第16話

 背後から息を切らしながら「待ってよ」と張りのある声が聞こえてくる。

 私ははっとして立ち止まり振り返った。運動用の靴が砂利を噛みしめる。

「もう、松坂ちゃん、早い」

「ごめん、勝手にペース上がってた」

 目の前でぜえぜえと肩で息をしている美川真保みかわまほの肩に私は手を置いて労わった。

 真保は私が警察学校に入学して最初にできた友達だった。厳密に言うと寮に引っ越して最初にできた友達だ。

 彼女は可愛らしい姓名とは真逆で、非常にさっぱりとしていて、どちらかというと男子のような性格をしている。そういう点では少し私に似ている。警察を目指す女子はどうやら私たちのように気が強く何でもきっぱりと言う性格が多いようだ。他にも私たちのような性格の女子は多かった。

「よし、大丈夫、さ、行こう。ちゃんと私のペースに合わせてよね」

「わかった、ごめんね」

 私たちはまた走り出した。

 真保は性格こそ私に似てはいるが、顔は非常に女子っぽい可愛らしさがある。その点が私とは違う。本人はあまり自分の容姿を気にしている感じはない。いつも薄化粧で外に出たりしている。逆に言うとそれだけで完成してしまう可愛らしさを最初から持っているわけである。

「ねえ、走り終わったらカフェでも行こうよ」 

 真保は今度は安定した呼吸で走りながら私に提案する。

「いいけど、明日の勉強終わってからでいい?」

「何よ明日の勉強って。予習してるってこと?」

 真保は真横からぬっと私の顔を見た。

「そうだけど」

「はあ?馬鹿じゃないのあんた。そんなんじゃ頭固くなって、いざというときに身体動かなくなるよ!おばあちゃんみたいになるよ!えぇい待てぇい、犯人めぇ~」

 真保は腕をよぼよぼと振り回してよくわからない物真似をする。

「なら、私よりも体力つけてから、そんなこと言ってほしいなぁ」

 私は走るペースを上げた。

「ごめんごめん、待ってお願い!」

 今は課外活動と称される時間帯である。

 警察学校の起床時間は朝6時半。けたたましいチャイムがその時間に響き渡る。そしてそのまますぐに日朝点呼のためにグラウンドに全員が集合する。そこから体操とランニングに移る。その後は9時から夕方5時まで授業。それを終えてようやく1日の学校活動が終わり、そこから自由時間、すなわち課外活動の時間というわけである。私は6時に夕食を食堂で終え、少し寮で時間をつぶした後、1時間ランニングを行い、消灯時間の11時まで勉強するというタイムスケジュールを日課としていた。

「真保、ちゃんと勉強してんの?」

 真保は昔から勉強が大嫌いらしい。

「正直に言うと全然やってない」

 予想通りの回答が返ってくる。

 グラウンドでは野球部とサッカー部が練習していた。聞こえてくるかけ声はどれも楽しそうだ。多分訓練の方がよっぽど過酷なんだろう。

 私は部活動には入らなかった。剣道は中学高校と続けたが、いや続けたからこそ、そろそろ卒業時だと思った。それに加え、せっかく行人から教えてもらった剣術を反故ほごにするような気がしたのだ。

 真保も私と同じく無所属だった。だからこうして私のランニングにいつも付き合ってくれている。

「ちゃんとやっといた方がいいよ、わかってると思うけど。高校と同じで、ちゃんと定期テストだってあるんだから」

「もう、ほんと頭固いよね、松坂ちゃんって。普通、5月からそこまで詰めてる人なんていないからね!おわっ!」

 真保は足元の石につまずいたようだった。一瞬体勢を崩したもののすぐに何事もなかったかのように走り直す。

 確かに真保の言う通りだ。周りを見てももちろん毎日のように勉強をしている人たちはたくさんいたが、私ほど時間を費やしている人はいなかった。みんな大抵の時間は他の友達と楽しそうに談笑したりトレーニングをやっていた。

 結局私の過ごし方は高校時代とそう変わらなかった。しかし決定的に違っているのはこうやって私を慕ってくれる真保という友人ができたことだった。

「いいの、私にはこういう生活が似合ってんの」

「お固いね~、もしかして高校からずっとそんな感じだったの」

「そうだけど」

 私は堂々と言った。

「うっわ、ありえない。友達とか、ちゃんといた?」

「いなかったよ」

「あはは、やっぱり!自分からも相手からも寄ってこなかった感じでしょ」

 真保は気分を害しかねないことでもばっさりと言う。私自身もそういったことは気にしない性格であるため、そんな点で性格が合うのかもしれない。

「ご名答よ」

「やっぱりねぇ、松坂ちゃんって、あんまり他人のこと、好きそうじゃなさそうだしなぁ」

 近くで金属バットが綺麗にボールを打った音がした。部員たちの歓声が上がる。

「そんなことないよ」

 本当にそう思った。私が他人とあまり関わろうとしなかったのは、別に他人が嫌いだったからじゃなくて。でも別に好きというわけでもないし。

 自分でも上手く説明ができなかった。

 それから私たちは無言で走り続けた。

 グラウンド周辺を5周したところで真保が「もう限界」と言い出し、そのまま私たちはストレッチをして一旦寮へ戻って着替えたあと、同じ敷地内にあるカフェへ向かった。明日の勉強は後に回した。

 真保と出会ったのは、私がみそぼらしくボロボロの段ボールから荷物を取り出して自分のベッドの上に広げていたときだった。

 学生棟で生活する生徒には、厳密に言うと完全な個室は割り当てられていない。あるのはカーテンで仕切られたベッドだけ。要するにプライベート空間はないに等しいのである。これも集団生活で協調性を学ぶためだと自分に言い聞かせて、ほとんど他人との境界線が溶けているに等しい空間の中で一息ついた。そのとき、ひょこっと顔を外から覗かせ、ベッドに座っている私に話しかけてきたのが真保だった。

 そのときの第一声が「なんでそんなボロボロの箱で荷物持ってきたのさ」だったことは今後も絶対に忘れることはないと思う。

 そのとき私は何と答えたか覚えていない。まさかいきなり話しかけられるとは思っていなくて、戸惑って変なことを言った気がする。真保は「なにそれ」と言って笑っていた。

 それからその流れで同じく共同スペースにいた他の女子たちもつられて集まり、私のベッドの前で自己紹介することになった。その中で真保はどちらかというと中心人物になって話を進めていた。あんなに協調性のある人間なのに真保が部活に入らなかったり、あまり他の女子と集まって談笑したりしていないのは少し不思議だ。真保のさばさばとした性格上、それくらいの距離感が最適なのかもしれない。

 その後は6人くらいで学生棟の中を見て回った。私自身ちょっと疲れはしたが悪い気分ではなかった。それから同じ部屋の人とは毎日挨拶を交わすようになったし、別部屋の人たちの中にも友達が増えた。私にとっては到底ありえないようなことだった。

 そして改めて入学式を終えて授業が始まると他の人たちは新しい環境に慣れ、友達の選別が始まったかのように特定の人たちとずっと一緒にいるようになった。結局私とたくさん話してくれた友達とはときどき話すだけになっていた。今でも私に話しかけてくれるのは真保だけである。

 カフェには相変わらず生徒が多かった。そういう理由から私は普段からほとんど行くことがなかった。

「アフォガートください」

 真保は慣れた口調で聞いたことのないものを注文した。私は素直にオレンジジュースを注文する。

「ええ、松坂ちゃんコーヒー、ブラックで飲んでそうなのに意外」

 真保は笑いながら手元のアイスクリームの上に湯気の出るコーヒーをかけていた。どうやらこれがアフォガートというらしい。マグマが岩を溶かしているようだった。

 私は真保のからかいを無視してストローでオレンジジュースをすする。柑橘かんきつ類特有のちょっとした苦みと酸味が口の中に広がる。

「そういえば松坂ちゃんはどうして警察になろうと思ったの」

 私はストローを持った手を止めた。

「それ、面接試験みたい」

「でも単純に気になるじゃん」

 私は内心で迷っていた。素直に両親が死んでいることを言うべきだろうか。真保なら言ったところで変に気を遣ったりすることがなさそうだが、両親が死んでいることを知られること自体に抵抗があった。

「そう言う真保はどうなのよ」

「世の中をよくするため!世の中をよくするために警察官になりたいの」

 真保は自信満々に胸を張って言った。

「それって、誰だってそうじゃないの?」

「違うの、まだ続きがあるの」

 真保は最後のひとくちを口に入れ、私の目を真剣なまなざしで見た。

「お年寄りを救いたいの」

「どうやって?」

「お年寄りってどうしても詐欺とかで狙われやすいし、身体だってそんなに強くない。だからお年寄りを狙ったひったくりだってずっと減らないじゃない?もうお年寄りが安心して外を歩けるような世の中じゃないの。身体が衰えてきたら、ずっと家に閉じこもって安全にしていないといけないの。そんなの嫌でしょ。だから私はお年寄りが安心して出歩けて、その生涯を終えるまで笑って過ごせるような世の中にしたいの」

 話し終えて真保は「ふう」と一息ついた。

 初めて自分と同じく警察官を目標とする人の話を聞いた。警察官になってお年寄りのために社会をよくしようとは思ったことがなかった。どちらかというとお年寄り含め、すべての人のために社会に貢献しようという考え方だった。

 次はそっちの番だよと言わんばかりに真保は私を見つめていた。

「私は、誰も血を見なくていいような世界になってほしいから」

「血?」

 真保は不思議そうに聞いた。

「なんか、そういう、残酷な体験とかしたことあるの?」

「いや、そんな大袈裟じゃないよ。血はあくまで比喩表現。誰も悲しまなくていい世界。そう言いたかったの」

「そっかぁ、誰も悲しまなくていい世界かぁ」

 真保は虚空を見つめた。平和だった昔を思い返す老人のようだった。

「そうだよね、最終的な目標はそれだよね。お年寄りも含めて、全員が安心できる世界」

 それから私たちはカフェでいつものような他愛のない話をして、学生寮に戻った。戻った頃には7時になっていた。

 私は自分たちの部屋に入るなり、すぐにカバンから教習本とノートを取り出し、自習室へ向かった。

 自習室へ入る直前に来た道から真保が衣類とタオルを持ちながら「お風呂行ってきま~す」と歩いてきた。私はいつも入浴時間の終わるギリギリの時間に浴場を利用していた。毎日お風呂に入ることができるのは幸せなことだと改めて実感した。

 それから2時間ほどで勉強を終え、人が少なくなった浴場を使い、自分の部屋に戻った。ベッドに腰かけ、ひとりひとりに備え付けられたコンピュータを使って叔母さんが住んでいる仮設住宅宛に電子メールを送信した。内容は特別なことはなく、いつも顔を合わせながら行っていた家族のやり取りである。数日に1回はこうやって必ず叔母さんに連絡していた。叔母さんからはすぐに連絡が返ってくる。

 何通かやり取りをしていると日夕点呼の時間になった。私たちは体育館に集合し、教官から連絡や指示を受け、解散する。

 部屋に戻ると私はベッドの上で仰向けになった。

 ここで生活するようになってから毎日疲れてすぐに入眠するようになった。当たり前だ、毎日のように教習を受けながら訓練も行っているのだ。心身共に疲れるのは当然だ。

 まだ消灯時間までは時間がある。しかし他の部屋の人たちも私と同じく疲れきっているのか、ほとんどの人がカーテンを閉じてベッドに横になっているようだった。

「まだ起きてたい人いるー?いたら返事してー」

 屋戸由香やどゆかの声がカーテンの向こうから聞こえてきた。真保以上にリーダーシップを発揮しているみんなの姉的な存在の人だ。

「いないね、んじゃ、おやすみ、みんな」

 電気がぱちっと消え、いろんなところから「おやすみー」と声が上がる。私は黙って目を閉じていた。

 私はこっそりとカバンからバスタオルを取り出した。そしてそれの匂いを嗅いだ。

 行人の匂いがした。鉄のような匂い。

 本人が知ったら私のことを嫌いになるかもしれない。私自身でも気持ちが悪いことをしていると思う。しかし、寂しさには抗えなかった。

 そもそもこのバスタオルは意図的に持ち出してきたものではない。私の衣類に紛れて段ボールの中に入っていたのだ。

 このタオルは行人がよく使っていたものだ。洗ったばかりのものを持ってきたようだ。汗の臭いはなかったが、水だけで洗っているせいで洗剤の匂いもしない。ただ、行人の匂いだけがする。

 私はそれを抱き枕のようにゆっくり抱きしめる。標準的な大きさのバスタオルなだけに抱き応えがない。しかし、私はそれでも行人と一緒に眠った夜のことを思い出すことができる。

 行人、私は元気だよ。そっちはどう?

 おやすみ行人。結局まだ1回しかそっちに戻っていけてなくてごめんね。ゴールデンウィークは絶対に会いに行くからね。

 何度も行人の名前を頭の中で呟き、私はいつものように眠りに落ちる。











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