侵入者 3




 まさか本当に自分が死んだとは思わなかった。正確に言えば心肺停止した仮死状態だったらしいけれど、私はこの短期間で二度も心臓を止めたというわけで、今こうして無事に呼吸していることが奇跡のように感じた。


「その生理検査器と同期させた印刷機があってね。私も別室で、これと同じ検査結果を観察していたんだが……」


 アレックスは言いながら、床に広がった記録紙の、ある部分で足を止めてしゃがみ込んだ。


「ここだ。ペンが止まっているだろう」

「ああ、そこは俺も確認した。機械の調子が悪くて止まったんじゃないのか?」

「それはない、とは言い切れない。しかし、これが正しく作動した結果だったとしたら?」

「……心肺停止状態になっていた時間があるということか」

「その通り。実は、これまでも同様の報告はあったのだよ。息をしていない、と病院に運ばれてきた子供を調べたら、スピアレフリードに噛まれた痕跡があったとか」


 片ひざをついた姿勢のまま、記録紙の一部分を拾い上げるアレックス。描き出された直線に注がれる視線はとても厳しいもののように見えて、自分は死の淵から無事生還できたと思っていたけれど、もしかしたらこの後に重大な症状が出てしまうのかもしれない、と予感した。


「そ、その子はどうなったの……?」


 恐るおそる尋ねる。一瞬だけこちらを捉えたブルーグレーの瞳は、痛まし気に伏せられたまつ毛によって、その色合いを暗いものにした。


「残念ながら」

「……!」

「後日談については何も知らないのだよ。私が手に入れられたのは、そういった症例が過去にあったという情報だけでね」


 緊張で強張っていた体から力が抜け、私は思わず声にならない声を漏らした。


「何なのそれ……」

「旅の途中、ふらりと立ち寄ったバルで見知らぬ紳士たちが話し込んでいた内容が耳に入ってきた、という状況だったからねえ。今なら脅しつけてでも詳細を聞き出すところだが……フフ、当時、さほど魔獣の生態に興味を持たなかった自分をしこたま殴ってやりたいよ」


 アレックスは、怒りか興奮か、そのどちらも兼ねているせいかは分からないけれど、声を震わせながら過去の自分に対して物騒な言葉を吐き出した。目つきがかなり真剣なあたり、その時のことを相当悔んでいるらしい。


「だが悲報ばかりではない。今回、新たに収穫を得られたことは、素直に喜んでいいだろう。君の生命活動が途切れた1分後……そう、この後だ」


 記録紙に並ぶ平行線を、アレックスが指し示す動きに従ってしばらく辿っていく。その中で一本だけ、突如波形を描くものが現れた。


「この線は脳波の測定値部分だ。他は変わらず止まっているのに、なぜか脳だけが活動している。そしてこの波形は、“夢”を見ている人間の脳が見せる動きをした時のものと合致するのだよ」

「夢……」


 さっき見た戦火が蘇る。怖い夢だという感覚は、やはりない。ただなぜか、助かったという安堵と、自分はこれからどうなるのかという不安、そして強い罪悪感が混ざり合ったあの時の感情が、目を覚ました直後よりも痛烈に胸を刺していて、心苦しさを覚えた私は思わず強く瞼を閉じた。


「何か、見たんだね」


 尋ねられ、素直にうなずく。


「……話しづらいなら無理強いはしないが、できれば内容を聞かせてくれないだろうか。スピアレフリードがなぜ人の血液を採取するのか、その理由を解明する手掛かりになるかもしれない」


 無理強いしない、だとか、できれば、なんて前置きを付けるなんて、アレックスにしてはずいぶん殊勝な頼み方が、なんだか不気味だと思った。“夢”というワードに私があまり良い反応をしなかったから、何かを感じ取って気遣ってくれたのだろうか。それとも、私がその頼みを拒絶したくなる何かを隠しているのか……。


「あちこちで、爆音がしてた」


 配慮ある態度の表裏を判断できないままではあったけれど、私は口を開いた。確かにあれは良い夢とは言い難い、でも夢は夢、現実とは違う。誰かに話して第三者の見解を交えればその事実がはっきりして、いま心をなんとなく揺さぶっている嫌な感覚を払しょくできるかもしれない、そう思ったのだ。


「私は全然動けなくて……でも、誰かが私を抱えて走ってくれたの。大きな声で私を励ましながら」

「ふむ。その光景に見覚えは?」

「ないよ。自分がどこにいて、何が起きてるのかも分からなかった。それに、私を助けてくれた人の言葉も分からなかったんだよね。今の私にはちゃんと理解できるのに」

「なるほど……。その人は、君に何と声を掛けたんだ」

「大丈夫だって、もう安心していいからって……何度も何度も、同じ言葉を繰り返してくれて――」


 突然のことだった。夢の風景、音、匂いが、まるでついさっき起きたできごとであるかのように、私の中で強烈に鮮やかに色づいたのだ。それと同時に蘇ったのは、あの状況に至るまでの経緯、背景だった。


「私、もう一歩も歩けないくらいに疲れ切ってた。たくさん走って、必死で逃げようと……」

「何に追われていたのか分かるか?」

「たくさんの兵士。手首に鎖が付いたままだし、靴も片方なくしたせいですごく走りづらかったけど、逃げなきゃ殺されるから」


 殺される、その言葉が不穏過ぎたのだろうか。好奇心旺盛な少年みたいに瞳を煌めかせていたアレックスは、さっと顔色を変え、同じく表情を深刻なものにしているキアンと目を合わせた。


「私、悪いことはしてないんだよ。ただ助けてほしかっただけなのに、誰も私の言葉を分かってくれなくて」

「おい、落ち着きたまえ。君はいま夢の話をしているんだよな?」

「せっかく逃がしてくれたのに、また閉じ込められてしまった。私がわがままを言ったせいで、私のせいできっとあの人は……。私、外に出たいなんて、言わなきゃよかったんだ」


 記憶にない記憶がどんどんあふれ出て言葉が止まらない。目の前の二人が訝し気に私を見ていて、自分の状態が異様であることは分かっているのに。

 これは私が体験したことじゃないと思いながらも、自分のことだと理解していた。矛盾した認識であるはずなのに矛盾ではないという思い。知らないことだけど知っていること。

 知らせなきゃ、誰かに分かってもらわなきゃ、私一人じゃあの人を助けに行けないから――


「ニナ!」


 体の力が抜け、ぐらりと景色が揺れる。私がそのまま床に衝突しなかったのは、私の体をとっさに支えてくれたキアンの腕のお陰らしい。

 怪我せずに済んだことを有難いと思いつつ、キアンが私の名を呼んでくれて良かったと安堵した。あのまま話し続けていたら、私は別のものに全てを飲み込まれていたかもしれない。キアンに抱きしめられながら、私はそんなことを考えた。


「大丈夫か?」


 頭上から降ってきた声に、改めて自分の状態を確かめる。

 目眩はない。頭の中も、さっきみたいに情報がごちゃごちゃ入り混じることは無く、ちゃんとニネット・アルエのものだけで構成されている。夢の内容は忘れてはいないけれど、すでに現実味は失われているようだ。


「すまない、無理強いするつもりはないなどと言いながら、君の変化に気付くのが遅れてしまった。もう少し早く止めるべきだった」


 アレックスの沈んだ声に、私は首を振って謝罪には及ばないことを態度で示した。


「ヘーキヘーキ。一気に話したせいかちょっとクラクラしちゃったけど、もう大丈夫」


 アレックスだけでなくキアンに対しても、何ともないアピールをするためにわざと軽い口調で答えたのに、アレックスが私を捉える瞳は厳しいままだし、キアンに至っては私を抱きとめる腕の力を緩めてはくれない。


「ベッドに横になれ。少し眠った方が……いや、夢を見るのが怖いなら寝転ぶだけでも」

「平気だってば」

「……さすがの俺でも、今の君が平気だとは思えない」


 私の顔をちょっと覗き込んでから、キアンがため息交じりに言った。キアンがそう感じるなんて、よほど具合の悪そうな顔色をしているのだろう。私が、体を離そうとキアンの胸を押していた手の力を抜いたところで、キアンにそのまま横抱きに持ち上げられた。


「やはりシーフルを使った方が良くないか」

「魔力の影響を受けての錯乱とは考え難いが、まあ、君がそれで安堵できるならやってみたまえ」

「他に考えられる原因があるのか?」

「思い当たる薬物はいくつかある。今の状態で体力を使うことはさせたくないけれど、簡易的にでも検査をして諸悪の根源を特定し、早急に潰した方がいいだろう。……ニナ、頑張れるか」


 そっとベッドに降ろされながら、私はなるべく元気にうなずいて見せた。


「スピアレフリードに噛まれてからまだ数時間の今なら、血液検査が有効だろう。キアン、私は準備をするからカルロを起こしてきてくれたまえ」


 アレックスの指示にうなずき、早足で部屋を出るキアンの背中を見送りながら、血液検査と聞いた私は苦い顔をしていた。昔、フィルが高熱を出して数週間寝込んだ時に検査のための採血をしたことがあったのだけれど、往診に来た医者が腕を切開して血を容器にためる様子が猟奇的に見えて、気分が悪くなったことがあるのだ。


「心配するな、そんな野蛮な真似はしない。“空白地の遺物”が与えたもうた文明の利器がある」

「空白地の、遺物?」

「旧世界の書物が空白地付近で多く発見されていることは、おとぎ話の類として君も耳にしたことがあるだろう。これもシーフル同様、バルジーナ皇国が隠している状態だが、キアンが出国する際にこっそり持ち出してきてくれたものがあってね……ふむ、熱は無さそうだな」


 手首に指を添えながら懐中時計に目を落としたり、額に手を当てて体温を簡易的に測ったりして、一通り私の体の状態を確認したあとに立ち上がったアレックスを見上げる。


「一つ聞いていいかな」

「構わないよ。なんだい?」

「アレックスって、お医者様だったりする?」


 私の問いかけに、アレックスは一瞬首を傾げて思案する様子を見せてから、首を横に振った。


「真似事だけさ。データの解析はできるが、実際に人体にどうこうするのは苦手でね。採血に使う予定の注射器のようなデリケートな道具なんかは、手先の器用なカルロにしか任せられない。ああそれから、ついでに言っておくけれど」

「……?」

「我々の中に医者はいない。つまり、今から君に施す医療行為は恐らくフランメル王国内でも違法にあたるだろうから、他言は無用だよ」


 内心、そうではないかと薄々勘づいてはいたけれど、実際はっきり聞かされると途端に恐怖心が湧き上がってきた。二度あることは三度あるとも言うし、私はまた命の危機に晒されることになるかもしれない。


「案ずることは無い、カルロの腕は保証する。重大な何かが起こることはないさ。……たぶん」


 私が懸念していることを汲み取ってそう言ってくれたのだろうけれど、最後の余計な一言がますます不安を掻き立ててしまったことに、アレックスは気付いてくれているのだろうか。


「さあて、久々の採血はうまくいくかな」


 ウキウキした口調で呟きながら部屋を出たアレックス。

 私、今回はもしかしたら本当に生きて帰れないかもしれない。







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