ブランモワを名乗る者




 あれから10日ほどが過ぎた。リュカは相変わらず学校帰りにキアンたちのラボに寄って、こちらに帰ってくる、という生活をしている。私は、新しい役職を与えられたことでいろいろと四苦八苦してはいるものの、それなりに平和な日々を過ごしていた。

 妙な夢を見ることもなく、魔獣にエンカウントすることもなく、あの夜あったことは幻だったんじゃないかと思えるくらいに、これまで通りの日常をこれまで通りに送れている。

 事態が急に動いたのは、エレーヌ様の朝の支度……の練習をしている時だった。


「なあに、緊張しているの?」


 額にじわりと滲む汗。それをぬぐう様子を鏡越しにご覧になっていたのか、エレーヌ様が苦笑しながらそう仰った。


「申し訳ございません。まだ自分の髪すらも上手く結えない若輩者が、お嬢様の御髪おぐしに触れて良いものかと非常に恐縮しております」


 エレーヌ様の身の回りのお世話の中であれば、髪を梳くという作業はまだ単純かつお手軽で、冷や汗をかくほどのものではないのは確かだ。しかも、クレティエンをエレーヌ様に見立てた事前練習も何度か重ねてきていて、これくらいまで出来るなら実践に移してもいいだろうというちょっとしたお墨付きまでもらえている。それなのに難易度が爆上がりしているのは、瞬きはしているのかと心配になるくらい、こちらの手元をじっと見つめるクレティエンのせいだと思う。


「まあ、無理もないわよねえ。あんな殺し屋みたいな目つきで見られたら、できるものも上手くできないわよ」


 エレーヌ様からは角度的にクレティエンの様子は見えないはずなのに、しっかりその表情をご指摘なさっていて、さすがのご慧眼だと感心した。


「アルエはまだ手元がおぼつかないところがございます。お嬢様に傷をつけることのないよう、こうして目を光らせているのです。……まあ、万が一おかしな動きをするようであれば、その目論見を阻止する所存でございます故、わたくしを殺し屋と表現なさるのはあながち間違いではないかと」

「ニナを……いえ、アルエをレディーズ・メイドにとロジェに進言したのはわたくしでしてよ。あなたはわたくしの、人を見る目を信用できないと言うの?」

「アルエの昇進がチェンバー・メイド止まりだったのは、わたくしがロジェに時期尚早だと忠告したからでございますよ。わたくしのお嬢様に対する評価はそれでお察し頂ければと存じます」

「クレティエン……!」


 エレーヌ様は、我慢ならないといった風に振り返ってクレティエンを睥睨へいげいした。クレティエンはそんなエレーヌ様の強い眼光に怯むことなく、背筋をまっすぐ伸ばしたまま涼しい顔でエレーヌ様を見下ろしている。そんなふたりの睨み合いの真ん中で、私は、私のために争わないで、なんていうセリフを思いついてしまい、つい頬を緩ませてしまった。


「アルエ、気を抜いてはいけません。常に背筋を伸ばして、表情もできるだけ変えないように」

「は、はい。申し訳ございません」

「あら、いいのよ。アルエは表情豊かでいてほしいわ。ずっとこんなしかめっ面に付きまとわれて続けて、実のところ気が滅入っていたのよ」

「そのお陰でお嬢様の、ひいてはブランモワ家の威厳が保たれているとはお考えになれないのですか」

「何事もバランスは大事でしてよ、クレティエン。叱咤と激励、飴と鞭。あなたは威厳を、アルエは愛嬌を振りまくの。そうすれば、ブランモワ家は今後ますます輝かしく発展していくでしょうね」


 高笑いを響かせるエレーヌ様と、げんなりしたようにため息をつくクレティエン。2人の対比を、私はほほえましい気持ちで眺めた。いつまでもこんな平穏な日々が続いてくれればいい、そんな風に思っていたけれど、一度歯車を回し始めた運命は、私を安寧にとどまらせるつもりはなかったらしい。

 慌ただしい足音の後に響く、ドアをノックする音。エレーヌ様が入室を許可するご返事をするや否や開けられた扉の向こうには、マノンが息を切らせて立っていた。下級メイドをこの階まで伝令に寄越すということは、よほど緊急の知らせがあるようだ。


「ミセス・アルエ、急ぎ療養の部屋へお向かい下さい」

「へっ? 私、ですか?」


 まさか自分が指名されるとは露ほども思っていなかった私は、気の抜けた声を上げながら自分を指して聞き返した。


「ミスター・ラスペードがお呼びなんです。マクシミリア……いえ、バランド子爵が、目を覚まされたと」

「え……」


 心臓が、いやな音をひとつ立てた。確かに、バランド子爵が倒れたとき現場に居合わせたのは私だったけれど、意識を取り戻したからと言って私が呼び出される理由なんてないはずだ。


「アルエが呼び出されたのは、間違いないのですか?」

「はい、はっきりとそう指示をされました」


 クレティエンの問いかけにマノンが迷うことなくそう答え、私はますます困惑した。

 もしかしたらラスペードは、私がバランド子爵に何かしたせいで何日も意識不明の状態になったと考えていたのだろうか。それとも、バランド子爵自身がそう訴えたから事実確認をしようとしているのか。実はバランド子爵は、ジェローム・バランドが子爵家当主だった時の私との因縁を知っていて、それを暴露したという可能性も考えられる。

 何にしても、その呼び出しは私にとって良いものではないのだろうけれど、応じないわけにはいかなかった。

 鏡越しに、クレティエンと目を合わせる。クレティエンはうなずき、すぐに行きなさい、と言わんばかりに視線を一瞬だけマノンの方へ向けた。


「わたくしも伺います」

「はあ!?」


 私の様子を黙って見ていらしたエレーヌ様が、なぜかそう言って腰を上げかけ、クレティエンが慌ててその動きを制するように肩に手を置いた。


「いけません! まだ外へ出る準備が整っておりませんし、それに、ラスペードが呼び出したのはアルエのみです。首を突っ込むことは許されませんよ」

「分かっているわよ。でもわたくしだって“ブランモワ”を姓に持つ者です。お父様がラスペードと共謀して何を企んでいるのか、事実を知る権利があるはず」


 エレーヌ様は、断片的に何かを把握なさっているらしい。バランド子爵に関しては私が個人的に薄暗い過去を抱えているだけだと思っていたけれど、もしかしたらもっと何か大きなことが、背後で動いているのかもしれない。


「時期が来れば、きっと旦那様もご説明なさいます。それまでは」

「そんなの待っていられないのよ!」


 エレーヌ様が声を荒げ、クレティエンがそれに負けない声量で言い返す。

 突如始まった言い争いに、2人の間に挟まれた位置に立つことに耐えられなくなった私は大きく一歩後ろへ下がった。その拍子に、ドアのところで立ち尽くしているマノンと目が合う。マノンは不安そうな表情をしながら私に向かって小さく首を傾げ、何が起きているのかを尋ねるジェスチャーをしたけれど、私だってなぜこんなことになっているのかよく分からない。首を横に振って応えたところで、エレーヌ様が苛立ってドレッサーを強く叩いたため、私とマノンは驚いて肩をすくませた。


「クレティエン、なぜ止めるの? あなたも見たでしょう、お父様が怪しげな方とやしきの裏で会っていたのを!」

「な……っ、いい加減になさい! メイドが聞いております!」

「聞かせてやればいいわ、領主が何か良からぬことを計画しているって! わたくしだけではない、領民にも知る権利があるのよ!」


 不意に、麦わら帽子をかぶってサムエを着込んだギヨーム様が、領民に混じって小麦畑で雑草取りをしていた姿が頭に浮かんだ。

 エレーヌ様は、何かをご存じだ。そしてその“何か”は、ギヨーム様に疑いの目を向ける原因となっている。でも、しょっちゅう市井におりては町の人たちと交流し、仕事を手伝い、悩みの相談に乗っているあの方が、エレーヌ様を取り乱させるほどの悪辣あくらつなことをするだろうか。


「……マノン、下がりなさい。このことは誰にも口外しないように。話が拡がれば、あなたが責を負うことになると心得なさい」


 クレティエンに鋭い眼光を向けられたマノンは、顔色を変えながら頭を下げると、慌ててドアを閉めた。


「行くわよニナ。今日こそお父様がかぶっている仮面を引っぺがしてやる」


 クレティエンの手を振り払い、乱暴に椅子を引いて立ち上がるエレーヌ様。私は半ば強引にエレーヌ様に手を引かれ、前につんのめりながらその後に追従した。


「いけません! お戻りなさい、お嬢様!」

「……サリー」


 立ち止まったエレーヌ様が、クレティエンをファーストネームで呼んだ。


「あなたもわたくしと同じように、良くないことが起きていると感じているのでしょう?」

「……何のことでしょうか」

「いまさら隠さなくても良くてよ。幼いころから傍にいたわたくしが、あなたの思いを見誤るはずがないのだから。……あなたも事実を知りたいと思っているはず。違う?」


 口ごもるクレティエン。先日、私の誕生日祝いに出かける前に髪を結ってくれていた時と同じ表情をしている。聞きたいけれど、聞けない。自分はその立場にないと、思いを抑えている。

 それをエレーヌ様も分かっていらっしゃるようで、クレティエンに静かに歩み寄ると、そっとその手を取った。


「さっきも言ったように、領民にも知る権利はあるの。だから、あなたも一緒に来て頂戴」


 クレティエンは、エレーヌ様のその呼びかけに答えること自体を渋っているようだった。きっとエレーヌ様と同じ疑いの目を、主人であるギヨーム様に向けてしまっていることを認めたくないのだろう。それでも、真実を求める心は偽れない。エレーヌ様はそれをも理解していたようで、クレティエンの手を離し、背筋をピンと伸ばして姿勢を正すと、凛とした声音でこう命じた。


「一個人として決断するのは憚られると言うなら、いいわ。クレティエン、これからマクシミリアン様のお見舞いに伺うので、侍女としてわたくしに付き従いなさい」









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1+nの幸福論~蒸気の彼方より愛を込めて 四ツ橋ツミキ @utakane_azuma

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