第18話

 教官は名を知識ちしきと名乗った。珍しい苗字だと思った。聞いたことがない。

 知識教官は「外出するところだったんだね、足止めしてすまない」と、私に軽く謝ったが、私は足先を昇降口方向から知識教官に真っ直ぐに向けた。

「あの、ぜひ聞かせてください、母のこと」

 知識教官は少し困ったような顔をした。

「でも、いいのか、今から出かけるんじゃ」

「いえ、急用ではないので」

「そうか、では。じゃあ、あっちの部屋にでも」

 知識教官は廊下に並んだドアのひとつを指差した。

「菓子箱を持ってくるから、先に入って待っててくれ」 

「い、いえ、そんなお気になさらず」

 私の言葉を無視して知識教官はさっさと走り出してしまっていた。

 次第に小さくなっていく知識教官の足音を聞きながら、しょうがなく私は指示通りに横開きのドアを開け、1人で教室に入った。

 教室はひんやりとしていた。この時間はまだ朝日が昇ったばかりで日陰のせいか、じっとしていると身体が震え出しそうだった。

 私はパンパンになったカバンを机の上に置き、廊下に出た。

 しばらくすると知識教官が菓子を入れたカゴを手に持ちながら戻ってきた。

「どうしたんだ、鍵空いてたろ」

「い、いえ、何だか中、寒くて」

「寒い?」

 そう言って知識教官はドアを引いて顔をずいっと入れる。

「確かに冷えてるな。なんでだろうな?」

 私は黙っていた。

「場所を変えるか?」

「いえ、この時間帯でどこも同じだと思うのでここで大丈夫です」

「そうか、もし我慢できなかったら、遠慮せずに言うんだぞ」

「はい、ありがとうございます」

 弱々しく私は頭を下げた。

「そうだなあ、どこから話そうか」

 どかりと椅子に腰を下ろした知識教官は遠い目をしながらそう言った。

 私は彼が口を開くのをじっと待っていた。小分けにされた菓子が小さなトレイに載せられて私の目の前に置かれていた。

 私が普段から座学を受けている教室となんら変わらない教室。違う点は正面に巨大なモニターが備えられているところだ。普段は視聴覚室として使われているのだろうか。

「巡査長はとにかく精神的に強かった。こんな言い方すると、よくないかもしれないが、女性とは思えないほどな。しっかりと自分なりの信念で行動していたし、気に食わないことがあれば上にも平気で物申すような性分だったよ」

 知識教官は軽く笑いながら「当時部下だった僕は、いつ巡査部長と上が大喧嘩になるかと怯えてたよ。だって僕たちにもいっつも飛び火するんだもん」と言った。

 私もつられて笑った。やっぱり、母さんは母さんだった。相変わらず頑固だったみたい。

「それでいて、部下にはとことん優しかった。絶対に部下を叱らないんだ。叱らないんだけど、ちゃんと厳しいんだ。何と言えばいいんだろうな、飴と鞭の使い方が上手いというか」

 そうだ。母さんは私を一度も強く叱ったことがなかった。いつも私を褒めてくれた。でも私が間違ったことをすれば優しく諭してくれた。

 本当に自慢の母親だった。その血が流れていることが私の一番の誇りだった。

「本当に、亡くなってしまって、残念だったよ。悔しくて堪らなかったよ」

 知識教官は少しうつむいてそう呟いた。

 私はその様子を黙って眺めていた。母の死亡を聞いたときの記憶がよみがえってくる。途端に胸のあたりが熱くなってきた。

 そうして知識教官からは母の様々な活躍を教えてもらった。母はあまり仕事の話を私にしてくれなかった。しかし、知識教官を通して母は本当に優秀な警察だったことが改めて事実としてわかった。

 私はその代わりとしてうっかり私の幼いころの日々について話してしまった。

 母親としての松坂巡査部長の意外な一面を知った知識教官は目を丸くしたあと、微笑んでいた。まるで知識教官も松坂巡査部長も子供であるように感じた。

 知識教官はまだ見た目は若い。母の部下だったということは当時の役職は巡査ということだろう。しかし現在教官になっているということは警部補か巡査部長まで昇格したということになる。母の部下であっただけあって優秀なのだろうと私は勝手に想像した。

 そうしているうちに、今までの不安感はいつの間にかなくなり、それどころか心の底から幸福感を感じていた。

 私はずっと両親を目標にして生きていた。2人を誰よりも尊敬していた。

 そしてそのうちの1人、母を同じように尊敬している人物と出会いを果たした。その幸運に心が満たされた気分だった。

 ちらりと腕時計を見ると、すでに話し始めて40分近く経過していた。

 それに気づいた知識教官は「すまない、夢中で話し込んでしまったね。出かけるんだったな」と、言って席を立った。

「こちらこそ、わざわざお時間を取らせてしまい申し訳ありません。とても、本当に楽しかったです」

 と、私も席を立って頭を下げた。

「お菓子、とても美味しかったです」

 気分のよさに乗じて次から次へとトレイから菓子をつまみ出してしまっていた。

知識教官は微笑み、出口へ向かった。私も後に続く。

「あ、忘れてた」

 と、教官は振り向き、胸ポケットから小さな四角形の薄い紙のようなものを取り出した。

「さっき、ついでに持ってきたんだ。僕のお守りのようなものだったんだけどね。君にあげるよ。今や君が持っているのが一番相応しい」

 私はそれを受け取る。

 よく見ると新聞記事の一部を切り取り、それをラミネートしたものだった。

 何だろう、これ。

「君の母、松坂玲まつざかれいが巡査部長として最後に担当した事件だよ」

 合点がいった。そういうことだったのか。

 つまりこの事件は母が亡くなる直前のものということになる。

 私は慎重にラミネートされた新聞記事を目の前に掲げた。

『東京 住吉 立てこもり犯人グループ 逮捕』と大々的にタイトルがつけられている。

 私は地名を二度見してしまった。住吉といえば、隣の地区ではないか。それに行人が生まれたアパートのある地区でもある。それと同時にこの警察学校と私の燃えてしまった家にも近い。近場でこんな事件があったとは知らなかった。高校受験の時期で勉強に追われてそれどころではなかったのだろうか。

 知識教官がその場で待っていることをわかっていながらも、視線を記事から離すことができなかった。できるだけ主要となる部分だけをかいつまんで読んでいく。

『女性(43) 死亡』

 その文字が目に入ったとき、思わず小さく声が漏れた。

 救えなかった命。

 5人の犯人グループはその女性1人を拉致し、人質として10万円を要求したという。母の存在についての記述はなかった。ただ事件に対応したのが『警察官』としか書かれていなかった。その女性は、警察官たちが駆けつけたと同時に拳銃で胸を撃たれて亡くなっていたという。

「もう少し早く、僕たちが駆けつけていれば、助かったかもしれないのにな」

 知識教官は悔しそうに顔を曇らせた。

「それでも、母や、他の警部たちのおかげで犯人たちは逮捕されたんです。せめてそれだけでも救いです」

「ああ、そうだな」

 そして少しの間沈黙が訪れる。

「僕たちで頑張ろう。1人でも多く、悪い人たちを捕まえていい世の中にしよう」

 その言葉でぐっと熱いものが込み上げてきた。そうだ、知識教官も私と同じ、いい世の中を望んでいるんだ。

 私は両手を握り締めた。

「はい、絶対に。絶対に平和な世の中にしてみせます」


 私は清々しい気分で行人の廃アパートへ向かっていた。

 少し後味悪い話をしたまま知識教官と別れたが、それでも母を尊敬している人に会えたということに対する喜びの方が大きかった。

 5月のうららかな空気の中、散ってしまった桜の花びらを蹴りながら私は河川敷を歩いた。もう桜の木はすべてが葉桜となってしまっている。

 私はカバンから新しく私のお守りとなった新聞を取り出し、昇り始めた朝日に透かして見た。酸化した新聞を通して見える朝日は濁って汚く見えた。

 そして母のことを思い浮かべる。私もいつか母のような警察になる。大丈夫だ、私には母の血が流れているのだから。絶対になれる。

 いつも通り騒がしくサイレンが鳴り響く東京の街を背に、私は郊外の廃工場地帯へ到着した。ここだけ静かで別世界のようである。

 工場地帯に隣接したアパート。つまり工業団地ということだろうか。行人の母は行人を産んでから工場で働き始めたのだろうか。

 そんなことを考えながら私はちゃんと背後を確認してから行人のいる部屋への隠し通路へ向かった。

 廃アパートの中の暗闇を進んで瓦礫の階段を上り、そして壁を塞ぐ食器棚を押した。

 中を覗く。

 目の前に飛び込んだ景色に思考が止まった。

 そして私は小さく悲鳴を上げて後ろへたじろいだ。その瞬間瓦礫を踏み外し、身体が宙に浮いたかと思うと、腕に痛みが走った。

 素早く駆けつけた行人に腕を掴まれて半ば宙吊りになった私に向かって行人は相変わらず冷たく「何やってんだ馬鹿」と言う。

「いいから早く服着て!」

 私は目の前に迫った行人の上半身から目を逸らして再度瓦礫の上に足を乗せた。もう大丈夫だというように腕を振り払う。

「お前、何言ってんの。変に女子気取ってんじゃねえよ、髪までもっと短くしてさ」

 私は4月に髪を切っていた。今までより短く。それに加えて眼鏡も外してコンタクトレンズにした。ときおり目に入る髪も眼鏡も、稽古のときに邪魔だったからだ。

 行人の言葉に少し怯んだ。確かに私は自分で女子らしいと思ってもない。でも少なくとも最低限の女子としての慎みはもっている。突然上半身裸の男がいたら驚くのは当たり前だ。

「なんでそんな格好してんのよ」

「見ればわかるだろ、着替えてたんだよ」

「そ、そう」

 私は不貞腐ふてくれつつも短くなった前髪を触りながら中に入った。

 慣れ親しんだ空間に改めて立ち、息を吸う。途端に頬が緩んできた。

 先程は驚いてしまったが、行人がちゃんとここにいてくれたことに安心した。

 わかっていたことだが行人は再会を喜んでいる様子は微塵もなかった。

「はい、これ」

 そう言って私はここへ来る途中のスーパーで買ってきたお弁当を渡した。

「さんきゅ~」

 そう言って行人は光の速さでそれを受け取った。

「もっと誠意を込めたらどうなの?」

 私は行人を睨みつける。

「さんきゅ~」

「もう」

 私はカバンをソファの上に置いた。

 軽く周りを見渡す。全然懐かしい感じはしなかった。2、3日ぶりに戻ってきたような気分である。家具の配置が一切変わっていないからだろうか。

 むしろそちらの方がありがたかった。こんな男と再会の喜びで水臭い雰囲気になるなんて嫌だから。いつも通りの距離感が一番心地がいい。

 行人は渡したお弁当をさっそく食べていた。

「朝、食べてないの?」

「ああ、まだ」

 ご飯を頬張ったまま答える。

「そう」

 やっぱり行人は食費を稼ぐ手段がないのだろうか。

 と、思ったときだった。壁に青色の作業服が掛かっているのが目に入った。私を騙すために着ていたものとは違うものであった。

「ねえ、どうしたの、あれ」

 私は壁を指差す。

「見ての通り、作業着」

「そうじゃなくて、今回のは本当なのね?また悪いことしてないよね」

「こんな状況でできるわけねえだろ。正真正銘の、バイトだよ。短期だからもう少ししたら、あれも返さないとだめだけどな」

「本当なのね?ちゃんとした、アルバイトなのね」

「そう言ってんじゃねえか、しつこいな!」

 行人は詰め寄る私の頭を拳で叩く。結構痛かった。

 私は頭を押さえながら壁に掛けられた作業着に近づく。

「何のバイト?」

「工場。製造のな。ホームレス歓迎のところだから、周りに年寄りばっかりなわけ。だから気にせず顔出せる」

 やはり行人は相変わらず身を潜めて生活をしているらしい。

 私だけ新しい環境で楽しい日々を送っていたことが後ろめたくなった。

 それでも、行人がこうやってちゃんとした稼ぎ口を見つけてくれたことは嬉しかった。

「お前、俺のこと舐めてるようだけど、そこらへんで何もせずに野垂れ死ぬようなやつらと同じにすんじゃねぇよ。お前なんかの助けがなくても生きていける」

「そ、そう」

「だから」

 そう言って行人はしばらく黙った。

 私は慎重に行人の顔を見た。なぜか口元がにやついていた。

「俺がこれから生活できなくなるって思い込んで、自分を責めてるお前の姿は正直言って面白かった」

 私が泣きながら行人の寝袋に潜り込んだあの夜の光景が思い出された。

「最低!普通そういうことは思ってても口にしないから!」

 私は行人に迫り、肩を叩いた。

「食ってる最中にどつくんじゃねえよ!」

「うるさい、馬鹿!」

壁にできた亀裂の隙間からは春の暖かな風が入り込んでいた。

 私の買ってきたお弁当を美味しそうに食べている行人を見ていると、私までお腹が空いてきた。寮から出るときに、昨晩買っておいた売店のおにぎりを食べてきたが、3時間以上歩いたせいもあるのだろう。

 私は行人のものと一緒に買ったお弁当をカバンから出した。早めの昼食だ。少し中身が崩れてしまっていた。でも綺麗な方を行人に渡すことができてよかった。

 行人の隣でお弁当を食べ終えると、私が一方的に自分の話をする時間が続いた。

 行人は基本的に自分のことを話す人ではないし、今日は珍しく私の話を聞いてくれたので自然とそういう流れになった。

 途中で一度だけ真保のことを考えた。今頃あの子は恋人と過ごしているのであろうか。二十歳はたちに近い男女というだけあって、大人の甘い時間を過ごしているのかもしれない。羨ましいとは思わなかったが、どんな風に過ごしているのか少し気になってしまった。こう思うのは悪趣味なのだろうか。

 真保の話も行人にした。流石に恋人の話はしなかったけど。他にも沙希や京香の話もした。

 行人は警察を嫌っているから、もしかしたら聞きたくない話かもしれないと思ったが、案外興味深そうに聞いていた。その様子に少し面食らったが私は嬉々として話を続けた。

 そうやっているうちに何時間も経っていた。

 話し疲れて私はソファに横になった。あくびが出る。そういえば昨晩はあまり眠れなかったんだった。

「それで、これから何とか、生活はやっていけそう?」

 私は横になったまま行人に尋ねた。

「なんとかな、少なくとも誰かさんが出て行ってくれたおかげで1人分の生活は間に合いそうだ」

「よかった。悪いけどあと明日もいるわよ」

「好きにしろよ、その代わり食事は何とかしろよ」

 意外な反応だった。行人のことだからすぐに出ていけと言うと思っていた。

 もしかして本当のところ、行人は私がここにいることを望んでくれているということだろうか。

 私は起き上がった。そう思ってくれていると嬉しいけど、そんなことはなさそうだ。

 そう認めてしまうと心が痛む。

 ちらりと行人の方を見る。作業着のポケットから封筒を取り出し、テーブルの上に置いてあったメモ帳らしきものに何か書き込んでいた。

 行人の髪は相変わらずの癖毛が伸びきっており、アフロヘア―のようになっている。

「髪、切らないの?」

「ああ、そんな金ねえよ」

と、封筒からお金を取り出しながら言う。給料だろう。

「じゃあ、私が切ってあげようか」

「嫌だ。お前にやらせると、頭皮まで斬られそうだ」

「はあ?そんなわけないでしょ」

 と、言ったところで私が今まで生み出してしまった不格好な生花たちを思い出した。確かにあれを考えると自分でもまずい気がした。

 2ヶ月近く会っていなかったが、私たちの関係は何ひとつ変わっていなかった。やはり私は行人といることが一番幸せだった。もちろん真保たちと過ごす生活も幸せだった。それでも自分の一番の居場所はこの男の近くだという確信があった。

 行人のおかげで私は他人と協力することができたし、警察学校で友達ができたのも行人のおかげだったと思っている。もし行人に会っていなかったら、真保たちに話しかけられても私は軽くあしらって高校時代のように独りになっていたかもしれない。

 そう考えると途端に目の前にいる男のことがより愛おしく感じた。

 私の人生は変わった。あの日、コンビニ裏のごみ箱から食べ物を漁っていた怪しいこの男に出会うことで。

 人生は何があるかわからない。そう思った。













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