第39話 あの女・上


 その日、クリフ・アキシナイトは野暮用やぼようがあるといって午後から出かけていった。

 カーネリアン夫人も街に出ており、ラト・クリスタルはひとり屋敷の、暖炉だんろのある居間でカウチに腰かけ、紅茶を飲みながら読書をして過ごしていた。

 そこに音もなく女が現れた。

 ぜいたくな白い毛皮けがわをまとった女である。

 執事しつじの案内もなく、彼女は忽然こつぜんとその場に現れてみせた。

 侵入経路はまったくの不明であった。 

 しかしラトは驚くことなく、その来訪らいほうをいくらか予期よきしていたようなところがあった。

 彼は静かに本から顔を上げ、新調しんちょうされたソファに座るよう示した。


「警備に注意を向けるよう、忠告すべきでしょうね」


 ラトが言うと、キルフェ・アンダリュサイトはフードをうしろに払い落としてにこりと微笑ほほえんだ。白金の髪は手入れされてつややかだが、手のひらは砦にいたときと同じにいたんでいる。ラトを見つめる微笑みは記憶にあるものとはいくらかことなるものだった。聖なる気高けだかさではなく、いくらか悪魔的であった。


「メイドを怒らないでやってくださいまし。道で気分が悪くなったご婦人を見逃せない優しい子なの」

「なぜ来られたのです?」

「私が不用意ふよういなことをしたせいで、竜人公爵のいらぬうらみを買うことになってしまいました。そのことを謝罪せねばと思ったのです」

「竜人公爵はまあ……なんとでも言いくるめられるでしょう。しかし、そういうこととなると、あなたは、あなたがしたことを全ておみとめになるのですね」

「ええ。竜人公爵に手紙を送ったのはわたしです」

「僕に話をさせてくださいますか」

「聞きましょう」

「お茶はいかが?」

「結構です。物忌ものいみの期間ですので」


 選抜せんばつえた聖女候補は国王陛下への目通めどおりをませたあと、儀式のために北部に向かう。

 聖女に選ばれることは家の名誉めいよであるが、その道のりは容易よういなものではない。


「竜人公爵に送られた手紙の意図には、早い段階で……というより、見たそのときにわかっていました。あれは。そうですね」


 ラトはそう言い切った。


「僕はこれまで探偵になるために特殊な訓練を受けてきました。あなたの想像もつかないような訓練です。そのなかには古今東西ここんとうざいありとあらゆる暗号を学ぶ授業もありました。けれど、あなたが書いてよこした手紙に書かれていたものは、そのどれとも違っている。あれは何の意味もない、意味不明な単語の羅列られつでしかないのです」

「そのとおりです。お粗末そまつなものをお目にかけましたわ」

「粗末などではありません……。あなたくらいの聡明そうめいさがあれば、暗号が必要であれば、たちまちに独創性どくそうせいのあるものを思いついたでしょう。でも必要がなかったので、それを創造することはなかったのです。それにへたな暗号を使えば、僕のような者にその意図いとを見抜かれる恐れがあった。だから、あえて暗号は使わなかったのです」

「買いかぶりです」

「そうでしょうか。しかしいずれにせよあなたの目論見もくろみは当たりました。不明なものにこそ人は魅力みりょくを感じます。わからないからこそ、わかろうとするのです。考古学者が完璧な標本ひょうほんを探して年がら年中ずうっと地面をり続けているみたいにね。あなたの目的は竜人公爵を最大限に怒らせて、砦にまねくことで、それ以上でも以下でもなかった。ただ、そこには秘められた計画がありました。


 キルフェは何も言わず、まったく自明のことだと言わんばかりに、銀細工ぎんざいくのようなまつげをまたたかせた。


「まあでも計画の全体に誤算ごさんがあったとすれば、手紙の一点に限るでしょう。オスヴィンの筆跡で手紙を出しはしたが、あなたの願い通りに怒り狂った竜人公爵が砦をおそうことはなかったのです。そのかわりに僕が来た。僕と、クリフ君です。再会は偶然でしたか?」

「ええ、とても驚きました。最初は手紙のことが世に広まって、そしてお兄様がわたしのしようとしていることに気がついたのだろうかとうたがっていました」

「彼は純情じゅんじょうな男ですよ、あなたを疑ったりはしない」

「もちろん、ひとめでわかりました。そして、お兄様のかたわらにいる貴方が鋭いたかのような目をお持ちの方だということもです」

「三人の老人が言っていた隠語いんごですね。山羊やぎでも羊でもなく、鷹だと」

「イエルクがくなった後も、彼らは私とクリフお兄様に必要な教育をさずけてくださいました」

「まったくもって、とんでもない教育です。僕はラト・ペリドットを名乗り、求婚者を演じることであの砦をコントロールしているつもりでしたが、結局はそれさえも利用されてしまった」

拮抗きっこうした戦いは、たいていは先にしかけたほうが負けるのです。戦争でなくともそれは同じです」

「ごもっとも。今後はきもめいじましょう。さて、砦に僕らが現れても、あなたは目的を変えることはありませんでした。しかし計画は変える必要があった。病人の世話を続けながら機会をうかがい、とうとう最適なタイミングがやってきました。僕があなたの前に現れて、結婚を申し込んだそのときです」


 あのときラトはクリフの想像に反して完璧な求婚者を演じていた。

 わずかな時間ではあるが彼女の仕事に理解を示し、そして兄の近況きんきょうを話した。

 決して、キャストライト子爵がそうしたようにペリドット家の財産をひけらかすようなことはしなかった。ただ彼女の求めるものだけをあたえようとしたのだ。


「僕がペリドット家の嫡男ちゃくなんではないとお気づきになりましたか?」

「いいえ。どちらかといえば信じていました。もしも、何かの条件がちがっていたら、わたしはあなたを伴侶はんりょとして選んでいたかもしれません。エセルバードには悪いですが、彼を選ぶことはあまり良い選択肢ではありません。かなり魅力的な申し出でした」

「それを聞いてほっとしました。でも、あなたが結婚相手に僕を選ぶことはなかったでしょうね。あなたの決意はかたかった。そうでなければえられない計画でした。そのあと、あなたはオスヴィンが来訪らいほうすることを予見よけんしました。クリフ君と同じで、あなたも養父の性格を知りくしていたからです。きっと夜に人目を忍んでくるでしょう。そこでマントの男を作りだすことにしました。背丈せたけ肩幅かたはばをごまかし、男物の靴をいて、大胆にもイライジャの前に姿を現したのです。彼らの気性を知り尽くし、小屋までは踏み込まないとわかっていたから、どれだけでも大胆に振る舞えた……」


 その頃、ラトたちはオスヴィンの部屋で彼の筆跡ひっせきを探していた。

 もしもオスヴィンたちの後を追っていたら、そのあとの展開は違ったものになっていただろう。


「あなたは誰にも顔を見られることなく小屋に行き、マントをいで靴と一緒に焼却炉にすて、そしてみずからの手で窓を割ったのです。あとは隠し持っていたナイフで腹を突くだけ」

「森の方角に逃げ去った足跡のことはどう説明するのですか?」

「そのことを知っている時点であなたの自演であることは明白ですが、答えましょう。足跡は昼間、あらかじめあなたがつけておいたものです。同じ靴をはいて、森の奥に逃げ去ったふうをよそおい、そして丹念たんねんに同じ足跡をうしろ向きに辿たどって小屋に戻った。それだけです」

「ですが、傷は深かったはずです。疑いをらすためとは思えないほどに」

「そう……その通りです。死んでもおかしくない。内臓を傷つけなかったのは単なる偶然です。何より多大な苦痛をともないます。これは何の証拠もありませんが、あなたは解剖学にも精通せいつうしているはずです。あなたが世話をしたリム病患者のなかには、亡くなった方も多かったのでは? 埋葬まいそうはどなたが行っていたのでしょう」

「わたしです。森の別の区画を埋葬地まいそうちにしてあります。そのままめることはできないので、焼いてから埋めています」

「では、人体の構造をより深く知るため、ひいては自身の生存率を上げるために死体を解剖なさいましたね?」


 この質問だけは、キルフェ嬢は首を横にふって否定した。


「いいえ、そのようなことは決してしていません。人体の構造については、いくらか下男げなんたちに教わりましたが、座学ざがくだけです」

「そうですか。そうとは思えませんが……まあいいでしょう。あなたは生還し、二つ目の奇跡を起こしました。ひとつめはもちろんリム病を治癒ちゆしたことで、僕らが砦に来る前のことです。ただ、この奇跡も合理的に説明できるものと考えます。僕に理解ができないのは、三つ目の奇跡のことです。あなたが飲み干した器には致死量ちしりょうの毒がられていました。だからこそ、僕はあなたがしようとしていたことに最後まで気がつけなかった。これが最期さいごになるとわかっているワインを、人は飲めるはずがないと思ったからです。しかし、あなたは飲んだ。僕は問題の杯にあなた以外の人間が毒を塗布とふする方法ばかりを考えていました。単にっただけでは、誰が死ぬかわかりません。確実にあなたの手に毒の杯が回るようにするにはどうすればいいか。いくつか効果的な方法は思いつきましたが、しかしいずれも他の証拠と矛盾むじゅんしてしまいました。けれどもこれは、こころみそのものが時間の浪費ろうひだったといえます。あなたが夕食の席に現れることを知っていたのは、あなた以外にはいないのですから……。どう考えても理解ができません。いったい、どうやって生還したのですか?」

「あなたは、わたしが生きびる道筋を見出していたからこそ、毒を飲んだのだと言いたいのですね?」

「もちろんそうです。自殺をするような方とは思えませんから」

「ラト様。わたしは死ぬとわかっていて杯を飲んだのです」

「行動学や心理学の見地けんちからも、ありえません。ほんの少しでも望みがなければ」

「ほんの少しも望みがなかったのです。では、リム病のことはどう説明なさるのでしょう。やまいは女神がもたらした運命です」

「女神はさほど人間に興味はありませんよ。病は生命のいとなみの一部です。おそらく、あなたは最新の医学理論いがくりろん、つまり免疫めんえきについてご存知だったのだろうと思います。あなたはわざと、リム病に感染したのです。それも弱いリム病です」


 ラトはリム病の患者のなかには、まれに発症しても病状が重くならず、症状も軽くてすみ、短期間で回復するものがいると説明した。

 それがラトの言うところの弱いリム病である。


激烈げきれつな症状が出ている患者からではなく、その弱いリム病患者から病を得れば、生き残る望みは十分にあるでしょう」


 キルフェは微笑んだ。なんとも言えない笑みだった。聞き分けのない子をあやす母親であり、姉のようでもある。

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