邂逅
結局、ゆうべ夜間警らの面々に勤務前の給仕をしていたところをロジェに見つかってしまった私は、さんざん絞られはしたけれど、今日からの仕事復帰を認めてもらえることになった。
何もしないで日々が過ぎることに焦りを感じ始めていたところだったから、久しぶりに与えられた仕事に感慨深ささえ覚えた。
そんな雨上がりの午後。オデットに頼まれた買い出しから戻った私は、キッチンそばの勝手口で靴の泥を落としていた。
「ニナ」
声を掛けられ、顔を上げる。そこには、つばの広い麦わら帽子をかぶり、遠い異国の作業着、”サムエ”というものを着込んだギヨーム様が、いつになく神妙な表情を浮かべて立っていらした。
「あっ……申し訳ございません旦那様、お見苦しいところを」
たくし上げていたスカートを戻し、汚れ落とし用のブラシを後ろ手に持ち直して隠すと、私は頭を下げた。
「体調はどうかな」
「ええ、もうすっかり元通りです。その節は大変ご迷惑をお掛けしました」
「そっか……。うん、そうか」
沈黙が流れる。ギヨーム様は口を薄く開いてはすぐに閉じてしまわれたり、視線を右へ左へと忙しなく向けたりなさっていて、何だか落ち着かないご様子を見せていらした。
「旦那様、ここは使用人が出入りするところでございますので、あまり長居されるとミスター・ラスペードにまた注意されてしまいます。よろしければロビーかダイニングの方へ参りませんか。お茶をお入れして伺いますので」
少し腰を据えられればお気持ちに余裕もできるだろうと思い、なかなか話を切り出さないギヨーム様にそう促す。そもそも、靴は汚れたまま、買ってきた食品もサイドボードに置きっぱなしの状態でギヨーム様と向かい合っているのは、私の方も居ずまいが悪いのだ。
ギヨーム様は、うん、だか、ああ、だか、よく聞き取れなかったけれどご返事をなさったので、自分の提案が受け入れられたのだと判断し、この場を後にされることを見越して会釈を返そうとした。
「申し訳ないことをした!」
突然、よく通るはっきりした声でそう言いながら、ギヨーム様が頭を下げた。
使用人の中でも一番下っ端の小間使いに対して、主人であるブランモワ卿が直角に腰を曲げて謝罪の言葉を口になさっている。私はあまりの事の重大さに頭が回らず、固まったままギヨーム様のお姿を見つめた。
「ラスペードやロジェには叱られたし、エレーヌからも小一時間ほど説教された。酒席で私も酔いが回っていたとはいえ、あれはあまりに配慮が足りなかった」
「……」
「リュカを独りぼっちにしてしまうところだった。本当に、本当にすまなかった」
一旦体を起こして私に謹厳な表情を向けてから、ギヨーム様は麦わら帽子を取って胸に当て、改めて深々と頭を下げた。
こんな様子をラスペードに見られたら、それこそ大目玉を食らうんじゃないか、そんな考えが頭に浮かんだ瞬間、私はようやく我に返った。
「申し訳ございません、旦那様!」
服が汚れるのも気にせずその場で跪き、両手と額を床につける。
「悪いのは私です。魔力が全くないという特異体質は、雇って頂いた時にお伝えすべきことでございました。言えば仕事を失うかもしれないという恐れから、これまで口を噤んでいたのでございます」
「ニナ……」
「そのせいで旦那様やお嬢様には余計な心労をお掛けしてしまい……お詫びの言葉も見つかりません」
そこまで一気に言ってから、私は息を止めて唇を噛んだ。
この国において魔術が使えるかどうかというのは、宮廷料理人にも負けないくらい美味しい料理が作れるとか、服なら普段着からロイヤル・ボール用のドレスまで何でも作れるとか、そういったちょっと人より抜きん出た才能がある、程度の認識だ。
でも魔力を持たない体質であることを隠したのは悪手だったと、今回痛い目を見、そして周りに迷惑をかけたことで心底後悔した。もし事前に知らせておけば、キアンは私をあのうそ発見器にかけることはなかっただろうし、仕事に穴をあけることもなかったはずなのだ。
「ニナ、頭を上げてくれないか」
ギヨーム様の声が心なしか震えていらっしゃるように感じ、私は床についた手で上半身を押し上げて、ご様子を確かめるために視線も上方へとすべらせた。
見上げた先の凍り付いたお顔、そして肩越しに見える鬼のような――
「お父様、一体どういうことかしら。なぜニナに膝をつかせているの?」
エレーヌ様の形相に、私の背筋も凍った。
「ち、違うんだエレーヌ。これには深い訳が」
「ええ、そうでしょうね。ではその深い訳とやらを詳しくお聞かせ下さいませ」
定型文みたいな言い訳をするギヨーム様に、エレーヌ様は遠慮なく詰め寄っていく。私は慌てて立ち上がり、礼を失していることを承知でエレーヌ様の前に立ちはだかると、そのまま勢いよく頭を下げた。
「あ、あ、あの、お嬢様! 旦那様は何も悪くないのです。私の不手際のせいでご迷惑をお掛けしたことに対して、私が勝手に謝罪をしただけのことでございますので」
「ニナは黙っていて頂戴。……お父様、この際ですからはっきりとお伺いいたしますけれど、」
「ギヨーム様!」
修羅場になりそうな空気に割り込んできたのは、ラスペードの張りつめた声だった。振り返ったエレーヌ様の向こう側に見えた彼は珍しく焦っているようで、額に汗を滲ませながら大股で歩いてこちらに向かっている。
「王都よりお客様がお見えになっています」
「王都から? 今日はそんな約束はなかったはずだけど」
「ええ、緊急を要するとかで事前のアポイントが間に合わなかったそうなのです」
「追い返してよ。いま、エレーヌに説教されてる途中なんだ」
「今日のところはお引き取り頂くようお伝えしたのですが、どうしても、今すぐに確認したいことがあると……マクシミリアン・バランド子爵がそう仰っていて」
その名前を聞いた瞬間、自分の心臓が有り得ないくらいに大きく鳴り響くと共に、時間が一気に巻き戻されていくような感覚に陥った。
人々からの好奇の眼差し、心無い罵声が今まさに自分に投げかけられているような、そんな錯覚。そう、錯覚だと分かっているのに、こうして握りしめた手は小刻みに震えてしまっている。
「ラスペード、バランド子爵をすぐに応接間に通してくれ。私の着替えの準備も頼む」
「かしこまりました」
「それからエレーヌ、悪いが説教は後だ。続きは夕食の時にちゃんと聞く、それでいいね?」
「え、ええ……」
慌ただしくその場を後にするギヨーム様に、ぎこちなく頭を下げる。急な態度の変化や、アポなしの相手とお会いになるという普段では考えられない行動を気に掛けられるほどの心の余裕はなかった。
バランド子爵――私の財産を全て取り上げ、王都から追い出したあの一家の名前をまさかこんな離れた土地で再び聞くことになるとは、予想だにしないことだった。
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