侵入者 2




 爆音ののちに襲い来る熱風。ぼやける視界は激しく揺れていて、ここがどこなのか、今なにが起きているのかは分からない。

 状況を尋ねようとして開いた口から声は出ず、代わりに短く漏れ出た掠れた息によって私の喉は刺激され、大きく咳込んだ。

 男性の叫び声。何を言っているのか、理解できない。鳴りやまない爆発音が声をかき消しているのか、それとも話す言語が違うせいなのか。でも不思議と恐怖心はなかった。それはたぶん、私を抱きかかえる腕が、絶対に私を落としたりしないことを信じられたからだろう。

 安堵と、喜びと、そして強い罪悪感。心でそれらがないまぜになるのを感じながら、私は再び瞼を下ろした。


「もう大丈夫だ、安心しろ……か」


 目が覚めて開口一番、私はそう呟いていた。それはキアンが今日二度ほど私にかけた言葉ではなく、今しがた夢で聞いたものだ。自分の母国語であるはずのその言葉が、夢の中ではなぜ理解できなかったのだろうと、私は天井の古びた木板を瞬きもせず見つめながら、ぼんやりと思い返していた。

鼓膜を震わせる爆撃音や肌を焼く熱波。明滅する光が薄く開いた瞼の隙間を縫って差し込み、熱せられた空気は土埃と煙の臭いをまとって鼻腔を不愉快に刺激する。

 あれは、戦争の光景だと思った。戦時中のことを文献でしか知らないはずの私に、もし現場にいたとしたらあんな感じだっただろうと信じさせるほどにリアルな夢だった。ただ夢の中でもそうだったけれど、今こうして思い返してみても不思議と恐怖心はなくて、なぜ急にあんな夢を見たのかということよりも、なぜ怖くなかったのかということの方が気になって仕方がなかった。

 頭だけを動かして、窓の外に目をやる。月はさっきよりも低い。でも黒く広がる空ににじむその光は変わらず強いもので、この部屋でアレックスに丁寧に化粧を落とされ、ほどいた髪を櫛で解いてもらい、スキンケアを施されてからそう時間は経っていないことを悟った。

 と、その時、不意に部屋のドアが開く音がして、反射的にそちらを振り返った。


「なんだ、起きていたのか」


 ノックもなしに入ってきたのはキアンで、私と目が合うなり驚いた様子でそう言った。


「ベッドに横になるなりすぐに眠ってしまったし、そのあと何をしても起きなかったから、しばらく目は覚まさないだろうと思ったんだが」

「あー……そうだったんだ」


 何をしても、という言葉に若干の寒気を覚えたけれど、詳細を尋ねたせいで藪蛇になるのは避けたかった私は、あえてそこに言及することなく答えた。


「私、まだじっとしてた方がいい?」

「うん、まあ、そうだな……と」


 サイドテーブルに置かれた謎の機械からは、太めの針金みたいなものが幾つもせり出していて、曲がった先端はリズミカルに吐き出される紙の上で線を描きながら、小さく不規則な動きをしている。床へと垂れ下がるその紙をそっと拾い上げてからあいまいな返事を寄越したキアンは、紙面を見つめながら難しい顔をした。


「やっぱり、あまり調子が良くなさそうだな」

「何か変な結果出てるの? 私、あの魔獣の魔力でおかしくなってたとか?」

「君じゃない、この生理検査器だ。どの項目も、途中までは正常に波形を描いていたのに……。ほら、ここで急にペンが動かなくなっているだろ」


 体をわずかに起こして示された箇所を覗き込む。キアンの言う通り、そこまでは描かれていた何本かの不規則な波線が、途中からただの直線にとって代わって並んでいる。


「これは君の体が発した生体信号を読み取って、それを波形にして表したものだ。生命活動が続く限り、この波形も描き続けられるはずなんだが……ニナ、一時的に死んだ記憶はあるか?」

「それはなかったと思……本気で聞いてる?」

「とにかく、これ以上データを取り続けてもあまり意味はなさそうだ」


 キアンはため息交じりにそう言ってから検査器を止め、私の全身のあちこちに付けられていたよく分からないものを外し始めた。どうやら私の問いかけに答える気はないらしい。


「アレックスが怒り狂わないかな」

「大丈夫。これだけあれば、データ量としては充分なはずだから」

「え、ちょっと待って。それで充分だっていうなら、ひと晩大人しくしてろって言ってたのは」

「君に対する嫌がらせか、そうでなきゃ好奇心を満たしたかっただけだろ」


 データを取る、と言っていた時のアレックスの不気味な笑みが脳裏をかすめる。あれは、正当な理由で私という生体についてのデータを取れる喜びからきたものじゃなく、単に自分の研究に都合良く事を運ぶための悪知恵を思いついた表情だったんだと思い至った私は、勢いよく体を起こしてベッドから降りた。


「なんだ、眠れないのか?」

「帰る」

「えっ。いや、でも」

「門限はとっくに過ぎちゃってるけど、別館なら入る術はあるの。リュカはともかく私は朝早くから仕事があるし、そもそも昇進してすぐに無断外泊するなんて、クレティエンからどんなきついお叱りを受けるか――」

「君とリュカをここでひと晩預かると、ブランモワ卿にはすでに伝えてあるんだが」

「……え」

「快く了承してくれたよ。君の方は明日の朝10時、本館の玄関ホール集合に間に合うように帰ってくればいいと返答もあった」


 私は、髪を結い上げようとしていた手を止めてキアンを振り返った。

 伝書鳩も早馬も、このラボにいるとは思えない。例えキアンが自ら屋敷に行ったとしても、この時間帯は中に入ることはもちろん、言伝だって受け入れてもらえないはずなのに。


「ど、どうやってそんな」

「声を飛ばしたんだ。君も見たことあるだろ、俺とリュカが魔術で話したところを」


 驚いた。あの時のリュカの様子から、声のやりとりはそれなりに高い制御力と魔力がないとできない技だと思っていた。でもギヨーム様はキアンの声を受け取り、なおかつ答えまできちんと返すことができているようだ。ギヨーム様が魔術を使っているところなんて見たことがなかったけれど、もしかして相当の使い手なのだろうか。


「ねえ、それってさ……その、魔術を使った連絡方法って、受け手も魔力が高くないとできないものなの?」

「魔術が使えないくらい魔力が低い相手にも送ることはできるよ。発信元である人間が、相手の魔力を前もって認識しているということが絶対条件ではあるが」

「そうなんだ。こないだリュカが、キアンの声を聞き取るのにかなり苦労していたみたいだから」

「ああ、あれは訓練の成果を見せてもらおうと思って、わざとノイズを混ぜて音量も下げて送ったんだ。これは攻撃魔術の一種なんだが、その中でも最長の有効射程距離を誇る術で、俺なら……そうだな、ブランモワ領ぐらいの範囲にいる相手ならクリアな音声を送信できる」


 ブランモワ領はフランメル王国内でも一、二を争うほどの面積を誇っている。それだけの範囲内にいる人間に間違いなくはっきりした声を届けられるなんて、魔術を使ったことがない私でもどれだけ凄いことなのかは理解できた。


「それじゃ、そもそも魔力のない私には声を届けられないってことか……」


 ただ何となく、魔術で飛ばした声を聞く、という体験ができないことが残念だという思いで零した言葉だったのだけれど、どうやらキアンは違った捉え方をしたらしい。少しむっとした表情を浮かべると、そんなことはない、と否定した。


「身に着けておいてもらう必要はあるが、君のシーフルが蓄えている魔力を感知すれば可能だよ。それに」


――こうして見えるところにいれば、魔力なしの君にも声は届けられる


 突然、耳元でキアンの囁き声が響いたので、私はあわてて右耳を抑えた。

 瞬間的に顔がものすごく熱くなり、鼓動もそれに伴って早まっていく。

びっくりしただけだ、そう自分に言い聞かせる。いきなり想定外の方向から、想定外の距離感で、想定外の音量で声が聞こえたものだから、すごくびっくりしただけだ。色んな想定外が重なっただけであって、囁かれたことに対して気持ちがおかしな方向に揺らいだとか、そういうわけでは決して、


「それにしても」


 一人で謎の言い訳を展開している私の思考回路を、ため息交じりに零したキアンの呟きが遮った。


「サミュエル二世が魔術を忌み嫌っているという噂は本当だったんだな」


 刺々しく、やや早口に言いながら、そばにあった椅子にどっかりと腰を下ろすキアン。突然、自国の王の名前が飛び出したことに驚いたせいか、真意を問い返す言葉すら出てこない。私は戸惑いを覚えながら、ただキアンの動きに倣うようにベッドに腰かけた。


「国にはそれぞれ統治の仕方があるし、他国の人間である俺がその方針をとやかく言うつもりはない。ただフランメル王国の人間は魔術や魔獣について、あまりに無知が過ぎる。自国民を危険に晒してまで魔獣の存在を隠すなんて、正気の沙汰じゃないだろ」


 キアンの語調は強く、眉間は普段よりわずかに寄せられている。言葉が不揃いに、不器用に組み立てられているせいで分かりづらくはあったけれど、フランメル国王が個人的感情である「魔術嫌い」のベクトルを、魔術を使う魔獣にまで向けているせいで、注意喚起や予防策を張ることができずに国民の安全が脅かされている状況を憂いているらしい、ということを読み取ることはできた。


「まあ……今の国王が魔術嫌いなのはホントだけどさ。ただ魔術が他の国と比べてあまり浸透していないのは、魔術がなくても暮らしていける国づくりを目指しているからで」

「バルジーナ皇国が魔獣討伐を放棄したらどうするんだ。あるいは戦線を破られたら? フランメル王国はあっという間に魔獣どもに滅ぼされてしまうぞ」


 不機嫌、とはまた違う。どちらかと言えば怒りに近いけれど、彼が抱えている負のオーラを纏った感情が何なのかを測りかねて、私は口をつぐんだ。


「魔術がなくても生活を営むことはできる。だがそれは、魔術を元凶とする災難から守る手があってこそ成り立つものだ。はなからバルジーナ皇国の力をあてにしているだけのくせに、何が魔術不要の……」


 黙り込んだのは私だけではなかった。窓から差し込む月の光が、キアンのハッとした表情を照らし出していて、その心情を一言で言い表すのなら、「しまった」が一番しっくりくるのではないかとぼんやり考えた。


「キアンがフランメル王国に来たのは、本当にお嬢様との婚姻を結ぶことが目的だったの?」


 ごく自然に、そんなことを聞いていた。話の流れとしては不自然なはずなのに、なぜか私の中では今キアンが言い淀んだことと繋がっている気がして、そして絶対に聞き出さないといけないという、強迫観念にも似た衝動が私の口を動かしていた。


「……急に何を言い出すんだ」

「ブランモワ伯爵の後ろ盾を得ることで、フランメル王国との太いパイプを繋げる。フランメル王国の豊かな資源をいい条件で流通させることが、本当の目的?」


 キアンは不自然な回数の瞬きを繰り返し、下唇を軽くかんで、何事かを考えるような仕草をみせた。何を言っても見透かされる。そんな言葉が、声に乗らなくても聞こえた気がした。


「……俺は嘘はついていない。君が今言った通り、フランメル王国とのつながりを強くすることが目的だった。それに間違いはない」

「嘘は言ってないけれど私には伝えていないことがある、そういうこと?」


 こちらをまっすぐに見返すヘーゼル色の瞳が放つ強い眼光に、揺らぐことのない意志を感じたと同時に、自分の問いかけがひどく押しつけがましく威圧的だったことに気付いたけれど、もう時は巻き戻せない。


「いまの質問に答える必要があるなら、その理由を俺に分かるように説明してくれ。納得できれば話す。そうでないなら、俺はその件についてはこれ以上何も話さない」


 低くくぐもった声。私に対する不信感がありありと伺えた瞬間、なぜか頭の中に“失敗”の文字が浮かんだ。


「ご、ごめん。ごめんなさい!」


 慌てて立ち上がり、勢いよく頭を下げる。太ももの前でお互いを握りしめ合う両手、その向こう側でかすかに揺れるスカートの裾を見つめながらさっきの自分の行動を思い返してみたけれど、なぜあんなことを聞き出そうとしたのか理解できるまでには至らなかった。ただ、キアンが咄嗟に浮かべた、まずいことを言ってしまった、というあの顔を見た瞬間、真意を聞き出さなくてはならないという謎の使命感のようなものが湧き上がり、そしてその湧き上がったものを何一つ疑うことなくキアンにぶつけてしまっていた。


「言いたくないことは言わなくていいの。私も知りたいとは思っていないし必要性もない。ホント、今のは完全に私が悪いから」


 静寂に耐え切れず、恐るおそる頭を上げる。私を捉える視線はきっとひどく冷たいに違いないと覚悟していたけれど、キアンの表情は思っていたものとはだいぶかけ離れていた。


「ニナ、今シーフルは持っているか」

「あ……、うん、えっと」


 信頼を失ったから貴重な石は渡せない、そう言われてしまうのだろうかと不安になったけれど、こういう事態を招いたのは他でもない私自身だ。返せと言われたら素直に従おうと心に決め、自分のハンドバッグに入っていることを伝えるために、ベッドのそばの小さなサイドテーブルを指し示した。


「手心孔に当たるよう手で握りこむんだ。スピアレフリードくらいの魔力なら、すぐに吸い出されるはず」

「え……えっ、何、どういうこと?」

「アレックスが説明していただろ、スピアレフリードは心操作系の呪術をかけると」


 どうやらキアンは、私が突拍子もなくあんな質問をしたのはスピアレフリードに操られたせいだと考えているらしい。


「違う、さっきのは……私が自分の意思でキアンを問い質したの。なんであんなことをしたのかは、自分でもよく分からないんだけれど……」

「呪術にかかった人間は、自我を取り戻したときにみんなそう言うんだ。だからきっと君も同じはず。スピアレフリードの魔術にやられたに違いないんだよ」

「でも私、サークシャート孔はないんだよ? それに、」

「もしかしたら、別の魔力孔から働きかける方法をとったのかもしれないじゃないか」


 心を操る呪術は、サークシャート孔を通してしか発動しないとされている。キアンたちが作ったうそ発見器のように、他の魔力孔から疑似的にマインドコントロールすることは可能らしいけれど、それには通常の呪術に使うより大量の魔力が必要な上、複雑で微細な制御をしないといけないそうだ。つまり、魔力をほぼ持たないスピアレフリードにはできない芸当なわけだけれど、キアンはもっと大事なことを忘れている。


「呪術がニナに何らかの影響を与えたとは考えられないね」


 私がキアンの考えを否定しようと口を開きかけた時、それを代弁するかのような声が飛んだ。キアンが軽く振り返り、私もキアンの肩越しにその声の主に視線を向ける。そこには、いつの間にか開け放たれていた部屋のドアに寄りかかって腕を組むアレックスの姿があった。


「呪術というのは心身のどちらを対象にしていたとしても、相手の体内の魔力を操るものだ。サークシャート孔うんぬんの前に、そもそも魔力自体が皆無のニナが術にかかる道理はない、ということくらい君なら考えなくとも分かるだろう」


 キアンは一瞬だけ目を見開いて、私を見下ろした。その表情にタイトルをつけるなら、「そう言えば」というのが一番しっくりくるような、ちょっと呆けた顔をしている。


「まったく……思い込みを原動力にして暴走するその癖、いい加減どうにかしたまえよ。呪術はかけられると相当厄介だから焦る気持ちも分からなくないが、誤った判断で処置をすれば、取り返しのつかない事態に陥ることだってあるんだぞ」


 呆れた吐息交じりの指摘に、キアンは何も答えない。答えない代わりに、不機嫌そうにそっぽを向き、うるさい、と小さく呟いた。


「まあ、小言はこれくらいにしておくとして……ニナ、少し聞きたいことがある」


 腕をほどきながら、ドア枠に預けていた体を起こすアレックス。さえた月の光を吸い込んだせいなのかもしれない、その瞳の色が、いつもより鋭いように感じた。


「君、死んでいる間に何を見た?」







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