夢喰らひ、老ゆ

幸せ、ということの意味を知らなかった。というか、今もこの先も多分知らないままで。月日は流れていく、と言いますが実際流れているのはあたしらのわけでありまして。たまに津波に飲まれて姿を消すものもいたりして、ニ度と戻ってこれなかったり、帰る場所はここじゃないと早々に見切りをつけて自分から離れていったり、様々でして。何も面白いことなどなく、未亡人になり涙をこぼすばかりでして。またそれが大きな波に飲まれると、涙をこぼした事実などなかったかのように振る舞うだけでして。あたしも例外ではなく、ときたまどす黒いそれに足の指先をつけ、観光気分にでもなって、あたしがどこにいるのかこっそり確認するのだ。冷たかったり、熱かったり、ぬるかったときなんかはあまりにも期待外れでそのまま沈んでしまいそうになって。その時あたしは思い出す。あれ、思い出すことなんてなかった。ない、ということがある、だけ。あたしは厄介者みたいに弾き出されて、元いた場所に戻る。何を思い出せばよかったのだろう。何が正解だった?例えば、ある春の日に去ってしまった青さ。例えば、ある雨の日に無くした時計。例えば、ある秋晴れの朝、あたしが一人になったこと。きっと、これが正解だったのだ。意味を持たない、正解。


「あれを深く知ろうとしてはいけないよ。覗き込むだけで、まるで磁石のように引っ張られて離れられなくなるんだ。もういい、もうやめてくれっていくら怒鳴っても、お前の体に染み付いた砂鉄が、いつまでも引き寄せられてしまうのさ。」


おばあちゃんは言った。こんなことを言う時のおばあちゃんの瞳には、決まってあたしの知らない何かが映っていて、あたしは寂しい気分になる。寂しい気分のまま、おばあちゃんに尋ねる。


「あれって、何なの?」


「分からないならそのままでいいんだ。お前が分かるようになった時、揉みくちゃにされないために言ってるんだから。ちゃんと覚えておくんだよ。」


「ふーん。あれって、怖いものなの?」


「そうだよ。恐ろしくて、お前の人生をめちゃくちゃに壊してしまうものさ。」


「じゃあやっぱり、知りたいなぁ。」


「おかしな子だね、どうしてだい?」


「だって、怖いものの正体を知ってればあんまり怖くなくなるでしょう?あたしは、怖いものほどたくさん知りたい。」


無邪気で小さなあたしはそう言っておばあちゃんを見つめた。おばあちゃんは相手にならないと言わんばかりにため息をつき、それっきり何も返してはくれなかった。思えばきっと、それが始まりだった。おばあちゃんは魔法が使えた。あたしにしか効かなかった、忌々しい魔法。

……人はそれを時折、呪いと呼んだりするのだけれど。







それから数年、ハキハキと喋っていたおばあちゃんはあたしの記憶の中にしかいなくなった。



__脳みそを吸われたの?


__ばか、そんなふうに言うんじゃな

  い。

 

 

その頃、幼いあたしとよく似た、20代後半ぐらいのおばさんがあたしとおばあちゃんの家を出入りするようになった。



__私はまだ、若いの。若いうちに、や     

  りたいことをやって、自由でいたい   

  のよ。分かる?分かんないよね、あ

  んたには。

 


おばさんはあたしにも分かるような、憎しみを含んだ口調であたしに喋りかける。大体は自分で勝手に答えを出して終わりになるんだけれど。そんなことを喋っている時のおばさんは、あたしにはとんでもなく醜い怪物に見えていた。でもそれはもう慣れっこだった。なぜって、数年前からこの現象は始まっていたから。お察しの通り、これがおばあちゃんがあたしにかけた魔法。



__あんた、何にも言わないのね。ふ 

  ん、そうやって教えられたわけね。

  いいわ、別にあんたと喋りにきたわ

  けじゃないもの。



おばあちゃんは、あたしのことはからっきし、名前すら思い出せないみたいだった。そのかわり、あたしの前でおばさんの話ばっかりするようになった。あたしに魔法をかけた時のような、あの遠い目をしてぶつぶつ呟くのだ。


__今日は律子は来ないのかねぇ。

  まったく薄情な子だよ。昔から私

  の言うことなんかちっとも聞かな

  いんだから。


__おばあちゃん、今日はあたしとお話

  しようよ。


__あらお前、またいるのかい?どこの 

  子だい。勝手に家に入って来て、非  

  常識だねぇ。親の顔が見てみたい。



親の顔なんて知らない。あたしが知ってるのはおばあちゃんと、醜い怪物のおばさんだけ。あたしの世界にいるのは、たったそれだけだったのだ。そう言い聞かせないと、小さなあたしは残暑に上がる花火みたいに散って、忘れられて、消えてしまいそうだった。おばあちゃんお願い、忘れるならあのおばさんのことも忘れてよ。あたしのこと分からなくてもいいから、あのおばさんのことだけは、忘れてよ。あたしによく似た、おばあちゃんが律子と呼ぶ、図々しいおばさん。

どうして家の鍵を持ってるの?

どうしてあたしの名前を知ってるの?

どうして当たり前に、ここが自分の家かのような態度を取れるの?


普通なら尋ねるべきなのだ。だけどあたしは、頑として誰にも尋ねなかった。だってそんなの、一言で終わらせられそうだったから。その一言だけは自分の耳に入れたくなくて、あたしは、喋る度に醜い怪物となるおばさんを無視した。それがあたしにできる唯一の抵抗だったのだ。








おばあちゃんがあたしを忘れる少し前、おばあちゃんはまた"あれ"の話をした。


「お前はこの先、色んな人と出会うだろう。賢い人、優しい人、意地悪をする人、挙げていったらきりがないほどにね。その中でも、頭の悪いおかしな奴らは腐るほどいる。あれを利用して誰かを貶めようとしたり、あるいは諦めきれずに自分の大事なものを犠牲にしたり。もしお前があれを持っていたら、すかさず付け込まれて人生をめちゃくちゃにされるだろうね。」


「おばあちゃんは、あれを持ったことがないの?」


「そうさね、私は早いうちに気付いたから、今こうやってお前といられるんだよ。……律子は、もう手遅れだがね。どこで育て方を間違えたんだろうねぇ。お前は、ああはならないでおくれよ。」


「もし、もしあたしがあれを持ってしまったら、どうしたらいいの?」


「……隠すしかない。あれは、大抵何かが紡いでいるものなんだよ。何かが紡いでいるものは、美しいと決まっている。美しいものは、忘れることができないんだ。だから、隠せ。壊さないように、傷つかないように、消えてしまうように。」


「そっか…。まだあたしにはあれが何か分からないけど、隠さないといけないなんて大変なんだね。あたし、かくれんぼ、苦手なの。すぐ見つかっちゃうんだ。」


おばあちゃんの言葉をよく理解しないままのあたしの幼い発言は、おばあちゃんを大笑いさせた。何でお前が隠れるんさね、子どもは無邪気で面白いねぇ、とくしゃくしゃの顔をさらにくしゃくしゃにして、あたしの頭を撫でたのだった。


「お前は健やかに育って、穢れのけの字も知らないままお嫁に行って、元気な子供を産んで、幸せになるんだよ。律子のようになるんじゃないよ。良い子だから、ね。」


その時あたしはふと思った。それがおばあちゃんの夢なんじゃなかろうか、と。後になって知る。その時思ったことは定規よりも正しく、おばあちゃんも結局醜い怪物に過ぎなかったのだ。だけどあたしは、おばあちゃんに撫でられたのが涙が出るほど嬉しくて、目を瞑り、少しばかりの幸せに浸っていた。大切なことはいつも見えないふり、聞こえないふり、知らないふり。まったくあたしらしい。












おばあちゃんが死んだ後は、同じ日々の連続でうまく思い出せない。あたしは十八になるまで施設で過ごし、一人暮らしを始めた。あたしはいつからか、毎晩同じ夢をみるようになった。夢の中で、夢を食べる夢。

しゃぼん玉のような透明な球体が無数に浮かんでいて、その中に、虹色の何かが螺旋状にうずまいている。同じに見えるけれど、どれ一つとして同じ味のものはない。共通しているのは、どれも箱入り娘みたいに甘くて、吐き気を押し殺さなきゃいけないぐらい不味いこと。それがたまらなく嫌で、あたしは逃げていくくせに、気を抜いたら隣にあるそれを追いかけ、南国の果実かのように掴み取り地面に叩きつける。そうすると手にはいつの間にか、"2"と描かれた玩具のハンマーが握られているのだ。大人しく従い、あたしは二回、夢に向かって振り下ろす。一度目は壊れますように、二度目は傷付きますように、と切に願って。それでもなんら変わりないことに嫌気がさして、あたしは玩具のハンマーをどこかへ投げ捨てる。

こんなの、出来レースと同じじゃないか。なんて目が覚めた時に文句を言うのだが、虚しく自分に返ってくるだけ。


「消えてしまいますように。」


声に出して、夢を喰らう。



















夢なんて、あたしは、おばあちゃんが笑って頭を撫でてくれれば、それでよかったのに。おばあちゃんはあたしに、この魔法しか残してくれなかった。最期すらあたしを、思い出してはくれなかった。


なんて後味の悪い、まるで夢そのものでして。

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