青空とリンゴの木
王都からの使者 1
背中に激痛が走る。突き飛ばされ、床に押し付けられたことによる痛みだ。
ここで仕事を続けたければ、言う通りにしろと脅された。大人しくしていれば悪いようにはしないと、吐き気のするような嫌な笑みを向けられて。
真っ先に頭に浮かんだのはリュカのことだった。あの子のために自分がすべきこと、身の振り方、考えて、考えて、そうして出した答えは――。
「ニナ! 私、バランド子爵にお会いしちゃった!」
急なご客人がいらしたということで、私は顔を合わせないようにとのロジェからの指示で別館に戻っていた。そこに興奮気味に駆け込んできたのは、休憩を取りにきたマノンだった。
「すっごく素敵だったわ~。私に向かって優しく微笑んで下さったの!」
「ふーん……」
「ちょっとぉ、何なのその気のない返事。もうちょっと興味持ってよね」
興味がないことはないけれど、できれば関わり合いにはなりたくないと思っているのは確かだ。
バランド家に対して私が行なったとされる脅迫、強要、名誉棄損といった罪は賠償金を支払うことできちんと償っていて、あの件に関して私が逃げたり隠れたりする必要は一切ない。とは言え、あんな不祥事を働いた当人であるとギヨーム様のお耳に入ってしまえば、私は即刻この家から追い出されてしまうだろう。
ひとつ幸いだったのは、ここに来たのがあの時バランド子爵家当主だったジェロームではなく、その甥であるマクシミリアンだということだ。
ジェロームは隠居して爵位を譲ったのか、そうだとして、なぜ息子ではなく甥が”バランド子爵”と名乗っているのか、いろいろと分からないことだらけではある。ただ、マクシミリアンはさすがに私の名前は知っていても顔までは知らないだろうし、ニナ・アルエという名前だってフランメル王国ではけっこうありきたりなものだから、もし何かの拍子で私がここで働いていることを彼が知ったとしても、同姓同名の他人だとシラを切りとおすことができる。
バランド子爵、という名前を聞いた時は、当時の記憶があまりに鮮明に蘇ってきてつい取り乱してしまったけれど、そもそも私が不安を感じる要素なんて何一つ、そう何一つないはず……。
「お若くていらっしゃるのに、どこか影があるというか……本当にお疲れのご様子だったのよ」
「長旅だったからじゃない?」
「体がというより、精神的に参っていらっしゃる感じだったわ。まあ……無理もないわよね。ご事情がご事情だし」
窓際のソファに体を沈み込ませるように座りながら、マノンがため息交じりにそう言ったので、私はダイニングテーブルを拭いていた手をぴたりと止めてマノンの方に向き直った。
「最悪の事態は免れたそうだけど、バランド家はいまかなり危ういらしいのよ。と言うのもね、」
「ちょ、ちょっと待って」
軽い口調で先を続けようとするマノンを制止する。
「ねえ、まさか……旦那様とバランド子爵のお話を盗み聞きしたんじゃないよね?」
恐るおそるそう聞くと、マノンは落ち着けたばかりの体を勢いよく起こして私の元に駆け寄り、しーっと自分の唇の前に人差し指を立てた。
「人聞きの悪いこと言わないで! 聞こうとしたんじゃなく、偶然聞こえちゃっただけなんだから」
「いやでも、だからって……」
「んもう、固いこと言わないでよぉ。王都にいるやんごとない人たちの話をするくらい、別に大したこっちゃないって」
聞こえた、だろうが聞いた、だろうがどっちでもいい。使用人が主人の秘密を知ってしまうのは仕事柄仕方のないことだから、そこをどうこう言う気はない。ただどんな形で情報を得たにしても、誰かに勘付かれるような発言は控えるべきであって、世間話やゴシップ感覚でベラベラと話していいことではないのだ。
「あ、でもミセス・ロジェには黙っておいてくれると有難いかな。あとで絶対怒られるし」
「誰が相手でも私はぜったい喋らないよ。マノンと違ってね」
「うっわ、意地悪なんだから! じゃあもう話すの止そうか」
「止さなくていい。聞かせて」
興味あるんじゃん! とマノンに肩を強めにバシバシと叩かれ、顔を歪める。
私にとって不幸の発端ともなった事件を起こした相手の秘密なんて、復讐だとかの邪心を誘因することにもなりかねないからできれば知りたくはない。でも、遠路はるばるブランモワ領までやってきたそのご事情とやらが分かれば、この乱れた心の動きを落ち着かせることができるかもしれない。
そしてあまり考えたくはないけれど、早急に逃げる手筈を整える必要があるかどうかを確認するためにも、事情はあるていど把握しておくべきだと思ったのだ。
……興味本位から聞き出そうとしてるわけじゃないんだってば。
「なんかね、マクシミリアン様は人を探していらっしゃるそうなの」
「人?」
「うん。何て言ったかな……ナントカ家のご令息らしいわ」
ご令息、ということは、ナントカ家というのは爵位を持った家のことのようだ。やっぱり自分は関係なかったと密かに胸をなで下ろし、テーブルの拭き掃除を再開した。
「そのお方が見つからなければ、バランド家はお取りつぶしになるみたいなのよ」
「えっ……」
「かなり高位の方から命じられた指令らしいわよ。チョクレイ、とか言ってたなあ」
「勅令!?」
ほっとしたのも束の間、思いがけない展開になっていることについ大げさに驚きの声をあげてしまった。私の食いつきに気を良くしたマノンの表情が輝きを増したのを見て、しまった、と思いつつも、やっぱりこの衝撃は隠しきれるものじゃない。
マノンの聞き間違いでないとすれば、その人探しは国王が直々に命じたものだ。平民である私が言えることじゃないけれど、宮廷における地位すら与えられていない、本家であるバランド伯爵の補佐的存在という立ち位置のバランド子爵に対して国王が直接命令するなんて、どうしたって考えられない。
しかも失敗すればお家断絶だなんて……。
「それにしても、ホントにお可哀想よね。ご本人は何も悪くないのに、前当主の尻拭いをさせられて」
「尻拭いって……何それ、どういうこと?」
「んー、よく分かんないけど、バランド子爵家の前当主が何か悪さをしたっぽいんだよね。それに怒った本家の一番エラい人が前当主をお家から追い出したらしいの」
「……」
「マクシミリアン様はただ本家に命じられて動いてらっしゃるっていうだけで、なぜ子爵家を継がされたのかとか、その辺の詳しいことは全く聞かされていないそうなのよ。ただいきなり重い責任を負わされて、この1年各地を飛び回っていらっしゃるらしいわ」
私も何かお役に立てないかしら、そう呟いて切なげにため息をつくマノンをよそに、テーブルを拭く手を漫然と動かしながら考える。
何となく、概要が見えた気がした。ジェローム・バランド子爵、もしくはその家族の誰かが、王家を動かすほどの取り返しのつかない何かをやらかしたんだろう。子爵家当主のジェロームだけではなく、父親のシプリアン・バランド伯爵も同様にその責任を問われたため、伯爵はジェローム・バランドから爵位を取り上げて、本来なら継承順位の低いジェロームの甥、マクシミリアンにバランド子爵を継がせて責務を果たさせようとしているのだ。
「それにしても、前当主とそのご家族は何してるんだろうね? 何をやったかは知らないけど、自分たちの仕出かしたことなら自分たちで後始末すればいいのに」
「マクシミリアン様はそれすらご存じないの?」
「分かんない。旦那様もお尋ねにはならなかったし、マクシミリアン様の方から切り出すことがなかったから」
「ふうん……」
”勅令”というその重さから考えて、失敗すれば子爵家のみならず、バランド伯爵まで全てを失うことになるのだろう。それを思えば、やらかした者の末路なんておおかた決まっているようなものだ。ギヨーム様もたぶんそれを察していて、敢えてお聞きにはならなかったんだろう。
「とにかく、そういうわけだからさ! 私も捜索に協力しようと思うのね」
「……」
まあそうだろうな、と思った。マノンの思惑というか、その流れになることは何となく読めていたから驚きは感じなかったし、この後の展開もおぼろげには見えている。それでも、仕事仲間を危険なことに巻き込ませないためにもしっかり釘を刺しておかなくてはいけない、そんな使命感みたいなものに駆られた私は、やめた方がいい、と首を横に振った。
「余計なことに首を突っ込んだら、このお仕事を失うことになるよ。そもそも”ナントカ家のご令息”なんて曖昧すぎる情報しかない状態で、何をどうがんばるのよ」
「それは……ほら、マクシミリアン様から詳しいお話を聞けば」
「詳しいことって、何て聞くの? 依頼されたとかならともかく、こっちから勝手に協力を申し出たりしちゃったら、私こっそり聞いてましたって白状するようなもんじゃない」
呆れ気味にそう言うと、マノンはハッとした表情をして、雑巾を握ったままの私の手を勢いよく取った。
「そっか、そうよね! マクシミリアン様から正式にお手伝いのご依頼を頂くには、まず信頼を得なきゃ!」
「はっ?」
「アドバイスありがとう、やるべきことが見えた気がする!」
マノンはそう言って一方的に私に抱き着き、背中をポンポンと叩くと、勢いよく部屋を飛び出していってしまった。
余計なことをすれば職を失うこと、そもそも情報が少なすぎること、その情報を手に入れようとすれば自身の不義を晒す結果になること……自分の発言を思い返しながら、なぜマノンがああいった結論に辿り着いたのかを必死考えたけれど。
「なんでそうなっちゃうの……?」
彼女の思考回路を理解するには至らなかった。
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