第19話
時間の流れはいつも同じだと思っていた。
行人と過ごせる時間はあっけないほどすぐに終わってしまった。
ゴールデンウィーク2日目。明日の朝にはまた警察学校に戻らないといけない。
昨日戻ってきたばかりなのに。
こんなにあっという間だとは思っていなかった。
行人はそんなことはどうでもいいといったようにラジオを聞いていた。本当にラジオが好きらしい。
「ねえ、次に私が帰るのって、いつになると思う」
「俺がそれ、わかると思う?」
行人はラジオの音に混ざりながら正論を言う。
今朝は叔母さんに会いに行った。
叔母さんはとても広いとは言えない仮設住宅の中で編み物をしていた。
私がドアを開けるととても嬉しそうに歓迎してくれた。真っ先に知識教官からもらった新聞記事を見せて叔母さんと母の話をした。
2日連続で母の話を誰かとしたのは初めてだった。母が生きているような錯覚を覚えた。
お昼ご飯を叔母さんと食べ、行人のもとへ帰ったときにはもう夕方になっていた。
次会えるのはいつになるんだろう。夏休みだろうか。私はそれまで耐えられるのだろうか。
私は行人の横に腰を下ろした。本当にもう行人と長い間会えなくなってしまう。今度は本当に長い間。
ふと、行人にも母の話をしたくなった。しかし、行人は警察が嫌いだし、何より行人自身も母を失っている。他人の母の話をされたところで不愉快だろう。
ただ虚空に流れるだけのラジオの声を聞くだけの時間がしばらく流れた。
私はそっと行人の肩に自分の頭を預けた。伸び放題の癖毛がクッションのようになって私を拒んだ。
「私、生きててよかったと思うよ」
半ば無意識にそんなことを言っていた。
生きてててよかった。
20年も生きていない私が言うと、なんて浅い響きなんだろうと思う。私は若い。若いし未熟だ。まだ本当の幸せも本当の不幸も味わっていないのかもしれない。
でも、そんな私でも生きていてよかったと切に思ったのだ。
行人と出会えたこと。そして行人と一緒にいられること。行人という存在を記憶に残し続けて生きていけること。
それらが幸せとして心にはっきりと浮かんできた。
私の発した言葉は、行人にどう響いたのだろう。行人だってまだ若い。それでも辛い人生を送っている。そんな行人は私の幸せをどう捉えるのだろうか。
行人は黙っていた。
私は頭を預けたまま行人の存在を感じていた。
薄暗い空間の中でラジオの音だけが響く。私たちの時間を邪魔しているようだ。
「なあ、お前の持ってたあの新聞、なに?」
ぞわりとした感触が背筋を一気に駆け上った。
直前まで私だけを覆っていた幸せな空気が一瞬にして凍りついた。
私は反射的に頭を上げた。行人は視線を落としていた。髪のせいで表情を窺うことはできなかった。
「あの新聞って、なんのこと?」
苦し紛れにとぼけてみせる。
「新聞の切れ端。ラミネートされてたやつ。住吉の立てこもり」
行人は感情のない声で単語だけを淡々と連ねる。
「見たの?」
こんな言い方をすると、何か後ろめたいことはあるように聞こえてしまう。別に悪いことなんて微塵もないのに。
私の母が最後に携わった事件。私がそれを持っていることに後ろめたさなんてあるわけない。
「落ちてた、さっき」
力のない声で行人は言った。さっきっていつだろう。
夕飯を一緒に食べているときの行人はいつも通りだった。つまりその後に落としたのだろうか。
私は立ち上がり、傍らに置かれたカバンの中を見た。
そのときわかった。夕食を終えた後、着替えるために衣類をカバンから出したのだ。私は新聞を服の胸ポケットに入れていた。そのときに落としたのだ。
新聞はカバンの内ポケットの中に入れられていた。行人が戻したのだろう。
嫌な汗がこめかみを伝っていた。どうしてだろう。どうしてこんな胸騒ぎがするんだろう。
「これ、教官からもらったの。その、私の母さんが、死ぬ前に担当した、最後の事件だからって。私が持ってろって」
私は慎重に言葉を選びながら説明した。心臓が音を立てて鼓動していた。それを聞かれまいと私は行人から離れて立っていた。
「それだけ?本当にそれ以外何も知らない?」
それだけとはどう意味だろう。逆に私が知りたい。行人は何か知っているのだろうか。
「そうか、やっぱり、お前の母さんの」
やっぱり?何を言っているんだろう。
恐怖を感じた。こんな行人は見たことがない。
今すぐ逃げ出したかった。行人が別人に見えた。
「俺、見たんだ。この事件、近くで」
細い声で行人がつぶやいた。
私は息を吞んだ。
行人の方を見る。暗がりの中で石像のように固まっていた。いつの間にかラジオからは耳障りなノイズしか聞こえてこなくなっていた。
「急にいなくなった人を探してたときにな。そのときに見たんだよ。警察たちが突入するところも、その後に、犯人たちが押さえられて、出てくるところも」
それから行人は一瞬黙った。
「そして、腹から血を流した母さんが、救急隊に運ばれて出てくるところも」
視界すべてから色がなくなった。何も聞こえなくなった。
胃がきゅっと締めつけられ、冷たい何かが全身を這いあがってくるような感覚を感じた。それでも手のひらには汗がじんわりと滲んでいた。
私は力なくその場に膝をついた。
「世界って狭いよな。こんなことって、あるんだな」
遠いところから熱のこもっていない声で語りかけているように思えた。
私の母たちが、もう少し早く向かっていれば助かったかもしれない命。
もう少し母たちが駆けつけていれば行人の母は助かっていたかもしれない。
「それでさ、俺、母さんのところに向かっていく途中で、聞いたんだよ」
行人が続ける。
「松坂って名前をな」
突然行人の声色が怒気を帯びたように感じた。
母さんのことだ。行人は私の母さんの名前をそこで知った。
「その松坂って女警官と男の警官が話し合ってる内容も聞こえた」
私は何も言えずにじっと次の言葉を待った。口の中はからからになっていた。
「女は、『私そんなつもりじゃ』と震えながら言っていた。そして男が『大丈夫だ、ここは俺たちが何とか隠してやるから、お前は何も言わなくていい』と」
行人は絞り出すような声で「はっきり言っていた。ちゃんとそう聞こえた」と言った。
行人の言っている意味が一切理解できなかった。頭が理解を拒んでいた。
「俺の母親は、お前の母親に殺されたんだよ」
耳鳴りのせいで私の耳には行人の声が何ひとつ届かなかった。
「そして事件は解決。母さんは犯人たちに殺された。そういうことになった。その女警官の失態はなかったことにされたんだよ」
吐き気が込み上げてくる。
「これが警察の本当の姿だよ。お前が崇拝する正義だよ」
何も言い返す気力がなかった。だって言い返す必要がないんだ。
母がそんなことをするはずがない。誤って人質を殺してしまうなんて。ましてやそれを
行人には本当に申し訳ないことをしてしまった。いや、そんな生半可な言葉では済まない。行人の母の救出が遅れてしまったせいで犯人に殺されてしまったこと。これから一生かけてでも娘の私が責任をもって償わないといけないだろう。
「こんなことって本当にあるんだな。お前の名前を聞いたとき、まさかと思ったよ。でも、松坂なんて名前、この世にいくらでもいる。それでも、お前の母親が警察だったって聞いたとき、ほとんど確信に変わった。それで、その新聞記事をお前が持ってるんだもん。ドラマだろ、こんなの」
行人の声色はまた機械のように戻っていた。
ごめん、行人。それくらい辛かったんだよね。そんなふうに自分の記憶を変えてしまうほど追い込まれてたんだよね。本当にごめん。
もう犯人たちに殺された行人の母は戻ってこない。その過去は絶対に変わらない。
でも、行人と私には未来がある。絶対に私が行人のために幸せな未来をつくるから。
私も行人も、悪人に母親を殺されてしまった。そんな2人だからこそわかり合えるし、幸せになる資格があるよね。
私はふらふらと立ち上がり、行人の背後に歩み寄った。
そしてソファ越しにゆっくりと後ろから行人を抱き寄せた。
「私、行人が幸せでいてほしい。もう、苦しまなくていいから。大丈夫だから。私がずっと一緒にいるから」
私はぎゅっと力を込めて行人を抱きしめた。
行人は死人のように、けれども呼吸をしていた。
「ごめんね、ずっと辛かったよね」
私は優しく語りかけた。
電波が切れたのか、もうラジオの音はノイズすら聞こえなくなっていた。
薄暗い空間に2人の冷たい体温だけが残り続けていた。
壁の隙間から朝日が漏れていた。
私は眩しさでしょぼしょぼになった目を無理矢理こじ開けた。
隣には行人が眠っていた。
少し首筋が寒いと思った。そこで気づいた。昨晩のできごとを。
私は布団にもう一度潜り込んだ。せめて眠る前に下着くらいは身に着ければよかった。寒い。
私はゆっくりと手を這わせて行人の頬に触れた。珍しい行人の寝顔だ。少し伸びている
自分でも驚いていた。まさか私の方から手を出すとは。
といっても、本番まではいかなかった。だから結局私は今も処女のままだ。
それでも別に構わなかった。
行人はいつの間にかマットレスベッドを自分の寝室としているところに置いていた。巻かれた毛布をめくってみると汚れが見えたのでゴミ捨て場から拾ってきたものだろう。
毛布を巻いているので衛生的にも問題なさそうだったし、寝袋よりも圧倒的に寝心地がよさそうだった。だから私は先に自分の寝室に向かってから行人が寝室に入るまで待機し、頃合いを見て行人の布団に潜り込んだ。
そのとき行人は何も言わなかった。
私は行人に元気になってほしかった。行人が幸せになってくれるなら身体を許すくらい何でもなかった。
行人の辛い気持ちは私が全部消してあげる。
私は行人にキスをした。最初は応えてくれなかった。でも、少しするとやがて受け入れてくれた。
私の方から行人の服を脱がせた。そして今度は行人が私の服を脱がせた。
それから互いの裸体を合わせ、まさぐり合った。
今考えると変な話だ。半裸の行人にあれだけ動揺していたのに、こうもあっさりと身体を許してしまうなんて。しかし、行人の心の傷を癒すためならという気持ちの方が強かった。もちろん死ぬほど恥ずかしかった。しかしそう思えば思うほど興奮と快感が燃え上がり、何が何だかわからなくなった。行人に触れられるたび、自分が誰かわからなくなるくらい、乱れた。
それから私の方が眠気に勝てなくなり、本番に至る前に力尽きてしまった。
行人は満足してくれただろうか。いつか、ちゃんと現実を受け入れられるようになるまで心の傷が回復してほしい。
私の母さんは正義の人間だ。とても優秀な人間だ。人質を誤って殺すなんて絶対にありえないし、ましてやそれを隠蔽なんてするわけがない。
その瞬間を見たわけでもないのに、そう決めつけるなんていくらなんでも行人は酷いと思う。そして、その勘違いのせいで警察を、正義を嫌っているなんてもっと酷い。でも私はそんな行人を責めたりしないし、嫌いにもならない。
いつかわかってほしい。この世を救うのは正義なんだと。悪を断ち切るのが正義の役目なのだと。
私は布団から這い出て、傍に置かれた下着を引き寄せた。
行人を起こさないようにゆっくりと衣類を身に着けた。
行人は子供のように眠っていた。
私は微笑み、「またね」と小さく呟いた。
次に会えるのは夏だろうか。
それまで頑張って耐えないといけない。
私が眠りにつく瞬間。行人は私に言った。
「お前の母親を殺したのは俺だよ」
それを思い出して私はくすりと笑った。そんな嘘をついてどういうつもりなんだろう。
もしかして行人は私を慰めてくれたのかもしれない。私の母を殺した犯人が誰かわかるだけでも少しは気が晴れるから。その悪者の役を行人が演じてくれたのかもしれない。
ありがとう、行人。でも大丈夫。そんなことしてくれなくても、私は母を殺した犯人のことをもう恨んでなんかないよ。
だって私は正義の人間だもん。
もちろん、母の死亡を聞かされたときは怒りで目の前が見えなくなった。でも、もう私は大丈夫。
だって、私は正義の人間だから。
正義の人間は復讐心になんて駆られない。憎悪の炎を燃やしたりもしない。強い心を持って冷静に悪を裁く。
だから大丈夫だよ、行人。
衣服をすべて身に着け、カバンを提げた私はもう一度行人の寝室へ行った。
静かに寝息を立てる行人に穏やかに微笑みかけ、私は背を向けた。
ゆっくり壁に寄せられた食器棚を移動させ、壁の穴を通る。外から食器棚を元に戻す。
崩れた1階の中は真っ暗だったが、朝日に照らされた外がに見えた。
私は晴れ晴れしい気分で外まで向かった。
廃アパートを出ると朝日が全身を照らした。眩しさに目をしかめたが、全身に浴びる朝日は感じたことのないくらい気持ちよかった。
あたりは静かだった。
相も変わらず周囲の工場は息をしていない。朝日を反射しているだけである。
私は目の前に伸びた自分の影をじっと見た。
それから顔を上げて元気よく歩き出した。
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