回り道がもたらしたもの
画期的。その一言に尽きると思った。
アレックスが先ほど口にしていた注射器という代物は、私が気合を入れて決め込んだ覚悟をまったく無駄なものにしてしまったのだ。
「え、お、終わり?」
「おー」
「えっ、えっ、でも、ちょっと針刺しただけだよね?」
「ん……ああ、おおー」
「それで、終わりなの!? だって前にフィルが採血した時はこう、腕をスパッと」
「ニナ頼む、あんまりでけえ声出さないでくれ……」
ホルダーと呼ばれるガラスの容器の先に取り付けた針で、肘の内側にある血管を刺し、ホルダー内にシリンジというこれまたガラスの容器を突っ込んで、いい感じに引いていく。そうすると、シリンジ内に血液が流入して採血完了という流れらしい。
空白地で見つかった書物ってすごい、旧世界の人ってすごい、これフランメル王国に流通させられないかな、そんな思いや考えが脳みそからノータイムで口から外へと飛び出していく。自分の行動がカルロのささやかな頼みを無視したかたちになっていることに気付いたのは、針の刺し跡に当てられたガーゼをテープで固定し終えたタイミングだった。
「ご、ごめん、バカみたいにはしゃいじゃって。こういうのが普通に使えるような世の中になれば、確実に医術はすごく進歩すると思って……」
「俺の方こそすまん、はしゃがせてやれなくて。なんせ寝起きなモンでさ」
熟睡しているところを叩き起こされた直後、神経を使う作業をさせられたのだから、カルロがこれだけぐったりするのは当然だろう。その上私への気遣いをさせてしまって、そもそも私が倒れなければ、いやその前にスピアレフリードに噛まれさえしなければ――
「手のしびれはないか?」
頭の中がごちゃつき出したところで、カルロが私を上目遣いに見やる。
「あ、うん、大丈夫」
「目眩とか吐き気は?」
「あー……それも、うん、たぶん大丈夫」
「気ィ遣うんじゃねえぞ。お前の不調は俺たちには見えねえからな」
私の返答がちょっと雑だったせいか、カルロはわずかに眉をひそめてそう言った。
アレックスは魔力の流れで感情を読み取ることができると言っていたけれど、それは体の調子も同様らしい。そんな技術を使って診察をするという話を聞いたことがないのは、フランメル王国に高い魔術の技量を持ち合わせた医者がいないからだろうか。
魔術後進国、という言葉がふと頭をかすめる。魔術だけじゃない、よく言えば保守的、悪く言えば時代錯誤なこの国が、こういう最新器具を取り入れて普及するわけがないのだという事実に気付いてしまい、私はさっき打ち上がったわくわくがしょんぼりと萎びていくのを感じた。
「ニナ?」
「ちょっと待って。念のため自分の体に聞いてみるから」
さっきから思考があちこちへ飛んでしまうのは、やっぱりあの夢を見た原因となるものの影響なのかもしれない。これを不調として訴えたところで今のところどうすることもできないだろうから、排除しておこう。とにかく、無理をしてまたカルロを叩き起こすことになるのは申し訳ないので、自分の体を丁寧に辿っていく。
頭は痛くない。視界がぼやけたり、ぐらつくこともない。拍動も息遣いも乱れていないし、手足に痛みやしびれを感じることもない。
頭のてっぺんからつま先までなぞってみた結果、今の自分に異変は見られなかった。
「ありがとう、大丈夫みたい」
そう短く答えると、カルロは満足そうにうなずいた。
「……リュカは、ちゃんと寝てる?」
片付けの手をのろのろと進めるカルロに尋ねる。ふと訪れた静寂に気まずさを感じて話題を振ったわけではない。リュカの様子についてはここに来てからすぐに聞きたいと思っていたのだけれど、思いのほか自分が深刻な状況下にあったこと、そして事態が想定外の様相を見せたことで、何となく聞くタイミングを逃してしまっていた。
「ああ、ぐっすりだよ」
「そっか」
「……」
「……」
「あ、あの……あのさ、」
何を聞くかはちゃんと決めてあって、文章も用意できていた。でもそれを声に乗せて伝えるまでに至らなかったのは、たぶん、リュカがここ最近いろんな独り立ちを見せてくれていたからだろう。
「なんだ?」
「あ、いい。多分もう大丈夫だと思うし」
「気になることがあるなら言えよ。つか、俺の方が気になるんですけど」
「特に何もないんだってば。ほら、あの、お腹出して寝てないかなとか、そういう程度のことを聞こうと思っただけ」
言葉を選びながらそう言ったけれど、詰まったような話し方かその内容かがしっくりこなかったのか、カルロは手を止めて小さく首を傾げた。
「つまんないこと聞こうとするなって感じよね! リュカももう小さい子じゃないんだし、ねえ?」
重ねれば重ねるほど不自然さが増していくのは分かっているので、できればこの辺で許してほしい、そんな気持ちを込めて砕けた笑顔を向けたけれど、カルロは何も言わない。面持ちが厳しくなることはなく、いつも見るカルロの顔だけれど、話すまで私を見つめるのをやめないという強い意志をそこに感じて、観念した私は重い口を開いた。
「……環境が変わるとなかなか寝付けない子なの。寝たと思っても、夜中いきなり目を覚まして泣き出したり叫んだり、なんてこともしょっちゅうあって」
「そうなのか?」
「うん。フォーミダーブルではあれだけ眠そうにしていたし、帰るときはすでに寝落ちしてたから大丈夫だとは思ったんだけど、やっぱりなんか心配になっちゃったんだ」
「あー……店を出るとき、あんだけ連れて帰るって主張してたのはそういうことだったんだな」
得心がいったようなカルロの呟きに、私は少し居住まいの悪さを感じてうつむきながら小さくうなずいた。
「私たち、故郷を出てからずっと根無し草みたいな生活してたからさ。リュカの教育とか、そういうのにいい環境のところに住みたいって思って、あちこち転々としてたんだけど……かえってそれがリュカの不安を強くしてしまってたみたいなんだよね」
言いながら、その頃のことを思い出す。私がフランメル王国内のあちこちを転々としていたのは、フィルを見つけ出したい気持ちがあったからだというのは認める。でも、リュカの生活環境を良いものにしたいという思いは決して建前なんかではなく、本当にかなえたい私の望みの一つでもあった。リュカの情操に悪影響があると判断したら即、その町での生活を捨てる。もっといいところがあるはず、リュカが暴れて自分を傷つけたり、訳が分からなくなるくらいに大声で泣き叫んだり、こんなに苦しい思いをしなくて済む場所がきっとあると信じていた。
「結局あれから目を覚ました様子はねえな。ここには何回も来てるし、慣れない環境ってわけじゃないのもあるんだろうけど」
私を回想から引き上げるかのように、カルロは顎に手をやって何かを思い返す仕草をしながらそう言った。
「そっ、か」
「まあ、大丈夫だよ」
その大丈夫、は今夜のリュカの寝付きに対しての言葉だと思い、うなずきかけたところで、
「ニナはいい母ちゃんしてるって。リュカを見てたら分かる」
片づけを再開しながら、カルロが軽快な口ぶりでそう続けたので、私は驚いて顔をあげた。
「キアンから魔術を習ってるだろ。つまんねえことですぐにへそ曲げたりヘコんで拗ねたりするけど、リュカは絶対にあきらめないで戻ってくるんだ。同じ失敗を何回繰り返しても、できるようになるまでは絶対にやめない。まあ、自分を立て直すためのめんどくせールーティンはこなさなきゃいけねえみたいだけどな」
きっと紙を細かくちぎる作業のことだろう。キアンに容赦なくダメだしされて、部屋の隅っこで小さく丸まっている背中が容易に想像できた私は、思わず苦笑いをこぼした。
「言葉をつくさなくても伝わることはある。ニナの試行錯誤する姿からも、あいつはちゃんと学んでるんだよ。だから、なんつーか……ニナは、別に間違ってなかったんだと思うぜ」
私がこれまでずっと後悔してきた回り道を肯定してくれる人に出会ったのは、これが初めてだった。学校の先生も、悩みに悩んで相談したお医者さんも、みな口をそろえて生活環境が大きく影響していると言っていた。仕方がなかった、運がなかった、恵まれなかった、からの、今後は一つ所に腰を落ち着けて、穏やかな生活を心がけましょう、で締めくくる。
そんなこと、助言されなくたって分かってるのに。
初めての場所やいつもと違う道、予定になかった急用に、逐一強い不安を感じてパニックになるリュカ。安心させられる方法や場所を求めて右往左往するこの行為こそが、リュカの心をざわつかせてしまっていることなんてとっくに分かっていたのに、返ってくる答えは全部同じ。ただもう、どうしようもないのだと悟らされただけだった。
「……私、ホントにみんなに会えて良かったって思ってる」
「おっと、なんだなんだ? いきなりしんみりしちゃって」
「カルロがあの変なうそ発見器を頭に付けてくれて良かったって、心から思うよ」
「いやあれは……その節は大変申し訳ないことをしたと深く反省している次第です」
「嫌味じゃなく、ホントに思ってるの。頭おかしいと思われるかもしれないけど、あれがなきゃきっとリュカは、まだ……」
安寧の地を探し回ることでリュカを混沌へと引き込んでしまっている、という本末転倒な事態に何とか収拾をつけたくて、更に各地を回る日々。そんな中でこのブランモワ領に流れ着き、キアンとアレックス、カルロに出会った。みんなとこうして関係をつなぐことができたおかげで、リュカは自分のいいところを引き出せるようになり、そして、それを評価してくれる人が周りにいるということで、更にリュカの、リュカだけじゃない、私も自分の肯定感を高めることができるようになった。
「ありがとう。私、頑張ってきて良かったんだって、今初めて信じられた」
「そうか」
「うん。……本当に、ありがとうございます」
あふれる感謝の気持ちが目から零れ落ちそうになるのを誤魔化すように、深々とお辞儀をすると、カルロが私の肩に手を置いた。
「なあ、ニナ……お前、不治の病でもうすぐ死んじゃうとかじゃねえよな?」
深刻な面持ちでそう尋ねられ、私は感激の涙ではなく笑いで肩を震わせることになった。
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