え方を間違えたら、ラトは殺されてもおかしくない。
それでもラトはいっさい
「そしてもう一つ、大切な真実というべきものを申し上げます。彼はヴィクトリアス・フェニックスではありません。彼の本当の名前はゴッドフリー・フェニックス。十五年前、ヴィクトリアスを事故に見せかけて殺害した殺人犯です」
ラトの推理に誰もが驚いていた。
しかしクリフにとっては、真実よりも場に張り詰めた緊張の糸、殺気の
「こいつらがまとめて襲いかかってきたとしたら、俺は
「部屋を出る前に八つ裂きにされるよ、クリフ君」
「じゃあどうする?」
「信仰のある者は女神によって守られるだろう。しかし、ひとりぼっちの名探偵を守るものは真実のみしかない。だから名探偵は相棒を必要とするんだ」
なんとも頼りない発言ではあった。
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