第17話
私は渋々とハサミで生花の枝を切り落としていった。
警察学校では華道をはじめとして書道や茶道までも授業として行っている。
それらはまとめて
私は華道を選択した。どれも自分に合いそうになかったが、あえて新しい見地を拓くために自分にとってはもっとも馴染みのない華道にした。
しかし失敗だった。どうやら私にはこんな繊細なものは似合わないらしい。
じょきっと切った枝がテーブルの上にまた落ちる。
生花といえば花を使っているだけあって誰が作っても美しいものになると勝手に思い込んでいた。でも私が花を剣山に刺せば刺すほどめちゃくちゃに伸びた
隣の席では涼しい顔で真保が次々と枝を刺して「作品」を作り上げていく。
偶然だが真保も華道を選んでいた。昔から絵などの芸術活動が好きで、華道にはもともと興味があったらしい。芸術活動というのはこんな風にちゃんと興味のある人がやるべきことだと学んだ。
「はは、頭の固い松坂ちゃんらしい」と、小声で真保に笑われた。
授業終了の時間になり、私は剣山に剣山が刺さったような作品を仕方なく提出した。
これから毎週これをやらなければならないと考えると気が重くなってくる。
それが今日の最後の授業で、私はいつものように一旦部屋に戻り、運動用の服に着替えてからグラウンドに向かった。真保は授業が終わった時点で一緒にいなかった。
そのまま1人で黙々と走っているうち、気がつけば2時間も経っていた。
警察学校に入学してすでに3週間。来週はゴールデンウィークで授業は少しの間休みとなる。その期間、生徒は実質的に長時間の外出が自由になる。
つまり私も例にもれず外出が可能になり、行人のもとへ戻ることができるということだ。
まるで遠足前の子供みたいだ。自分で恥ずかしくなる。
行人のところへ戻ったら何をしようか、何を話そうかと頭の中でシナリオを考えているうちに時間を忘れてずっと走り込んでいた。
私は毎日欠かさずジョギングを課外活動の時間で行っていた。体力には自信があったはずなのだが、授業では明らかに私よりも持久力のある生徒がそれなりにいた。
行人の拠点で隠れるように長い間過ごしていたため、あまり屋外で行う持久力トレーニングができなかった。そのことが今になって響いている。
私はやはり負けん気が強く、持久力においてももっと上に行こうと思っていた。
幸い、行人のおかげか、逮捕術や護身術などの授業ではかなりの好成績だった。
頃合いを見てから、私は徐々に速度を緩め、少し歩いてからやがてグラウンドに腰を下ろした。
そのまま仰向けになり、夕暮れ空を仰ぐ。
そのせいで器官が圧迫されてすぐに呼吸が苦しくなって起き上がった。途端にじっとりと汗が浮かんでくる。私はスポーツドリンクを飲み、汗を拭いた。
呼吸が元通りになってからもう一度仰向けになる。さきほどと雲の形が少し変わったように見える。
今頃行人は何をしているんだろう。いつも通りあの薄暗い廃アパートの中にいるのだろうか。たまにはこうやって空も見上げてほしい。
空を見るといつもいい気持ちになる。こんな時代だからこそだろうか。どんなに地上の人々が
物思いに
その方に顔を向けるとすぐそこに運動靴。私は身体を起こす。
「松坂ちゃんも、そんなことするんだね」
「そんなことって?」
私は隣に腰を下ろした真保に問いかける。
「空を見上げて何か考えるみたいな」
「私、何か考えてるように見えた?」
「うん、今もそうだったし、松坂ちゃん、いつも何か考えてるように見えるよ」
「そう、かな」
自覚があるようなないような微妙な感覚だった。確かに今は青空に思いをはせていた。しかし普段から私はそんなに何かを考えているように見えるのだろうか。
「なになに?何考えてたの?もしかして、好きな人でもできたの?」
真保は私の顔を覗き込んでくる。
「好きな人?」
あまり使い慣れない言葉を発する。違和感と共に行人の顔が頭に浮かんだ。
私はそれをすぐに振り払おうと視線を空に向けた。
しかし、それがまずかった。
「あ、顔逸らした。もしかしてほんとに?」
「そんなわけないでしょ、私が他の男子としゃべってるの見たことある?」
実際私はここに入学してまだ一度も男子と会話をしていなかった。
「知らないよ、いつも一緒にいるわけじゃないんだから」
そう言って真保は私のスポーツドリンクを勝手に飲んだ。
「それに、会話したことのない人だって好きになることあるのよ」
「そう、なの」
あまりぴんとこなかった。性格もわからない人のことを好きになるってさすがに短絡的すぎるというか、考えが甘いんじゃないだろうか。
「うーん、その様子じゃ本当にいなさそうね。もしそうだったら面白かったんだけどな。あの堅物の松坂ちゃんに、ついに恋の季節が、ってね」
「私を何だと思ってんのよ」
「じゃあ、今までに誰かと付き合ったことある?」
「ないよ」
「好きになったことは?」
「ない」
「やっぱり。その歳で化粧してないって珍しいもんね。ある意味松坂ちゃんらしくて安心した」
「真保だってほとんどしてないでしょ」
「でもしてるじゃん」
そう言って真保は仰向けになって空を仰いだ。
私もそれに倣って背中を大地に預ける。
「そう言う真保はどうなの」
「それなりにね。というか、すでに今、付き合って2年の彼氏が」
私は目を剥いた。
「ほんとに?」
私は真横にいる真保の横顔を見る。
「ほんとほんと。私、目黒出身なんだけど、そこの人。同じ高校だったの」
「へぇ、すごい」
私は驚きを隠せずにそう呟く。
別に驚くようなことじゃないはずだ。実際に真保は可愛いし、性格もしっかりしている。だから男子から好意を抱かれてもなんら不思議ではない。
それでも実際に恋人がいるというのを教えられると、改めて真保には本当に魅力があるのだと実感する。
「ま、今、恋人がいるからすごいってわけじゃないけどね」
真保は身体を起こした。
「松坂ちゃんも、これからそういう出会いがあるかもよ。絶対、中には松坂ちゃんみたいな頑固モンスターが好きな男子だっているんだから」
「遠回しに悪口言わないで」
「悪口じゃないって、むしろ誉め言葉。さ、行こう。食堂開くよ」
真保は私に手を差し出した。私は力いっぱい掴んで起き上がる。
改めて真保という友達を大切に感じるようになった。性格が似ているというだけあってどう考えても私には不釣り合いに見える。私みたいに人望に乏しい人なんかにこうやって関わってくれることが本当にありがたいと思った。
私の心の中に少し暖かな風が流れ始めたような気がした。
「それにしても松坂ちゃんってストイックだよね」
真保は大盛りのご飯を食べながら言う。
私と真保は向かい合う形で食堂の長テーブルに座っており、そしてお互いの隣にはなぜか別室の子たちがいた。
真保は基本的に1人の時間を過ごすことが多いがちゃんと友達もいる。偶然食堂前で出会い、せっかくだからということで4人で夕食をとることにした。
警察学校のような狭い空間だと、こうやって知り合いと会うことが多い。今みたいな流れで友人の友人という繋がりが生まれていくのだろう。高校時代も私の周りはそうやって人脈を繋げていったのだろうと私は1人で考えていた。
「へえ、松坂さんってやっぱそうなんだ。見た目がすでにすごい真面目そうなんだもん」
私の横に座った
自分にストイックなのは自覚していた。というより、わざとそうしていた。
「松坂さん、いつも護身術の授業で教官に褒められてるじゃん」
今度は真保の隣に座っている
「でしょ、松坂ちゃんって、こう見えてすごいんだよ」
と、真保が得意そうに言う。こう見えてとはどういう意味だと心の中で不満を言う。
こんな風にたった4人のグループに入るだけで私は会話ができなくなってしまう。誰かが話せばすぐに他の誰かがそれを返す。どのタイミングで言葉を発すればいいのかわからなくなってしまうのだ。
「松坂さんってどこの高校?」
隣から京香が尋ねてくる。こんな風に直接話しかけてくれるとありがたい。
「立身、立身高校」
京香ははっと目を見開いた。
「え、めちゃくちゃ頭いいところじゃん!なんで大学行かずに、こんなところ来たのよ」
向かい側で沙希が「こら!そんな言い方しないの」と京香を睨みつけた。
私は少し考えてから、「早く警察官になりたかったから」と答えた。
「はぁ、本当に松坂さんってすごい人なのね。学力でも運動でも、志でも勝てないわ」
あまり家族以外の人から褒められることに慣れてない私は返答に困った。
「そんなこと言ったって、私、こんな感じで人と会話するの上手じゃないし、すごいって言われるほどじゃないよ」
「駄目だ、ちゃんと自分の悪いところまで認められるなんて。絶対かなわない」
さらに褒められるとは思っておらず、私は戸惑った。人のよさがにじみ出ている子であるが、ひたすら自分に厳しく生きてきた自分にとっては自分の生き方を能天気に否定されているような気分になってしまう。しかし本人には悪気はもちろんなさそうだ。
これからこの子ともちゃんと付き合っていけるかと少し不安になった。
食堂が混み始める頃合いを見計らって私たちは食器の載ったトレイを返却口に戻した。
「ちょっとぉ、なによ、脂質過剰って!私そんなに太ってないからね」
廊下のベンチで仲良く4人で座って休憩していると、京香がスマートフォンを見ながら声を上げた。
「まあまあ、あくまでAIの判断だから。毎日エネルギー消費激しいんだからそれでちょうどいいのよ。気にしないで」
と言って沙希がなだめる。
大学や短期大学、そして警察学校などの専門学校に備えられている設備のひとつである。生徒は学生証を常備しており、それはICカードの役目も果たしている。つまり、学校内の売店や食堂で食べ物を購入する際に学生証で電子決済を行うことができるのだ。そしてそのときに学校が管轄しているサーバーに情報が転送され、栄養バランスがAIによって診断されてから結果がスマートフォンに通知される。
人によってはそんな管理制度を嫌う人が一定数いて、利用していない人もいる。私がその中の1人だ。
それから私たち4人はお腹が落ち着くまで他愛のない話をして、真保の「んじゃあ今日は解散」の声でその通り解散となった。毎日この時間になると勉強を開始している私のことを気にかけてくれたのか、それは単なる自意識過剰なのかはわからないが、正直このまま話していてもよかった気がする。
あまり会話には入ることができなかったが聞いているだけでも嫌な気持ちではなかった。
そのことは真保には告げずに私たち2人は一緒に部屋に入り、やがていつものように真保は自分のベッドへ行き、私は学習室へ向かった。
教材を腕の中に抱えながら私は足取りが妙に軽いことに気がつく。これが青春というものだろうか。大袈裟だろうか。
明日も、そしてそれからもずっとこうやって私に似合うカラッとした友情関係が続いてくれるのかと思うと少し胸が躍る。
そして来週はついに行人に会うことができる。もう2ヶ月近くも会っていないことになる。楽しみで仕方がなかった。
その夜は少し気分が高揚していた。だからいつもより寝つきが悪かった。
それでも何かに悩んで長くてつらい夜を過ごすよりは全然ましだった。
私はぎゅっと行人のタオルを抱きしめながら何度も頬を緩ませていた。
いよいよゴールデンウィークが明日になった。
私は夏休みが明日から始まる小学生みたいに内心でずっとそわそわしていた。
真保や他の友人に気づかれないかと心配していたがそんな様子はなかった。それどころか沙希と京香の方が明らかに気分が浮き立っていた。どうやら明日一緒に渋谷に行くらしい。
「あれ、松坂ちゃん、ゴールデンウィーク、予定とかあるの?」
いつもと違って夕食後に学習室へ行かずに荷物をカバンに入れ出した私を見つけて、真保は驚いたような声を上げた。
「うん、叔母さんのところ行くの」
「叔母さん?」
「そう」
言ってしまってからはっとした。真保には両親が死んでいることを言っていなかったのだ。素直に両親と言えばよかった。
「わかったよ。世の中相変わらず危ないんだから気を付けてよ」
真保は変に詮索をしなかった。
「うん、ありがとう」
私は微笑んだ。
「真保は?」
すると真保は少しにやりとして小指を立てた。
そうだった。真保には恋人がいるのだった。
といっても、私だって恋人ではないが同棲していた男のところへ戻るわけだからほとんど同じなのかもしれない。
いや、同じだなんて言うと真保に申し訳ない。私と行人は真保たちみたいな優しくて幸せそうな関係ではない。けれどちゃんと別の種類の絆で繋がっている関係だ。
そして消灯時間になった。私たちはいつも通り厳かな態度で点呼を行う。きっとほとんどの生徒はいつも以上に作り物の態度だっただろうが。
それからベッド潜ったが、なかなか眠ることができなかった。
急に胸がざわつき始めたのだった。
あれから2ヶ月近く経っている。行人は携帯電話を持っていないため私とは連絡手段がない。2ヶ月だ。あの行人が果たしてそんなに長い時間、同じところに滞在するのだろうか。いくら自分と母親との思い出の場所だとしても、例えば以前みたいに誰かに襲撃されて一時的に場所を変えざるを得ないような状況になっていたとしたら?
考えれば考えるほど不安が頭の中で渦を巻き出す。
考えても仕方ないことだとわかっていても考えてしまう。
何時間もそうしているうちに私はようやく眠りにつき、翌朝は少し寝不足気味で6時に自分のアラームで起床した。
久しぶりに早朝からけたたましいチャイムに起こされずに気持ちよさそうに眠っているルームメイトたちを起こさないように静かに支度を済ませて私は部屋を出た。
しかし途端にまた胸がざわつき始めた。
きっと寝不足のせいだ。そう言い聞かせて私は静まった廊下を進む。
学生棟に隣接する校舎の事務局まで行き、外出届の手続きを済ませる。そうしているうちに少し落ち着いてきた。
事務局を出て、玄関へ向かっている途中、いきなり後ろから声をかけられた。
「松坂くんか?」
振り向くと見知らぬ教官が立っていた。廊下の向こうから差し込む光の影でその顔はよく見えなかった。
「はい、1年D組の松坂燐花です」
私は背筋を伸ばし、声を張った。
「そうか」
教官はまじまじと私の全身を見た。
「あの、どうかなさいましたか」
私は少し居心地が悪くなって口を開いた。
「ああ、すまない。じろじろ見てしまっていたね。申し訳ない」
何なんだろう、この人。少し不安になってくる。
「君が松坂巡査部長の娘さんか」
その瞬間呼吸が止まった。
「松坂くん?」
驚いたような教官の声で私ははっと息を吹き返した。
「母のこと、知ってるんですか」
「はは、そりゃあねえ。僕も昔は松坂さんの下で働いていたんだから」
教官は優しい声色で言った。
「そうか、君が、娘さんか」
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