第二部・第1話

 広がる世界。

 そして小さくなっていく。

 小さな一点へ。

 少しずつ紐解きながら。





 雨の音。

 それは激しい音だった。

 水溜りと濡れた路面の区別さえつかないほどの激しい雨粒が、足元を埋め尽くす。

 それはまるで、月明かりに反射するかのように輝いていた。

 明らかに合わないサイズの濡れたスニーカーが、雨音とは違う履き心地の悪い音を立てる中、擦り切れた靴底までも雨に流されそうになる。常に警察には追いかけられていたが、夜に国軍兵士に追いかけられるようになってから三日目。

 ──警察が諦めて、次は軍隊が出てきた────

 アイバはその程度に考えていた。

 アイバにとっては、人を殺すことなど、いつものこと。

 生きるため。

 食べるため。

 首都には民間部隊はいない。他の都市では警察の上に民間部隊が存在したが、首都に於いては政府の警備を兼ねた国軍部隊が直接の指揮を取っていた。

 アイバも、何となく人を殺すことが悪いことであるくらいのことは分かっていた。しかし物心のついた頃から路上で暮らすことが当たり前で、何度も主人が代わり、他の多くの少女達と同じように体を売る毎日。主人の言う通りに体を好きにさせることで、なぜかそれで食べていけた。

 その理由も意味も分からない。理解しようとすら考えたことがなかった。それだけがアイバの記憶であり、経験──世の中の存在を知らなければ、疑問を持つこともない。そのくらいにアイバの世界は狭かった。

 一つだけ間違いないことは、それが楽しいことではなかったこと──。

 いつも、気持ちが悪かった…………。

 しかし、ある日、世界は広がった。

 いつものように主人に指を刺され、名前を呼ばれ、見知らぬ男に着いていく。

 その男はいつもの部屋に入ると、アイバをベッドに叩きつけた。

 男は何度もアイバの顔を平手打ちにすると、口と鼻から血を流すアイバを見て口元に笑みを浮かべる。

 その時、アイバは初めて恐怖を感じた。

 軋むベッドの音が耳の奥にこびりつく。

 ただ、怖かった。

 目の前でベルトを緩める大柄の男が誰なのかも知らない。

 その男が何を求めているのかも分からない。

 いつもとは違った。

 初めての感情──。

 そして、初めての感覚──。

 言葉で言い表すことの出来ない、おかしな、何か込み上げるもの──。

 そして、やがてそれは、男を壁に叩きつけた。

 目の前が、いつの間にか、淡く緑色に染まっている。

 目の前だけではなかった。

 周囲が緑の光で包まれている。

 理解が出来ない──。

 意味が分からなかった。

 緑の光の向こうで、目の前の男は倒れたまま。

 途端に湧き上がる憎悪──。

 その憎悪は、やがて男の体を押し潰す。

 細かなパーツを残して、男の体はバラバラになった。

 アイバは硬いベッドの上に立ち上がる。

 撒き散らされた赤黒い液体が少しずつ広がっていく。

 その男の体を見下ろしながら、不思議とその光景を怖いとも気持ち悪いとも感じないまま、アイバはベッドを降り、部屋のドアを開けた。

 緑色の光に包まれたアイバを見つけた〝主人〟が唖然とその姿を見続けたが、やがてその体と意識は床に撒き散らされる。

 その光景に、何の感情も湧かなかった。

 いつも〝自分たち〟のいる部屋のドアを開けるが、いつもとは違うアイバの姿を見ても、誰も感情のない目で見つめてくるだけ。しかし、いつもと違うことだけは分かった。いつもなら、部屋に戻っても誰も目を合わそうとはしない。アイバもそうだった。部屋のドアを開けた誰かと目を合わせたことはない。それでも今は違った。バラバラに座り込む一〇人ほど全員がアイバを見ている。

 何の感情もない目──。

 誰の目にも生気は感じられない。

 初めて見る、同じ部屋で生きてきた少女たちの目──。

 しかし、その目が自分と同じであることすら、アイバは知らなかった。

 次の瞬間、少女たちの体は部屋の壁に叩きつけられ、男と同じ赤黒い液体で壁と天井を塗り上げる。

 その日以来、アイバは一人で生きてきた。

 初めて世界の広さを知ったその夜から。

 そして数ヶ月、食べるためだけに生きた。

 何度も警察に追われ、その度に緑の光はアイバを助け続ける。

 そして三日前から、国軍に追われ始めた。

 何人もの兵士を殺した。しかしアイバが直接何かをしているわけではない。アイバが窮地に追い込まれる度に、緑の光が兵士を吹き飛ばした。銃弾も跳ね返す。

 その光が何なのか、考えたこともなかった。それが特殊なことであることもアイバは知らない。しかしその光は兵士たちを悩ませる。

 その夜は大粒の雨にも悩まされていた。すでに犠牲は七名。

 大隊長である大佐のカイズ・マズミは、指揮用の装甲車の中で直接の指揮を取っていた。車内のモニターを見ながら呟く。

「なるほど……確かに子供だな」

 モニターでは細い路地の奥で緑に光る球体に包まれたアイバが立ち尽くしている。

 カイズはもうすぐ六〇才を迎えようという重鎮の現役軍人になる。国軍上層部でも受けがいい。エリート組ではあるが、若い頃の世界対戦時に最前線に就いたこともある。信頼も厚い。当然、各方面へのパイプも太い。アイバの存在も若い頃から交流のある警察幹部からの情報だった。本来であれば国軍が動く分野ではない。当然、防衛省には内密の作戦。そのため、カイズは動かずに部下がアイバを捕獲する計画だった。しかし二日で七名もの犠牲者を出しては、いくら戦時中とはいえ、ここは最前線でもない。重鎮であるカイズでもこれ以上の隠蔽は難しい。どうしても今夜中にアイバを捕獲しなければならない。

 カイズはアイバを欲した。

 噂を聞き、部下からの報告を聞いた上で、カイズはアイバを部下として手に入れるべきだと感じていた。

 そして実際にその姿を目の当たりにし、カイズは確信した。

 ──使える────

「怪我だけはさせるなよ」

 カイズのその言葉に、すぐ隣の兵士が応える。

「こっちですよ……やられるのは──」





 翌日の夕方、部屋の窓からの明かりがオレンジ色に染まる頃。

 防衛省の第三審議室に呼ばれたカイズは、蒸し暑さから来るであろう鬱陶しさを感じながらも、時間通りにそのドアを開けた。

 最初に目に入るのは簡素なパイプ椅子が一つ。その椅子からは少し離れ、向かい合うようにして長いテーブルと椅子が三つ。その真ん中の椅子に座る一人の軍人。

 室内の空気は外とさほど変わらない。辛うじて空調は動いているようだが、あまり効果があるとは思えない湿度の中、カイズは当たり前のように目の前のパイプ椅子に座りながら口を開いた。

「防衛省は相変わらずの経費削減か? 朝までの雨で湿度が高いっていうのに……」

「突然の呼び出しにも関わらず、ありがとうございます」

 それは女の声だった。

 カイズからは影で顔が見えにくい。

 カイズが応える。

「監査部の人間だろ? 誰だって構わんが……」

「私は防衛省内部監査部のシーラ・スノー少佐です。今回は──」

「スノー? ああ……元帥の孫娘ってのはあんたか? しかも父親は今や防衛大臣──まだ防衛省に入ったばかりなのに少佐ってのは、エリートだからか?」

「今は私の出生は関係ありません。今回は──」

 シーラの声に明らかな苛立ちを感じ取ったカイズは詰め寄る。

「訓練期間が終わったって言ったって実戦経験はないんだろ? いい時代だな……」

 シーラが無言で目の前のファイルを開き始める中、カイズは構わず続けた。

「俺も産まれのお陰でエリート扱いだったが──自分で望んで最前線に行ったもんだ」

 シーラがファイルから顔を上げ、カイズに鋭い目を向けて応える。

「大佐の経歴は存じています──記録に残っている戦歴と…………噂話まで──」

「ほお…………」

 カイズは椅子の背もたれに大きく寄り掛かるように背中を伸ばした。

 目線を外さずに、シーラが続ける。

「ここ数日の……報告のない軍事行動と、それに伴う犠牲者の数の理由を説明してください」

「それか……何を聞きたいのかと思えば──」

「ここ最近は首都でのテロや反政府活動等は報告されていませんが、大佐は大隊の中から二部隊も動かし……しかも、そのいずれもが未報告です」

「──実践経験もない新人如きに現場の何が────」

「色々と聴こえてきている噂もあまり明るいものではありません……その上で今回の活動と犠牲者の数は見過ごすわけにはいきません」

「あの程度──」

 瞬時に大きな音を立ててファイルを閉じたシーラが立ち上がる。

「一六名の死者です‼︎ 怪我人は二五名‼︎ それに大佐には部隊員へのクーデター教唆の疑いもある! 説明を!」





 そのおよそ一時間後、シーラは防衛省の大臣室にいた。

 一ヶ月ほど前に防衛大臣に就いたばかりの父親のオフィスでもある。日はすでにだいぶ落ちていた。オレンジ色の夕暮れは沈みかけ、あっという間に部屋中の影が広がっていく。

 暗くなり始めた部屋の灯りが灯された。そのスイッチはドアの横。そこから大きなデスクの椅子まで歩きながら、シーラの父、グウェルは口を開いた。

「つまりお前は……カイズ・マズミ大佐がクーデターを企てていると言うのか?」

 グウェルはゆっくりと深く、専用の大きな椅子に腰を下ろしながら続ける。

「確かに未報告での活動には謎がある……犠牲者の数も前線並み……しかもそれを隠蔽しようとしていた節もある……しかし……その隠蔽を出来る立場でもある、ということを分かって言っているのか?」

「どういう意味でしょうか……」

 空調の聞いた渇いた空気を感じながら、シーラは毅然としたまま。少し前まで首筋に感じていた汗もいつの間にか存在を失う。

 ──経費削減って…………

 グウェルはそのシーラから目線を外して応えた。

「そういう立場の人物だということだ……〝権力〟という言葉は学校で習わなかったか?」

 シーラは言葉を一度飲み込む。首筋に再び現れた汗は、さっきまでとは違う。

 しかし感情を表に出すことは嫌いだった。

「お父様は──」

「大臣と呼びなさい」

「──大臣は…………大臣の、目の前にある資料が、総てです……そこに半年分の資料があります」

 グウェルは俯きかけたシーラの顔を見ながら、目の前の紙の束を触ろうともせずに応える。

「少佐……お前はまだ若い……防衛省に配属されてまだ二年も経っていない……内部監査部から別の部署に──」

「結構です」

 シーラは即答し、そして続けた。

「今は戦時です──クーデターの可能性は見過ごすわけにはいきません」

 しかしグウェルも雄弁に応える。

「確たる証拠はない」

「ですから我々は半年も──」

「お前自身の立場を悪く──」

「しかしクーデターが事実なら──!」

「正義感で仕事をするな!」

 突然大きくなったグウェルのその声に、一瞬だけシーラの気持ちが後ずさる。

「……何を──お父様だって軍人じゃありませんか⁉︎」

「〝軍人だから〟だ──お前には将来だってある」

「──そんなもの────」

「これ以上の調査は許可出来ない──すぐにチームを解散しろ──」

 シーラは少し間を開けながらも、言葉を捻り出した。

「それは職権の────」

「命令だ──」

 何も言い返すことが出来ず、シーラは無言で背を向ける。

 悔しさしか残らない。

 諦めることへの悔しさか、今の自分では立ち向かえないことへの悔しさか。

 幼い頃から父親らしいことをしてもらった記憶などなかった。そもそも信頼してはいない。そのはずなのに、なぜか悔しかった。

 軍人の家庭で軍人としての英才教育を母から押し付けられ、父はいつも家にいなかった。幼い頃から軍服の記憶しかない。一緒に食事を取ったのは数えるくらい。世間一般の〝親〟とは明らかに違うのだろう。そのくらいのことはシーラにも分かっていた。

 そんな父が今は防衛大臣。

 防衛大臣として、政治家でもある父が守るのは〝正義〟ではない。

 〝権力〟そのもの。

 そのために、シーラは利用されるだけ…………。

 シーラは数日前に転属願いを提出していた。それも最前線──もちろん家族の誰にも話してはいない。

 家から離れたかった。

 家族から離れたかった。

 絶対に、家族の誰もが望まない最前線──初めての反抗でもあった。

 しかしそれが受理される前に、シーラはカイズを追い詰めたかった。

 翌日、すぐにシーラは動いた。

 カイズの補充隊員の編成要請に、内部監査部の若い兵士を潜り込ませる。

 その五日後──その日はその若い兵士から最初の報告が届く日────。

 朝──強い陽射しの当たる防衛省の入り口を潜ったシーラに近づいてきたのは、同じ内部監査部のリリ────彼女はシーラと同期でもあり、防衛大学時代から仲もいい。

 そしてシーラの横に並び、小さく呟く。

「……あの子…………ダメだったみたい…………」

 シーラは冷静を保つために歩き続ける。

 しかし、その足音の小さな変化にリリは気付くも、目線は前を見たまま。

 シーラとスパイ兵士の直接の接触は避ける計画になっていた。その橋渡しがリリの役目。その囁くような声が続く。

「今、詳しい情報を集めてる…………でも……〝黒〟だね……」

 しかしその日の夜までに収集出来た情報は、スパイ兵士の死亡報告書のみ。

 扱いは訓練中の事故死…………。

 暗くなってから、外は数日ぶりの大雨────。

 軍人とはいえ、シーラは恐怖を感じていた。

 もはやカイズは何をしてもおかしくない危険人物。

 自らの命の危険も考えなくてはならない。

 広い内部監査部のオフィスも、他の部署と同じように夜は薄暗い。戦時中の経費削減が妬ましくさえ感じる。

 部屋のドアが開く音でさえ決してシーラには気持ちのいいものではなかったが、入ってきたのはリリだった。

 その姿を見るなり、最初に口を開いたのはシーラだった。

「今夜も遅くさせてごめん……」

「いいよ、こういうことは私の方が向いてる」

 言いながらリリはシーラに近づいて、小声になる。腰を曲げ、椅子に座ったままのシーラに目線の高さを合わせた。

「──部隊が動いた…………あいつも一緒にいる…………二部隊…………」

 自然と声を落としたシーラが応える。

「こっちは?」

「こうなった時の指示通り────二部隊…………公式に」

 シーラが立ち上がった。

 そしてブーツの足音を部屋中に響かせながら、口を開く。

「あなたは来ないで──」

 そういうシーラの足音に自分の足音を重ねながら、リリの声。

「嫌だね。一緒に最前線に行く仲間を信じてよ」

 しかし、シーラは後ろをついてくるリリを振り返りざまに制した。

「だから…………あなたに死んでもらうわけにはいかない」





 日付が変わろうとする遅い時間──さらに雨足は強くなっていた。

 気温のせいか、霧がかり、街中の街灯のせいで益々視界は悪い。

 シーラの部隊は完全にカイズの部隊の位置を把握していた。カイズ側の車両はスラム街を取り囲んでいる。

 小さな指揮車の助手席でモニターを見つめたままのシーラに、運転席の兵士が聞いた。

「スラム街なんかで、何をしているんでしょうか」

「さあね……新兵の勧誘かしら」

 そんなふうに応えながらも、シーラもやはり同じ気持ちだった。

 ──軍部に内密で何をしているの…………?

 クーデターに繋がる告発があったとはいえ、未だにカイズの目的は分からないまま、やがて部隊はスラム街を見下ろせる少し高い位置に待機する。全ての車両がライトを落とし、指示を待った。

 僅かとはいえ霧の中。決して見通しは良くないが、それでも微かな街の灯りが見える。

 その光景をフロントガラス越しに眺めながら、シーラは動きを待った。

 やがて、霧の中の灯りが大きく動く。

 ────?

 それは緑色の光だった。

 次第に大きくなっていく。

 ────なに?

 直後に耳まで届く銃声──狭い範囲で鳴り響いていたが、それは霧と雨に乱反射してシーラを惑わせる。しかしシーラはヘルメットのマイクに向かって叫んだ。

「全車両動くぞ! 下に広がる部隊を取り囲め!」

 そのシーラの目線の下、スラム街の一角で緑の光と対峙していたカイズは、光越しに幼いアイバを見つめていた。

 まだ小さな体に幼い顔つき。

 しかし、その目だけは子供の物とは思えない。

 今までの誰からも感じられなかったほどの鋭さ。

 カイズの横には数名の兵士が自動小銃を構えているが、誰もがその銃の無意味さを分かっていた。

 カイズは一歩ずつ、ゆっくりと光に近づいていく。

 確信があった。

 確かに少女を包み込む光の球体は銃弾を跳ね返す。人や物を吹き飛ばす。

 しかし、周りの建物の壁は壊されてはいない。

 それに何より、少女の体は雨に濡れていた。

 髪の毛も、ボロボロの服さえも。

 少女に対して〝敵〟とみなされる物以外は──あの光の中に入ることが出来る。

 カイズはそう確信していた。

 何者なのかは分からない。

 しかし、味方に引き入れられたら、それは強力な〝武器〟になる。

 味方だと思って貰えばいい…………。

 ──こういうことは警察のほうが得意そうだな…………

 そんなことを思いながら立ち止まると、カイズは右手で左脇のホルスターからオートマティックの拳銃を取り出した。それをゆっくりと濡れた地面に置くと、肘を曲げて両手を上げる。

 そして口を開いた。

「お前たちも銃口を下ろして後ろに下がれ。誰もあの子に銃口を向けさせるな」

 そして、ヘッドセットのイヤホンに無線の声。

『大佐!──国軍だと思われます──囲まれました──!』

 明らかに慌てた声だ。

 カイズはあくまで冷静に応える。

「絶対にこっちからは手を出すな」

 カイズは光に近づいていく。

 光の目の前──カイズは年甲斐もなく心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。前線を退くようになってから、しばらくこんなに興奮したことはない。

 背後の兵士たちもその光景を見ながら息を飲む。

 カイズの顔を濡らすのが雨なのか汗なのか、本人にすら分からない。

 目の前の緑の光からは、熱を感じるわけではなかった。

 そしてその中に立ち尽くす少女と目を合わせたまま、一歩だけ前へ──光の中へ────。

 心なしか静かになったように感じた。

 雨は相変わらず降り注いでいるが、耳に届く雨音はさっきまでより低い。

 カイズと目を合わせたままの少女は、まるで動こうとしないまま。特別驚いている様子もないように見えた。

 そして口を開く。

「なんの用?」

 カイズは両手を上げたままで、すぐに応えた。

「緑の光のせいで、髪の色が紫だったことは気が付かなかったよ……」

 少女は何も応えない。

「君を助けたいだけだ──君を捕まえて、その特殊な能力を調べようとしている奴らが軍隊にいる…………今、ここを取り囲んでいる……」

 少女は表情を変えない。

 カイズが続ける。

「そんなことを許すわけにはいかない……俺なら助けてあげられるよ……一緒に来てくれ」





『少佐‼︎ 何ですかあの光──!』

 無線からは悲鳴にも似た叫び声が響く。

 シーラの指揮車からもその光は見えていた。

 その緑の光に包まれた軍用車両の連なり……。

 すでに発泡許可は出していた。

 今夜はカイズを捕まえられると信じていた。

 しかし、その緑の光に何の対抗も出来ないまま、シーラはカイズを取り逃がす。

 当然そんな報告書が通るわけもなく、提出前にリリに詰め寄られる。

「無理よシーラ……車両の記録を見る限り、相手の部隊は識別信号を出していない……何の確証もないのよ」

「そうね……何を報告しても妄想だと笑われるだけ…………」

 オフィスの椅子が軋む音を聴きながら、俯いたシーラの声には力がない。気持ちのどこかに諦めが湧き上がってきていることは事実。

 そして、それを僅かに感じ取ったリリが応える。

「こっちに犠牲者が出なかったことが幸い…………空振り報告でお茶を濁すしかない……」

 リリも悔しかった。シーラと二人でカイズを追い込んできた──犠牲もある。

 そんな状態で、リリは続けた。

「……それともう一つ…………転属願い、ダメだったよ…………」

 シーラが顔を上げる。

 リリの顔を見るが、目を逸らされたまま応える。

「……どういうこと? ダメって…………」

「最前線には行けない…………国境の後方支援部隊…………週に三日は家に帰れる…………通いの軍隊…………」

「……ごめんなさいリリ…………たぶん…………私の…………」

「違うよシーラ。それだって何の確証もない…………私たちが同じ部隊なことが唯一の救い……それか、情けかな…………」

 しかし当然のように、それはシーラの祖父と父が転属願いの情報を得たからに他ならない。

 シーラは呪縛の恐怖を感じた。

 リリは権力の強さを感じた。

 二人の配属日がその日の夜であったことにも、二人は恐怖する。明らかに通常の手続きを無視していることは明白で、情報収集能力と書類仕事に長けたリリには異質な動きに感じられた。

 大きな力が動いていた。

 しかしお互いに諦めきれないまま、数ヶ月を形だけの部隊の中で過ごす。

 前線からは遥か後方。

 開戦以来、国内で空爆は一度もない。

 当然、そのエリアで戦闘などは一度もない。

 形だけの警備部隊。

 週に三日は家に帰れる。

 しかし、当然シーラはそんな現場を求めてはいない。

 家族──一族からの束縛からは何一つ解放されてはいなかった。

 そしてリリは独自に動いていた。そんなリリからある日情報がもたらされる。

「かなり大きな事故みたい」

 駐屯地のテントの中にはシーラとリリの二人だけ。

 ここには訓練もない。誰が何をしていようが、朝と夜の点呼以外で咎める者はいなかった。

 シーラがリリに詰め寄る。

「訓練で? カイズの隊で間違いないの?」

「ここの隊長たちが話してた……裏を取りたくて、この間の休みに防衛省に行ってみたら本当だった。揉み消そうとした時には遅かったみたい」

「ただの事故の可能性は?」

「あなたが見たっていう緑の光……それが話題になってる…………」

「……おもしろいね…………」

 口元を緩めるシーラの表情を横目で見ながら、リリが応える。

「こう考えたことはない?」

 リリの声のトーンが少しだけ下がる。そして続けた。

「カイズが何をしようとしてるかは分からないけど……それを主導してるのが軍部だとしたら──」

 シーラが目を見開いてリリを見ると、リリは更に続ける。

「あの夜以来、未報告の部隊の動きはなかった……ということはあの夜、カイズは何かを手に入れたことになる……緑に光る何か…………」

「元はと言えば、以前にカイズの隊にいた兵士の告発から総ての調査が始まった……」

「軍部はそのクーデターの話を知らずに、カイズの〝緑の何か〟の奪取と研究に手を貸した」

「妄想? 机上の空論?」

「どっちでも構わない……でも時間はないよ……防衛省に行った時、二度目の転属願いも出してきたから──」

 すると再びシーラが目を見開いて応える。

「さすがリリ」

「直接人事部のトップに出してきた……もう邪魔はされない…………二度と使えないようなコネを使ってね……内容は教えないけど…………」

 リリのその表情が少しだけ寂しげなものになったのをシーラは見逃さなかった。

 あまり過去やプライベートを話したがらないリリの、シーラが知っていることは僅かだ。しかし、現在の人事部のトップと深い関係にあったことは知っていた。

 その相手に家庭があったことも…………。

 翌日から、シーラは休日だった。

 家には帰らず、直接防衛大臣の父の元へ────。

「大規模な事故があったそうですが」

「お前はそんなことを聞くために忙しい私に会いにきたのか?」

 グウェルはデスクの上で、開いたアタッシュケースに紙の束を詰めながら続けた。

「私はこれから国会がある。つまらんゴシップネタになど興味はない」

 しかしシーラはいつになく余裕の表情を浮かべる。

「あまり戦況が思わしくないようですね。現場の私たちには伝えられていませんが……」

「戦況? 我が国の軍隊は────」

「情報は掴んでいます。戦況も国内情勢もゴシップも──プロパガンダで誤魔化そうとしても──」

「ならば好きにすればいい」

 グウェルは部屋の扉を開けながら続ける。

「家には帰れよ。お母さんが待っていた」

 ──お母様なんか…………

 ──あなたは…………?

 シーラは防衛省を出ると、一番近い訓練施設へと向かった。そこは研究所も兼ね、以前から政府警備用の大隊が駐屯している所でもある。

 会議等の予定がない限り、カイズがいるとすればそこだ。

 しかしなかなかカイズは捕まらない。

 誰に聞いても、カイズの所在も、事故の件も語ろうとはしなかった。すでに内部監査部ではない一介の兵士に過ぎないシーラには難しいのは事実だが、元帥の孫娘として有名なシーラにここまで口を紡ぐというのも異常だ。

 それでも階級は少佐──決して低くはない。

「防衛大臣の指示で来ました。カイズ・マズミ大佐はこちらに?」

 もはや、なり振り構ってはいられなかった。

 一番奥の一番大きなラボ──他のラボにはカイズはいなかった。

 残るはここだけ。

 入り口の受付で階級章を見せるが、他とは返答が違う。シーラは初めて受付の若い男に聞き返された。

「少佐──大臣からの司令書の提示を願います」

 ──ここにいる…………

 確信を持ったシーラは食いつく。

「内密の指令です……指令書はありません。すぐにここを開けなさい」

 少し間が空いた。

 緊張が走る。

 シーラは畳みかけた。

「マズミ大佐への緊急の指令です。急いで‼︎」

 焦りを見せたかもしれない……そうシーラは思ったが、やがて男は応えた。

「わかりました」

 男は立ち上がって扉まで歩くと、カードキーをロックに通す。

 小さな音と共に解錠されたドアを、シーラは強引に開けて中に突き進んでいた。

 そうするしかなかった────リリのためにも…………これ以上、リリに苦労をかけるわけにはいかない…………彼女の苦労を無駄には出来ない…………

 ブーツの音を短い廊下に響かせながら、目の前に迫った二つ目のドアを手前に引いた。

 途端にドアから漏れる…………緑の灯り…………。

 …………この光……………………

 ラボの奥にガラス張りの部屋…………ガラスの前には数人の白衣の人影…………。

 ガラスの部屋は緑の光で満たされている。

 その中心には…………。

 立ち尽くす、一人の少女…………。

 その美しさに、シーラは目を奪われる…………。

 ……あの時の光…………

 そして、左のこめかみに違和感を覚える。

 火薬の匂いがした……銃口からの火薬の匂い…………。

 目だけを左に向ける。

 無数の傷のついた、使いこなされた銃口。

 その向こうに、カイズの顔があった。

 シーラは表情を変えずに、少しだけ顔を左に向ける。

 カイズの声が聞こえた。

「大したものだな。ここまで来たか」

 シーラは微動だにせずに、表情も変えない。

 カイズの声が続いた。

「もう仕事じゃないだろ……誰の指示だ?」

 シーラは応えない。

 しかし、軽く目を細めた。

 更にカイズの声が続く。

「大臣か……それとも元帥か…………」

「……さあ…………」

 やっとシーラが口を開いた。

「……どっちかしら…………」

 少しずつ、シーラの周りの兵士が増えてくる。音だけで、誰もが自動小銃を構えているのは分かった。

 張り詰めた空気の中で、兵士たちのブーツが床を擦る音だけが小さく響く。

 シーラの背後のドアはまだ開いたまま。

 やがて、シーラは左足の踵を少しだけ浮かす。

 左足だけを後ろに、そしてゆっくりと体を下げ、扉に体を沿わせるように部屋の外へ。

 ゆっくりと扉を閉めた。

 体の芯が冷えている。

 頭の中に、リリの顔が浮かぶ。

 感情の矛先が見つからない。

 ドアに背を向けると、足早に歩き始めた。

 自分の表情が分からない。

 知りたくもない。

 ただ、リリの表情が頭の中を駆け巡る。

 防衛省に戻ると、父はまだ帰っていなかった。

 そして、リリが訓練中に事故にあった報告を聞く。

 悲しさよりも、不安よりも、怖かった。

 家には帰らないまま、赴任先へ車を走らせる。

 陽はだいぶ傾き、到着した時はすでに夜だった。

 リリとの対面は死体袋。

 訓練などあるはずがない。

 今まで一度もなかった。

 額を銃で撃ち抜かれる訓練など聞いたことがない。

 翌日、シーラの元に、転属受理の通知が届いた。





 夕陽が崩れかけた壁の隙間から差し込む。

 ティマは、血だらけの兵士を見下ろしていた。

 まるで建築途中かのようなボロボロの廃墟の一室。

 まだ生きている。

 とても助かる状態ではない。

 どのくらい生きられるだろう。

 だまっていても死ぬ。

 声も出せない。

 無駄弾を使う理由はない。

 ティマは腰の後ろに横にしたホルスターから、愛用の軍用ナイフを取り出した。

 そして、兵士の首に突き刺す。

 まだ、血は吹き出す。

 その血が止まりそうになった頃、兵士はすでに動かない。

 何もしなくても、やがて死んだ兵士。

 しかし、ティマの手に伝わった兵士の鼓動は、まるで未だに感じられるようだ。

 そして、もう何も感じられない。

 残るのは、自分の体にかかった鮮血に残る暖かさだけ。

 周りからさっきまで聞こえていた銃声は、すでに聞こえない。

 ティマは立ち上がると、外に出た。

 辺りは廃墟と瓦礫と砂埃だけ。元々ここに人間の営みがあったとは思えないほどの退廃。

 そして、今は、敵兵の気配はない。

 すると、聞こえてくるのは装甲車のキャタピラの音。

 続く声。

「ティマ! 離脱するよ!」

 ナツメの声だった。

 ティマが一番安心出来る声…………。

 ティマは走り続ける装甲車──開いたままの後部ドアに飛び乗る。

 索敵用のモニターの前にチグ。

 右銃座にはナツメ。

 上部銃座にはスコラ。

 運転席にはヒーナ。

 そして左銃座にシーラ。

 そのシーラはティマの姿を見てから、警戒を解いて貨物スペースに移動する。そして口を開いた。

「大きな部隊じゃなくて助かったわ。チグ──どう?」

 すぐにチグはモニターを見ながら応える。

「大丈夫です。周囲に動くものはありません」

 するとシーラは大きくため息をついて続ける。

「まったく……どうして誰もが銃口を向けてくるの…………」

 すぐにチグが応えた。

「戦争が終わったことを知らないんでしょうか……普通に敵部隊に遭遇したから攻撃してきているようにしか見えません」

「まるでプログラムされたドローン部隊ね…………」

 シーラはそういうと、何気なくティマの姿を見て声をかける。

「ティマ?」

 シーラの声を聞いて、ティマはゆっくりと顔をあげた。

 シーラの声が続く。

「大丈夫? 上だけでも着替えたら……血だらけ…………」

 するとすぐにチグが新しい軍服を取り出すが、決して新しいわけではない。何度も洗濯を繰り返して色の褪せた物だ。

 それを受け取るティマを、銃座に座ったままのナツメが不安気に見つめている。

 ナツメは最近のティマの様子が気になっていた。本国での戦闘直後は笑顔が見られた。しかし最近のティマにはそれが見られない。元々無表情が標準のようなタイプではあったが、唯一心を許せていたナツメにすら最近は壁を作っているようにも見えた。

 多分ナツメにしか気づけていない程度だろう。

 しかしナツメは、まるで〝堕天使〟に戻ってしまったようなティマが怖かった。

 本国を離れて三ヶ月ほど。

 終戦からはまだ一年と経っていない。

 今日のような戦闘を一〇回以上繰り返していた。戦闘をしたいわけではない。戦争は終わった。生き残った人間を探しているだけだ。しかし出会うのは残存兵力ばかり。そして必ず攻撃をしてくる。

 どこも、国が国として機能しているようには見えなかった。

 戦争が終わっていることに気がついていないのだろうか。

 どこかに崩壊していない国が残っていて欲しかった。しかし未だに見つからない。少なくとも本国の周辺にある三つの国は戦勝国とは言い難い。

 街並みと呼べる所はいずれも廃墟が並び、それほど戦火の跡がないような所でも人気はない。

 保存食を探し、戦闘相手の残存兵力から弾丸と燃料を補充し、川で洗濯をして沸騰させた飲水を確保する。そんな日々が続いていた。

 もちろん、アーカムの謎の端末の調査も続いていた。チグが継続して担当していたが、何も進展がないまま、本国を離れてからは〝緑色の光〟を発することもなかった。元々が謎だらけの物であり、結局アーカムの存在そのものも不明瞭なまま、自分たちの不思議な経験だけが宙に浮く。

 誰もがそれは同じだった。まるで現実を超越したかのような体験。それに奔走し、そして恐怖した。しかし助けられたことも事実。

 夕闇の時間は短い。

 陽が傾き、辺りがオレンジ色に染まるのは少しの時間だけ。

 その日もあっという間に空が暗くなっていく。

 装甲車を運転しながら、運転席のヒーナが後部の貨物室に声を張り上げた。

「チグ──ルートは決めた通りでいいの? 予定より時間が遅くなったけど」

 するとチグは運転席の方に顔を向けてすぐに応える。

「そうだね……少し待ってヒーナ──」

 そしてシーラに顔を向けて続けた。

「大丈夫でしょうか…………もうすぐ山間部の谷間みたいな道路に入るけど暗くなっちゃったし……目的地までは最短ルートですが、地形的に攻撃を受けたら逃げにくくなります…………」

 シーラは左の機銃座を格納しながら応える。

「そうね……林の中は装甲車では不向きか…………」

「それに、細かな地形の状態が予測しずらくなります」

「レーダーはどうなの?」

「今の所は問題ありませんが……この先の保証は出来ません」

 そのチグの言葉を受け、シーラはナツメの代わりに右の機銃座を格納しているティマに話しかける。

「ティマ……どう思う?」

 しかしティマはすぐには応えない。

 開け放たれた目の前のスライドドアから、外の暗くなった廃墟群に目を配る。

 隣のナツメは、その横顔を眺めていた。

 ──何か、感じてる…………?

 しかし口には出せないまま、やがてティマが口を開いた。

「たぶん大丈夫…………なんとかなるよ…………」

 ナツメの不安が込み上げる。

「……ティマ────」

 しかしそのナツメの小さな声は、シーラの言葉で描き消えた。

「ヒーナ──ルートはそのままで。目的地まで急ぎたい」

「了解」

 そのヒーナの応えた声が、ナツメの耳に冷たく響いていた。





 久しぶりの山間部だった。

 谷間の狭い悪路────攻撃を受けた際の防御力は低い。

 チグは相変わらずモニターに張り付いたまま。

 各機銃の弾薬チェックを終わらせると、平時にも関わらず、スコラは上部の重機関銃に張り付いていた。前の装甲車の時からスコラの定位置となっているポジションだ。

 移動中とはいえ警戒体制。屋根の上の重機関銃は稼働に時間がかかる。出しておくしかない。時間になったらティマと交代の予定になっているが、それまではまだ長い。とはいえ、おそらくティマは休息をとってなどいないだろう。きっと床に腰を降ろしながらも耳を側立てているに違いない。

 〝悪魔〟と呼ばれて恐れられたスコラでも、やはりティマには敵わないと考えている。戦闘時、あらゆる場面に於いてティマはスコラを凌いだ。スコラですら、ティマを恐れることもある。戦後に初めて会った時はまさにそうだった。

 〝堕天使〟として国内外で恐れられた兵士────無表情で人を殺す様は、とても人間には見えない。しかし、いつの間にかその表情が変化していたことにはスコラも気がついていた。何がそうさせたのかは分からない。しかし、ティマの立ち振る舞いは、そう感じさせるのに充分だった。

 銃座の隙間から音がした。もう交代の時間かと思って下を見た時、上に登ってきたのはシーラだった。驚いたようなスコラの表情を見ると、笑みを浮かべたシーラが口を開く。

「静かね……レーダーにも反応はないわ」

 大きな声ではないが、装甲車の屋根の上でもシーラの澄んだ声はしっかりとスコラの耳に届いた。

 風もない。装甲車は通常スピード。

 上半身だけを銃座の横に出し、シーラは続けた。

「最近不思議に思うのよね…………」

「何が?」

「ヒーナ……責任感みたいなものなのかな。最初はあんなに反発してたのに、今じゃ安心して現場を任せられる」

「リーダーの素質?」

 階級的には六人の中で一番上の中佐であるシーラの次は少佐のスコラになるが、国を失った独立部隊にとってはあまり関係がないようにもスコラは感じていた。

「あるのかもね」

 そう応えるシーラも気持ちは同じだった。自分は独立部隊の隊長ということになってはいるが、エリート出身というだけの階級に過ぎない。自分が戦線を離脱した場合のことは考えておく必要がある。

 スコラが小さく呟いた。

「次の国が……もしもまだ崩壊してなかったら…………」

 シーラはスコラの横顔を見る。

 笑顔にも見える横顔のスコラの言葉が続いた。

「……普通に、暮らせるかな…………」

 シーラにとっては重い言葉だ。ここ数ヶ月、本国を出てからのスコラはどこか遠くを見ているようだった。戦闘時には問題がない。それはいい。

 シーラが懸念しているのは、スコラの精神的な不安定さからくる依存────。

 自分に対しての強い依存────。

 気がついてはいたが、軍隊の中で孤立していたスコラを掬い上げ、登用したのはシーラ自身。いくらスコラに命を救われた過去があるとはいえ、そこに特別な感情があったような気が、今はしている。

 ──リリの穴埋め…………?

 そう思ったこともある。

 そして、今でもその考えは拭い去れないまま。

 そんな頃、下の貨物スペースではナツメが床に腰を降ろしたままでティマに話しかけていた。

「ティマ──この袖、切ってくれない?」

 装甲車後部の貨物スペースは決して広くはない。今はまだスコラの上部重機関銃が外に出ているのでマシだが、それでも左右銃座を格納している状態では大人二人が横になるのも窮屈だ。更に後ろには固定された重口径ライフルと、チグが座る索敵モニターのシート。主に後部ライフルを担当することが多いナツメの待機場所はその横。軽油タンク、弾薬や食料のボックスで更に狭い。

 右銃座の隙間から入り込む微かな夜風に当たっていたティマは、半ば面倒そうに腰を上げた。

「チグに頼めばいいのに……」

「索敵で忙しいんだよ」

 ──ティマに頼みたいんだよ

 笑顔でそう応えるナツメを、モニターから振り返りながらチグが気まずそうに見る中、ティマはナツメの大きく結ばれた左袖を持ち上げる。

 ナツメが続ける。

「邪魔だからと思って結んだけど、なんだかブラブラして気持ち悪くてさ」

 ナツメは左腕を失ったことを、あまりネガティブに考えてはいなかった。もちろん不便なことは増えた。横にあるライフルを使う時でさえ、いくら銃身自体が床に固定されているとはいえチグに体を支えてもらう必要がある。左右の機銃くらいならば反動も少ないので対応出来るが、外で自動小銃を携える時はストラップが必需品。現在は傷口も完全に塞がり、着替えも一人で出来るくらいになった。ナツメも医療担当でもあるスコラに命を救われた一人。

 ティマは大きく団子状態に結ばれたナツメの左袖を解くと、右手で腰の後ろの軍用ナイフを抜いた。

 それを見たナツメが呟く。

「珍しいね……」

 ティマが顔を上げてナツメの目を見た。

 ナツメも目を合わせると続ける。

「それ……汚れたままなんて…………」

 刃の一部が黒く染まっている。

 もちろんティマにもナツメにも、それが何の汚れなのかは分かっている。

 特注のナイフだった。

 終戦前から、数えきれないほどの兵士の命を奪ってきたナイフ。

 同時に、数えきれないほど何度もティマの命を救ってきた。

 他人を信用しないティマがそれを相棒のように大事にしてきたことは、唯一心を通わせられるナツメが一番よく知っている。

 ティマはナイフを腰の後ろにしまうと、少しだけ早口で口を開いた。

「チグ、ハサミってあったっけ?」

 振り向きもせずに声をかけられたチグは少し慌てながらも応えた。

「あ、あるよ。どっかに────」

 そして、手渡されたハサミで、ティマは袖を半袖くらいまで切り落とす。

 その俯き加減の表情を見ながら、ナツメの心には物悲しさが込み上げていた。





 大陸で一番大きな国──コレギマ帝国の国境までは残り一〇キロ──。

 戦争時は敵国であったが、終戦を経て周辺の国が崩壊している現状で、その国が国として機能していて欲しかった。

 相変わらず山間部の谷間が続く。

 広い山岳地帯。

 四脚キャタピラタイプの装甲車のため、山の林の中を進むのは難しい。不可能ではないが、補給物資を期待出来ない状態では、無理に故障の可能性を大きくするわけにもいかなかった。

 しかし同時に、残存兵力に見つかる可能性は高まる。

 全員が休息を取ることが出来ない緊張状態が続いていた。

 このまま攻撃されたら狙い撃ちにされるのは目に見えている。蛇行らしい蛇行運転も出来ないまま、最悪の場合は林に逃げ込むしかない。

 そのため、チグは索敵と同時に周囲の地形形状のデータも観察していた。それでもレーダーのリアルタイムデータから作られるのは、時速五〇キロでおよそ半径三〇メートル。タイムラグもある。装甲車のスピードが上がれば計測範囲は更に小さくなった。

『シーラ──やっぱり林に入らなくて正解です』

 ヘルメットのマイクに向かってチグが口を開いた。

 助手席のシーラが応える。

「複雑なの?」

『あまり人の手の入っていないエリアだと思われます。倒木も多くて──』

「仕方ないわね。引き続き頼むわ」

 シーラはそれだけ言うと、運転を続けるヒーナに声をかける。

「もしも交戦となったら……入る覚悟だけはお願い」

 少し間を開け、ヒーナが応える。

「だろうね……ここじゃあ────」

 フロントガラス越しに、道路を挟むような左右の斜面を見て続ける。

「射撃場の的だ」

『シーラ‼︎』

 チグの声が全員のヘルメットに響く。

『来ました! 左右からです! およそ四〇名!』

 シーラは冷静に。

「動物の可能性は?」

『この地域でこんな大きな群れを作る動物はいません』

 今度はシーラの声が響く。

「全員配置に‼︎」

 シーラはそれだけ言うと背後の扉を開けて後部に。

 ナツメはすでに右銃座でシートベルトをかけている。

 左銃座のシートに滑り込みながら、後部のスライドドアを少しだけ開けて外を伺うティマに声をかけた。

「ティマ────」

 ティマは僅かに振り返る。

 その目を見ながら、シーラが続けた。

「任せる」

 再び外に目を向けたティマの口元に笑みが浮かぶ。

 相変わらずの悪路の中でヒーナがアクセルを踏み込みながら叫んだ。

「昼間の奴らの続き⁉︎」

 シーラが応える。

「まさか──距離がありすぎる。そんな大きな部隊には見えなかった」

 ──まだこんな大きな部隊が残っているなんて…………

「そうだね」

 挟まったのはティマだった。

「動きが違う──今回の方が手強そうだ」

 その言葉を受け、全員に緊張が走る。

 更にティマが続ける。

「こっちのスピードの上昇に合わせて左右の移動スピードも速くなった──うまく散開してる」

 屋根の上でそれを聞いていたスコラも周囲に目を配っていた。

 だいぶ遅い時間。

 辺りは街灯もない闇────。

 ──ティマには何が見えてるの?

 そう思うしかなかった。

 スコラからは何も見えていない。

 夜間に光を発する兵士などいるはずもない。

 ──やっぱり…………

 後部のドアは左右に分かれていたが、それぞれが独立してスライドすることが出来た。シャッターのような構造で、上下に別れ、それぞれが屋根と床に収納される。後部の固定式の重口径ライフルとの絡みも関係する構造となっていた。

 ティマはその上半分だけをスライドさせると、その縁に手をかけて大きく体を外に。そこからチグに声をかける。

「チグ──すぐに閉めて」

 ティマは素早く屋根の上に飛び乗る。

 すぐに驚いたスコラの表情が目に入った。

 スコラの座るシートの後ろに陣取ると、自動小銃を構えて口を開く。

「このクラスの相手は私も久しぶり──最近は雑魚ばかりだった」

 ──そんな…………

 ──この胸騒ぎは、何…………?

「でも〝悪魔〟と〝堕天使〟が一緒なら勝てるよ」

 なぜかスコラは言葉を返せないまま。

 ──最近、以前より、よく喋るようになった…………

 ──悪いことじゃないのに…………

 音がした。

 右。

 軽い音。

 そして、ティマが叫ぶ。

「迫撃砲‼︎」

 左前方で大きく煙と砂埃──同時に爆音が届く。

 右に大きくハンドルを切った装甲車は右斜面の大木ギリギリ。

『ナツメ‼︎』

 ヒーナの叫び声が全員のヘルメットに響いた直後、ナツメのいつもの声。

『大丈夫! ギリギリ! 頼むよヒーナ』

 その声から、ナツメが笑顔を浮かべているのが全員の頭に浮かんだ。

『──どうしろって────』

 ヒーナのその声が聞こえた直後、辺りの空気を銃声が包む。

 その音に混ざる甲高い打撃音。

 明らかに車体に弾丸が当たる音。

 続くように上から重機関銃の爆音が響く。

 その薬莢が屋根を叩きつける音までもが混ざると、それは全員のヘルメットの中で木霊した。

 屋根の上でティマが叫ぶ。

「球数は気にするな! 撃ち続けろ!」

 微かに聞こえるその声に、スコラはやはり安心感を覚えた。

 的と化した装甲車の屋根の上──相手が先に潰したいのは、ここだ。

 重機関銃の存在に気がついていない訳がない。

 しかし、それを背後のティマが守っている。

 右に、左に──銃口を振りながら、周囲に瞬くような光の点を追いかける。

 迫撃砲を何度も掻い潜り、次第に相手が距離を詰めてきているのを感じていたのはティマだ。

 マイクに向けて口を開く。

「あと二発──三発で直撃する────シーラ──」

 シーラがすぐに応える。

「分かった──チグ──地形のデータをヒーナに────」

「……今のスピードじゃ…………半径二〇メートルも無理ですよ!」

「このままでもやられる──林に突っ込む────ヒーナ! 頼むわ!」

 直後、全員の耳にヒーナの声。

『結局入るのか──目の前のカーブ──直進するよ! チグ!』

「────! 送った!」

 装甲車の後ろ、迫撃砲の着弾が車体の最後尾を持ち上げた──まるでそれに押し込まれるように林の中へ──。

 繰り返される上下の大きな揺れに合わせて、大木を避けるために左右に車体をくねらせる。

 左右の機銃も更に難しさを増していた。

 何度も目の前を大木が通り過ぎ、狙いを定めるどころではない。

 上部のスコラとティマを襲うのは、複雑に伸びた大木の枝──身をかがめることが精一杯で反撃も出来ない。

 ティマが叫ぶ。

「スコラ、下に──! その内、機銃が枝に引っかかる──」

 スコラはシート横のレバーを引く。ゆっくりと、シートごと重機関銃が装甲車の中に降りていく。

 貨物室に降りてくる二人を見て最初に声をかけたのは事情を察したシーラだった。

「だいぶ敵部隊よりも前方に出てきた──レーダーを見る限りは数も減ってきたし、後方のライフルで────」

 ティマが自動小銃のマガジンを交換し、予備を二つ腰にぶら下げる。

 その姿を見たシーラが続ける。

「ティマ? 何を────」

「出る」

 ティマが後部のドアを大きくスライドさせた直後、その体にしがみついたのはナツメだった。

 ティマが叫ぶ。

「ナツメは機銃を──!」

「片腕でも離さない‼︎」

 そのナツメの声に、ティマはいつもの口調に戻って囁く。

「帰ってくるよ……ナツメも軍人だろ?」

 あっさりとティマはナツメを振り払うと、林の闇に飛び込んでいった。

 ナツメは呆然と後退る。

 右手にライフルが軽く当たる。

 直後、ライフルを抱えるように引き金に指をかけて叫んでいた。

「ワガママな女め‼︎」

 慌ててその体を支えるスコラ。

 直後、重口径ライフルの振動が車体を震わせた。

 装填されているのは爆撃弾──小さなロケット砲のような威力がある。

 遠ざかりながらも大木が倒れるのが見えた。

 ナツメの耳元で、その体を支えるスコラが呟く。

「やっぱり……このライフルはナツメだよ」

 その光景を見たチグが叫んだ。

「ナツメのバックアップは──!」

 しかしスコラが制する。

「チグは索敵‼︎」

 肩をすくめたチグがモニターに体を戻した。

 通常であれば不利なはずの地形──しかし、むしろティマには動きやすい。

 相手に近づけば近づくほど、ティマは動きやすかった。

 銃に頼る戦い方をしない──懐に入り込めれば、ナイフがある。

 一人、一人、確実に仕留めていく。

 背後からは重口径ライフルの音が何度も聞こえる。なんとなくナツメであることは分かった。

 そしてそれに気付くと、なぜか口元に笑みが浮かぶ。

 その笑みを浮かべながら、ティマは敵兵の首を切り裂く。

 腰にナイフを突き刺し、刃先を回した。

 ふと、初めての戦闘の記憶が蘇る──無表情で敵兵を刺し殺す〝堕天使〟……しかしナツメだけが知るティマがいる。

 笑顔で人を殺す〝堕天使〟────ナツメが恐れたティマ…………。

 ティマは無意識にヘルメットを脱いでいた。

 いつの間にか自動小銃も持っていない。

 体が軽く感じられた。

 木に隠れ、足元の草木に身を隠し、素早い動きで人を殺し続ける。

 いつの間にかライフルの音がしなくなっていることになど気がつかなかった。

 スピードを上げた装甲車のレーダー範囲は、タイムラグを更に広げ、目の前の地形を把握するのには間に合わなかった。

 四輪駆動のキャタピラとはいえ、後方が完全に倒木に乗り上げ、前部キャタピラが空回りをして動きを止めた。

 幸い兵数の大半は後方のティマが惹きつけていた。

 しかし危険な状態であることには変わりない。

 シーラが叫ぶ。

「全員降車‼︎ 散開してティマを援護‼︎」

 それぞれが手近な自動小銃を手にして装甲車を飛び降りた。

 車体を捨てる可能性もある。チグはバックパックにサブのラップトップを詰めると、続けてアーカムの端末も忘れない。そしてナツメの位置を見失わないようにも勤めた。

 周囲の木に弾丸が当たるが、自分たちを囲む敵兵はそう多くないのが分かる。

 そして、離れたところから聞こえる銃声と怒号。

 そこにティマがいることは間違いない。

 全員が全員の位置を把握しながら散開──少しずつティマのいる方へ。

 何度も迎撃を繰り返しながら、確実に自分たちが相手を押していることが感じられた。

 それでも夜の林の中で多くの兵士が入り乱れる状態は気を抜けない。

 自動小銃の弾数も決して多くはなかった。

 五人の中で一番の戦闘力を持つのは間違いなくスコラだろう。そのスコラを筆頭に、シーラの指示で確実に進んでいく。

 もはや戦場の中心はティマ。

 敵部隊の中に今あるのは恐怖──それを強く感じていたのはスコラだったのかもしれない。

 ──行ける

 そう考えたスコラが足を早める。

 そして、均衡が崩れた。

 ナツメが走り出す。

 ヒーナも続く。

 ──まずい────

 シーラがそう思った一瞬、視界の向こうに、前のめりに倒れる影────。

 直後、ナツメの叫び声が辺りに響き渡った。

「ティマ‼︎」

 全員が一斉に引き金を引いていた。

 誰も弾数のことなど頭にない。

 ──まさか…………

 そんな言葉が頭を過ったスコラの横を、ナツメがすり抜けていく。

 ナツメは地面に顔を埋めるように倒れるティマの体に覆い被さり、右腕だけで自動小銃を撃ち続けていた。

「まだ! まだ生きてる‼︎」

 叫び声が全員の耳に届いていた。

 すぐに駆け寄ることはもちろん危険を増幅させる。

 やがて、ナツメの自動小銃の音が止まった。

 ──弾切れ…………⁉︎

 呆然と銃口の先を見つめるナツメの目の前で腰を落としたのはヒーナ。

「まだだ‼︎」

 叫びながら、ヒーナは周囲に向けて引き金を引いていた。

 ──まだ…………

 ナツメが腰の拳銃を取り出そうとした直後、スコラの声。

「ナツメ、あなたはこれで──」

 スコラはナツメに自分の自動小銃を渡しながら続ける。

「どいて──ティマは私が診る」

 やがてシーラとチグの合流で、周囲が静かになった。

 スコラがティマの体を仰向けにし、それを自動小銃を手にしたナツメが見守る。

 その周りを囲むようにシーラとヒーナ、チグが周囲を警戒する。時折草木を揺らす音がするが、その音は次第に離れていく。

 チグが呟く。

「……撤退…………」

 ヒーナが即答する。

「気を抜かないでチグ。今が一番大事」

 続けてシーラが口を開く。

「スコラ──どう?」

 その背後からスコラの声がする。

「腹部貫通──出血は多めだけど、臓器が大きく損傷した感じじゃない──口径の小さい自動小銃──三発────すぐに装甲車に────」




〜 第二部・第2話へつづく 〜

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