名探偵ラト・クリスタルの追放

第46話 死が持ち得る力についての一考察

　もしもこれがコーネルピン隊長率いる衛兵隊の仕事であれば、ブルーノが自白した時点で事件は終わりを迎えたことだろう。しかしラトはナミル氏に、ブルーノの自白は疑（うたが）わしいと伝えたようだ。

　それからもラトは精力的（せいりょくてき）に迷宮街を歩き回り、店で働く下男や出入りの業者から事件の情報を集めていた。

　そして少しずつ事件の状況が明らかになっていった。

　たとえば事件の当日、先に店に現れたのはヴィクトリアス氏だった。氏は夜の八時ごろに店に来て自分の個室に入った。デュマンが現れたのはそれよりも後だ。ヴィクトリアス氏に続いて個室に入り、その後に試合のためヴィクトリアス氏が覆面をつけて興行（こうぎょう）に現れている。

　その晩、ほかに個室に出入りした者がひとりだけいる。

　それがブルーノだった。

　彼はデュマンが個室に入って行った後、ヴィクトリアス氏の部屋を訪ねている。

　ブルーノもまた、デュマンと同じく事件現場から出て行く姿を誰にも見られていなかった。また、この間、デュマンが暴力を振るわれていたとしても店は営業中で騒々（そうぞう）しく、物音に気がつく者はいなかっただろうと思われる。

　つまりブルーノを犯人とする説は、それほど無根拠ではないということになる。

　それから聞き込みを行ったなかに興味深い発言をする者がいた。

　いつも店に酒を届けに来る酒屋の使い走りが、デュマンは拳闘士たちに暴力を振るわれていたと証言したのだ。

　酒屋はいつも店の客に飲ませる粗悪（そあく）な酒とは別に、ヴィクトリアス氏のために高級な蒸留酒（じょうりゅうしゅ）の瓶を届けていた。そのとき、個室の中からうめき声と激しく殴打（おうだ）する音をはっきり聞いたというのだ。実際に目で見ていたわけではないが、状況からしてそのときに部屋にいたのはデュマンとヴィクトリアス氏だけだという。

　あのヴィクトリアス氏がデュマンを虐待していたという話はクリフに少なからず衝撃（しょうげき）を与えた。事故とはいえ弟を殺してしまったことを後悔し、自分の稼ぎすら他人に与えていた男が……そう思うとやる瀬（せ）ない気持ちになる。

　しかし、だからといってヴィクトリアス氏が犯人であるとは、クリフには思えなかった。

　何しろデュマンが死亡したとき、ヴィクトリアス氏は試合中だったのだ。

　そして、彼が戦うその姿は店中の者が目にしている。

　この事実だけは動かし難いものだからだ。

「ラト、まだ捜査を続けるつもりか？　ブルーノは自白だったが、ナミル氏は約束通り金を払うと言っているぜ」

　旧市街地のごみごみした雑踏（ざっとう）を抜けながら歩くラトの背中にクリフは声をかけた。

　クリフとしては報酬が出ればそれで構わない。ブルーノの自白は嘘かもしれないが、ナミル氏もラトが言うところの事件の真相になどあまり興味がないだろう。落とし前がつけば報酬を払ってくれる可能性は大いにある。

　しかし肝心のラトが調査をやめないかぎり、その可能性はゼロだ。

「まだそんなことを言っているのかい？　ブルーノは左利きだよ、クリフくん。遺体の損傷具合（そんしょうぐあい）から判断するに、犯人は右利きである可能性が高い」

「何故ブルーノの利き手がわかったんだ」

「筋肉の発達をみればすぐにわかる。それにね、これはお金の問題ではないよ、クリフ君。何度も言うようだがブルーノがデュマンを殺す動機がない」

「デュマンはただの使い走りで店の中では軽（かろ）んじられる存在だ。憂（う）さ晴（ば）らしをしているうちにうっかり……ということもあるだろう」

「その証言は疑（うたが）わしい。僕はデュマンの体を隅から隅まで観察したが、虐待の痕跡（こんせき）は見当たらなかった。頭部に加えられた打撃は、全て事件当夜にできたものだ」

「それじゃ、なおのことだろう。ヴィクトリアス氏にデュマンを殺すのは無理だ、その時間は試合をしていたんだから」

「その点なんだが、僕たちはなにか根本的な考え違いをしているようでならない」

「まさかとは思うが、誰か別の人物が覆面（マスク）をつけて試合に出たとか、そんなことを言いたいんじゃないだろうな」

　クリフは自分で言って、自分の発想を鼻で笑った。

「いくら店が薄暗くて顔がわからないとしても、一番人気の選手だ。体つきにだって個性がある。それが双子の弟ならともかく、ほかの拳闘士が成（な）り代（か）わっていたら客の誰かが気がつくさ」

　ラトはふと足を止めた。

「どうした？」

「いや……君の言うことはあながち間違いじゃないかもしれないね」

「まさか双子の弟が生き返って、代役になったって話か？」

「もちろんそんなわけがない。僕が興味を持ったのは、それを客の誰もが目にしているという事実のほうだ」

「同じことだろう」

「同じではない。全然ちがうことだよ、クリフくん」

　ラトは眉間（みけん）に深い皺（しわ）を刻みつつ、ふとため息を吐いた。

　ため息を吐きたいのはクリフのほうである。ラトの思考はときどき大きく飛躍するように見える。

　ラトは逆にクリフに疑問を投げかけた。

「ねえクリフくん。弟の死を乗り越えて、ヴィクトリアス氏は本当に変わったと思うかい？」

「ああ……。そりゃ、もちろんだ」

「それがヴィクトリアス氏ではなく、イエルクだったら？」

「あれは別枠（べつわく）だ。例外だ。人間として考えるな、魔物かなにかだと思え」

　クリフは軽口（かるくち）のように答えたが、心の中ではイエルクは変わらなかったと結論づけていた。奴は誰を殺したとしても後悔（こうかい）することなどない。たとえ相手が肉親で血を分けた子供や孫（まご）であっても必要であれば殺す。

　彼にとって殺人とは要不要（ようふよう）の問題なのだ。

　もしもラトとイエルクが対峙（たいじ）することがあったとしても――イエルクがラトの前でわずかにでも動揺を見せることはないだろう。彼にとって殺人とは女神が下（くだ）す天命によってそうせしめられたものだからだ。

　しかし誰もが倫理観（りんりかん）や思いやりを投げ捨てた狂戦士というわけではない。

　少なくともクリフはそう信じている。

「ヴィクトリアス氏は変わったんだ。残酷さを反省し、他者のために思いやり深く生きようと思い直した。自（みずか）らの財産を投げ打つというのは、簡単なようでいて難しいことだ」

「君がそう信じたい気持ちは理解できるけどね……」

　ラトとクリフは一軒の仕立て屋を見つけ、入って行った。

　素敵な上着を手に入れるためではなく、これも調査の一環だった。

　ラトは店員に声をかけて、アパタオ村の刺繍が縫（ぬ）える女性に心当たりはないかどうかと訊ねた。

　そう、ラトはヴィクトリアス氏が試合の際に身につけている覆面や、自室に飾っていたタペストリーを縫（ぬ）った女性を探しているのだ。

　ランドン支配人の話によると、あのタペストリーを贈（おく）ったのは覆面兄弟と共に迷宮街にやって来たアパタオ村出身の娘で、エイブリルという女性だった。

　エイブリルは十五年前の事故で亡くなった弟ゴッドフリーと親密であったが、その死以降は行方（ゆくえ）がわからなくなっている。

　クリフにはデュマンの死の真相とエイブリルには何のつながりもないように思えたが、ラトの考えは違うらしい。

　ラトはこの日だけで数軒の洋装店をめぐり、古着屋にも足を運んだが、エイブリルの行方（ゆくえ）について手がかりは得られなかった。

　迷宮街に実在するかもわからない女性の居所（いどころ）について、思いがけない情報が得られたのは捜索（そうさく）をはじめて三日後のことだった。

　エイブリルを知っている女性が現れた。

　それも灯台下暗（とうだいもとくら）しとはこのこと、朗報（ろうほう）をもたらしたのはカーネリアン夫人だった。

　夫人は慈善活動（じぜんかつどう）のひとつとして洗濯場（せんたくじょう）を運営しており、貧（まず）しい独身女性に仕事を与えていた。その洗濯場にエイブリルという名前の女性がおり、裁縫（さいほう）が得意で、破（やぶ）れた服の補修（ほしゅう）やボタンつけを担当しているというのだ。

　翌日、カーネリアン夫人みずからに案内されて、クリフとラトは新市街地にある洗濯場を訪れた。

　エイブリルは汚れた衣服を煮沸（しゃふつ）する釜（かま）のそばで忙（いそが）しく立ち働いていた。

　さっそく中庭に連れ出してヴィクトリアス氏の話をすると、エイブリルはそばかすの浮いた顔を痩（や）せた両手で覆い、声を立てて泣き始めた。

　エイブリルは十年と少し前、フェニックス兄弟を頼りに迷宮街にやってきた。

　故郷のアパタオ村は貧しい土地だった。

　貴族向けに茶葉の生産をしていたが、茶葉そのものは食えない。

　そもそも耕（たがや）すのが難しい土地で、たびたび飢饉（ききん）に陥（おちい）ったので、若者は出稼（でかせ）ぎに出るしかなかったのだ。

「二人とは仲がよろしかったのでしょうね。タペストリーを贈（おく）るくらいには」

「あれはグレンに……いえ、ゴッドフリーに贈ったものです。ヴィクトリアスに私の刺繍の良さなんかわからないわ」

　グレンというのが覆面兄弟の弟の本当の名前だったのだろう。

　エイブリルはヴィクトリアス氏の話をするとき、目頭（めがしら）に強い怒りの力をこめた。

「兄のヴィクトリアスは拳闘が強いのはたしかですが、短気で怒りだすと何をしでかすかわからない男でした。相手が男でも女でも、子どもだってお構いなしです……。それに比（くら）べて、ゴッドフリーは根が優しくて……思慮深（しりょぶか）く誰に対しても親切で……」

　そう語りながら、エイブリルは涙をハンカチに染みこませている。

「私はゴッドフリーが大好きでした。でも彼は……ここに来たからには知っているでしょうけど、ヴィクトリアスに殺されたのです。試合中の事故だって聞かされたけど、そんなわけあるもんですか！」

「ヴィクトリアス氏は事件のことを反省し、恵（めぐ）まれない立場である拳闘士たちのために練習場を作ったと言っていましたが、本当だと思いますか？」

「ウソよ！　汚い策略（さくりゃく）よ。拳闘士の寿命は短いもの。歳（とし）を食えば誰もが思うように戦えなくなる。だからそうなる前に仲間たちにゴマをすろうとしたに違いないわ。配当金（はいとうきん）を拳闘士のみんなで分配するやり方だって、もともとはゴッドフリーが考えたことよ。でもヴィクトリアスは聞く耳をもたなかった。そりゃそうでしょうよ、そんなことをすれば一番損をするのは自分なんだもの」

　エイブリルは怒りが冷（さ）めやらぬ様子だ。

　ゴッドフリーが亡（な）くなった後、兄ヴィクトリアスはエイブリルの今後を心配して多額の見舞金（みまいきん）を渡そうとしてきた。

　だが、ゴッドフリーを慕（した）っていた彼女はそれを受け取らず、拳闘の世界から離れ、彼らの前から姿を消したのだった。

「ゴッドフリーの死後、ヴィクトリアス氏は、まさに真逆の人物となったようだ」

「人の死にはそれだけの力があるんだ。どんな人間にでも、変わるチャンスはある」

　ラトの言葉に、クリフはエイブリルには聞こえないように答えた。

　エイブリルはヴィクトリアス氏のことを信じていないが、クリフが目にしたヴィクトリアス氏は彼女が言うような薄汚い策略をたくらむ人物には思えなかった。

　しかしラトはクリフとは違う意見を持っているようだった。

「そうだろうか。クリフ君、残念ながら僕の考えは君とは少し違う……。人の死には君が思うほどの力はない。繰り返すけどね、君はオスヴィンや、あるいは長男か次兄のうち誰かが死んだとしたら、その死によって何かを変えようと思うかい？」

「胸のつかえがとれてすっきりするだろうさ。しかしこの事件に限って言えば、俺の家族は何も関係ない。ヴィクトリアス氏は犯行時刻に試合に出ていたところを目撃されているんだ。それは動かしようがないんだぞ」

「その通りだ。でも今の時点で確かに言えることは、ヴィクトリアス氏は十五年前と何一つ変わっていないという事実だけだ」

　ラトははっきりした声音でそう言った。それから、再びエイブリルに訊（たず）ねた。

「ミス・エイブリル、ひとつ、どうしても思い出していただきたいことがあるのです。デュマンという男に見覚えはありませんか」

　ラトはステッキを使って、デュマンの顔をうつし出した。

　もちろんそこに現れたのは無残にも殴り殺され、腫（は）れあがって人間とも思えなくなった遺体の写真で、エイブリルに悲鳴（ひめい）を上げさせるだけの結果となった。

「やめるんだ、ラト。婦人にはつらい光景だ」

「これが犯人の目的だよ、クリフ君。犯人は、デュマンの素性（すじょう）を知られたくなかったから顔を潰（つぶ）したんだ。犯行は衝動的なものではない。衝動はあったかもしれないが、殺害に至（いた）る過程（かてい）は冷静そのものだ」

「何が言いたい？」

「こう考えてみたまえ。ヴィクトリアス氏にも犯行が可能だとしたら？　——いや、僕たちができないと思い込まされているだけだとしたら？　事件当夜、誰もがリングの上にいるのは全くの別人であると認識しているにも関わらず、目の前にいるのはヴィクトリアス氏であると誤認（ごにん）してしまう、そんな方法（トリック）があるとしたら？」

「なんだそりゃ、魔法の話にしか思えないぞ。俺にもわかるように説明してくれ」

「わかった。でも僕が話すよりも証拠を目にしたほうがよさそうだ。明日、証明してみせよう」

　ラトはエイブリルにいくつか確認の質問をした後、洗濯場を離れた。

　そしてすぐに使いをやってナミル氏に連絡し、近いうちに事件の関係者を集めてくれるように指示を出した。

　その後はカーネリアン夫人と屋敷に戻り、アフタヌーンティーを楽しんで、午後八時には就寝（しゅうしん）したのだった。

＊

　その後、ラトが取った行動はいつも通りいささか珍妙（ちんみょう）であった。

　彼はこのような広告を打った。

『〇月×日、拳闘の試合を見忘れてしまいました。試合の詳細を覚えてらっしゃる方は、ぜひとも教えていただきたく、謝礼のご用意もあります。カーネリアン邸にいらしてください』

　このような広告を事件現場の店の近くでばらまいたので、カーネリアン邸には小金ほしさに大勢が詰（つ）めかけることとなった。それらがクリフに面会したい冒険者と混（ま）ざりあい、モーリスは列（れつ）を整えるのに朝から多大な労力を割（さ）くこととなった。

　ラトはそのひとりひとりと面接し、クリフも同席した。

　モーリスに連れて来られるのは大抵貧しい身分の男女で、手の震（ふる）えを隠すために安酒を飲まねばならず、そのために黄疸（おうだん）が出ているような者もいた。拳闘場で日頃の憂（う）さを晴らすのだけが生きがいというような人々だ。

　しかし中には読み書きが達者（たっしゃ）で、試合の記録を事細（ことこま）かに帳面（ちょうめん）につけているような人物もいた。

　いずれにしろ誰が相手であってもラトが訊ねることは決まっていた。

「ひとつ聞きたいんだがね、君。緊張しなくていいから答えたまえ。最後の営業日に、ヴィクトリアス・フェニックスの試合を見たかい？」

「ええ、見ましたとも旦那様（だんなさま）」

　男たち、女たちははっきりと答えた。

「じゃあ、もうひとつ聞くけれど……。リングで戦っていたのは本当にヴィクトリアス・フェニックスだった？」

「はい、もちろんですとも」

「君が見たのは正真正銘（しょうしんしょうめい）のヴィクトリアス・フェニックス？」

「女神に誓ってその通りでございます、旦那様」

　それらは間違いなく、ヴィクトリアス氏の無実を裏付ける証言であった。

　クリフは傍（かたわ）らで面接を見守っていたが、段々と得意になってきた。

　繰り返される質問と答えそのものは退屈だが、ラトが間違えるところを間近に見るというのは実に気分が良いものだ。

　ラトは確かに類（たぐい）まれなる才能の持ち主であるが、それゆえに、自分の才能の間違いのなさに己惚（うぬぼ）れているところがある。

　五人目が銀貨を受け取って帰宅し、六人目の面接がはじまったところで、クリフはこの優越感（ゆうえつかん）にたっぷり浸（ひた）った状態で、しかしそうしたほうが親切だろうと思ってラトに声をかけた。

「ラト、いったいいつまで続けるつもりだ？　まあ、俺としては、いつまでだって続けてくれても構わないが」

「もう、僕が謎を解くのが待ちきれなくなったのかい？」

「解けるものならな。しかし、お前だって万能（ばんのう）ってわけじゃない」

「もちろん、僕も間違うことはある。しかしこの件に関しては、後ひとつ質問を加えるだけで、答えに辿りつくことができると自負（じふ）している」

　ラトは意味ありげに微笑むと、六人目の男に問いかけた。

「じゃ、さらにもうひとつ。覆面の下にいたのは、本物のヴィクトリアス・フェニックスだろうか？」

　四十絡みの節（ふし）くれ立った指をした男ははっきりとした答えを寄越（よこ）した。