第13話
行人は「ほらよ」とだけ言って私に湯気の出るコップを渡してくれた。
それを受け取ると途端に私を包み込むような匂いが
スプーンを貰えなかったので仕方なくコップに口をつけてずずっと飲むと少しだけ懐かしい味が口の中に広がる。
思い返せば初めて行人の拠点、すなわち今私がいるこの廃アパートに来たときもこんな風にシチューをもらった。ものを渡すときの行人は相変わらず不器用に親切心を隠そうとしてくる。
私は肩から毛布がずり落ちないように片手で抑えながら改めて自分がいる空間を見渡した。
相変わらずいたるところにヒビが入っている。人が手放し廃墟と化した空間。かつては生きていた空間。
私と行人だけが侵入を許された空間だった。
ソファやテーブルなどの配置は変わっていない。これらをそのままにして一度廃病院に移ったのだから当たり前と言えば当たり前だった。それもあって、長い間ここを離れていた感じはしなかった。朝学校へ行って夕方帰ってきた家のような感覚だ。
ただ、ひとつ問題があるとすれば廃病院とは違って寒いことである。廃病院と比べてこのアパートは相当古いものらしく、ソーラーパネルが設置されておらず、それゆえ自力で発電することができない。
さらには私は2時間ほど雨に濡れていたわけであって、体温は下がっていた。そんな状態で暖房器具のない廃墟で何とか体温を保持しないといけない。
「風邪をひかれても看病なんてしていられないから困る」と、意地の悪い行人は私にありったけの毛布や布を投げつけた。私はそれらをかき集めて身体を覆った。
行人はびちゃびちゃになった私の制服を手作りの物干しにかけてくれた。
私はカバンから他の着替えを取り出し、行人が見ていない間に着替えていた。
しばらくカタカタと震えていたが、シチューをすべて飲み干すころには毛布の中はだいぶ温まっていた。
本当はまだ聞きたいことがあった。
叔母さんを監禁していた暴力団との詳しい関係。他に繋がっている暴力団の有無。叔母さんを逃がそうと画策したときの詳しい手段。どうしてここにまた戻ったのか。そしてこれからのこと。
ふと視線を上げると行人と視線が合った。行人の方からすぐに視線を外す。
「なに?」
私は尋ねるが行人はそっけなく「別に」と向こうの部屋へ消えた。
私は鳥の巣みたいな毛布の山を引きずりながら行人の跡を追う。
こっそりと中を覗くと、行人はガスコンロの上に載ったままでまだ湯気の出ているシチューの鍋に手をかざしていた。
この一室には暖房器具がないのだ。
私ははっとしてそのまま行人の方へ歩み寄った。
化け物のように大きくなった私が背後から迫ってきていることにぎょっとした行人は臨戦態勢になった。
「ごめん、全部毛布とか使っちゃって」
私は本心から申し訳ないと思っていた。そして自分の一部をむしり取って行人に渡す。
行人は「いらねえよ」と、ぶっきらぼうに返す。
「行人だって風邪ひいたら私以上に困るでしょ。いやよ私のせいで行人が風邪ひいたら」
「だったら最初から雨の中歩いてくんじゃねえよ」
行人は
私は少し迷ったがしばらく行人が油断するのを待った。いつまでも行人を観察していると迷惑そうに行人は「なんだよ」と吐き捨てて今度は私がいた部屋まで移った。
チャンスだ。行人が背を向けた。
私は足音を殺して行人の跡をつけた。多分足音は聞こえていると思うが気にしない。
行人はソファに腰かけた。私は行人の横までゆっくり移動し、鳥のように両手をばっと広げ、そのまま行人を飲み込んだ。
「お前、何やってんだよ!くさいから離れろ!」
「はあ?今なんて言った?女子にそんなこと言うなんてありえない!」
「ち、違う!雨でくさいって言ったんだよ!いいから離れろ!」
行人の身体は冷たかった。その分だけ行人を温めてあげたくなる。
「やだ!」
私は精一杯の力で行人を両手で抑え込んだ。
「恥ずかしいからやめろって」
「誰も見てないんだから恥ずかしいことなんてないでしょ」
私なりに正論をぶつけて一矢報いたつもりだった。でも行人はこれといって怯んだ様子を見せない。
行人はやがて抵抗しなくなって黙って私に包まれた。表情は相変わらず不満げだった。
行人の肩に私の肩が触れる。行人のにおいがする。何かが焦げたみたいなにおいがした。
ゆっくりと優しくてひんやりとした安心感と幸福感が私を満たし始めてくる。
行人の存在をすぐそこに感じていた。
ずっと私はこうしたかったのかもしれない。ずっと行人に近づきたくて、でも何回か嫌いになって。でも結局行人に近づきたくて。
私は行人の肩に頭を預けた。もしゃもしゃとした行人の癖毛が私の髪に絡まる。
よほど気持ちが緩みきっていたらしい。私の手からするりと毛布が落ちた。
途端に冷たい空気が私たちの間に入り込んでくる。
行人は落ちた毛布の端を拾い上げて元通りに重ね、今度は私の代わりに私を包み込んでくれた。
これまで感じたことのないような安心感、幸福感が私を優しく満たした。全身がふわりと浮いたような気分になる。
「短い腕だな」
行人はすぐにこうやって私をからかう。
「こう見えても身長は高い方ですけどね」
「何センチ?」
「161」
「たったそれだけで威張ってんじゃねえよ」
「そりゃあ行人にとっては小さいかもしれないけど女子の中では大きい方だからね」
私はむきになって反論する。行人はそんな私を小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「そういえばお前、叔母さんはどうしたんだ。せっかく助けてやったのにまた1人にしていいのかよ」
私はふと、行人はまだ名前で呼んでくれたことがないなと思った。
名前で呼んでなんて恥ずかしくてさすがに言えないけど。だからといって黙ったままだと一生呼んでくれそうもない。
「うん、ちょっと申し訳ないと思ってるけど、叔母さんならきっと許してくれるよ。多分これから毎日のように電話がくるかも。たまには行人も話してあげなよ」
「話すわけないだろ。うちの燐花を返せって言われたらどうするんだよ」
あ、私の名前は一応知ってたんだ。
「そうね、そのときは行人が責任もって叔母さんに頭下げに行かないとね」
それ以上私の
私はそれから何の気なしにずっと気になっていたことを聞いた。
「行人の母さんと父さんはどうしてるの」
「2人とももういねえよ」
聞いてからしまったと思った。必死に何か言葉がないかと探す。
「いいって、気にすんな」
行人は死んだとは一言も言っていない。しかし妙にそういう確信があった。
「本当にごめん」
何とか見つけ出した言葉は単純すぎる謝罪の言葉だけだった。
「もう昔の話だよ。親父は誰か知らねえ。母親は死んだ」
「そう、なんだ」
親父は誰か知らない。母親は死んだ。父親の安否どころか生まれたときから会ったことがないということだろうか。気になったが聞く気にはならなかった。
「じゃあ、私と同じなんだね」
無理に共通点を言うと行人はいつも「一緒にすんじゃねえ」と怒る。しかし、今回に限っては行人は小さく「ああ」と呟いただけだった。
「つーか、わかってんだろうな」
重い空気を断ち切るように行人は私の方を向いた。すぐそこに行人の顔がある。心臓がきゅっとなり、私は柄にもなく少し緊張した。
「これからは収入のねえ生活になるんだからな」
「はあ、なに言ってんのよ。収入ってのはちゃんとしたところで働いている人が受け取るものでしょ。ドグマの連中に情報売ってもらったお金なんて収入って言わないわ」
「でも、俺があいつらと繋がっていなかったら、今になってもお前の叔母はあそこで奴隷扱いだぞ」
私は毛布の中で行人の太ももを叩いた。
「卑怯よ。そんな言い方。叔母さんが自力で脱出する可能性だってあったかもしれないじゃない」
「さあどうだか。果たして非力な一般人が1人でドグマのアジトから脱出なんてできるものなのかなあ」
「なに?お礼を言ってほしいわけ?」
「ああ。そうだよ。こっちは命を危険に晒して、しかも収入完全に断ち切ってまで助けてやったんだからな。一生かけてでもいいから恩返ししてほしいよ」
「ほんっとにありがとう!恩着せがましい人」
私は行人の肩に自分の肩をぶつけた。行人は満足げに「それでいい」と口角を少し上げた。
「あ、そうだ。約束よ。私にちゃんと教えてよ」
今度は私の番だ。
「約束?」
行人は眉間に
「覚えてないの?行人に全力で殴りかかれるようになったらちゃんとした人との戦い方教えてくれるって言ったじゃん。約束破る人は信用されないわよ」
行人は「ああ」と思い出したようだった。もしかして本当に忘れてた?
「確かに言ったが、俺は殴ったらと言ったんだ。殴りかかったらなんて一言も言ってないぞ」
「だって行人が避けるから・・・。しかも何回も殴ったのに全部避けたじゃない。あんなのずるいよ」
「あんな見え見えの攻撃、避けるに決まってんだろ」
「それでも私は本気だったわ」
行人は面倒くさそうに「んん」と
「まったく頭の固いやつだ」
と言いながら毛布の中から出た。
ずり落ちた毛布をかき上げながら私は行人の次の言葉を待った。
「もう身体は温まっただろう。準備運動してから外に来い」
しばらくその言葉が信じられなかった。私はバネのように飛び上がって喜びたい衝動を抑えて立ち上がった。2人の体温で温まった毛布を申し訳程度に畳んでソファに置いた。
体温はとっくに戻っていた。むしろ全身が高揚さえしていた。
しばらくすると行人は隣の部屋から木刀らしきものを2本持って、食器棚をずらして下まで降りていった。
私はそんな行人の背中を自分の両足の間から逆さまに見ていた。準備運動を一式終えて私も後に続いた。
外では行人が木刀を2本地面に立てかけて待っていた。私は水たまりを避けながら行人のもとへ近づく。
行人は「ん」と言って私にそのうちの1本を渡した。
ずしりとした重さが私の両手に伝わる。
中学、高校と剣道部だったため竹刀を毎日のように持ち、毎日何十回も素振りをしてきた。しかし似ているのは形だけで竹刀とはまったく違う物質を持っていた。
まず行人は基本となる構えを教えてくれた。眉間や
私はそんなことを知らず、剣道の構えよろしく行人に真正面を向けて竹刀を構えると、いきなり喉元に木刀の先端が飛んできた。寸前で止めてくれたが、やはり行人はここぞとばかりに私のことを馬鹿にした。こいつ、絶対人を教えるのに向いてない。
そして基本的な攻撃方法。木刀は振り下ろすのではなくて突いて攻撃するということ。これは行人の自己流で考え出した解答らしい。剣道を続けてきた私にとっては違和感しかないことだったが、それでも行人に従うことにした。
最後に竹刀を使って相手の身体を操る方法も教えてくれた。行人は私の首の付け根にそっと竹刀を当て、身体を半回転させたかと思うと私は2メートルほど飛ばされていた。
やり方を教えてもらって行人にも同じことをした。何回も練習すると本当に身体の回転だけでほとんど力を入れなくても行人を飛ばすことができた。
こうしているうちに数時間が経った。
私たちは完全に日が落ち、何も見えなくなるまで続けた。
くたくたになって私はソファに頭から飛び込む。今や冷たくなった毛布の山に私の顔が埋まる。ひんやりして気持ちいい。行人のにおいがした。そういえば私、ここに来る前に走り回ってたんだった。
はっとしてカバンからスマートフォンを取り出すと、大量の着信が公衆電話から来ていた。しまったと思う。私の方から叔母さんの方にかけることができないんだ。
私は心の中で叔母さんにごめんと呟いた。明日絶対会いに行くから。
行人がいない部屋で濡れたタオルで全身を拭いた。すぐに身体が冷え始め、私はソファの毛布を半分ほど取ってローブのようにまとった。
行人は全然疲れた様子を見せなかった。何食わぬ顔で足元の段ボールから缶詰めやカップ麺を取り出している。
その晩は久しぶりのインスタント食品で夕食を済ませた。懐かしい非日常の感覚が口の中に風味として残る。
私は疲れて食後すぐにソファの上で眠ってしまった。直前まで行人と他愛ない話をしていた気がする。
そのせいで夜中に目覚めてしまった。
行人は私の眠っていたソファの陰で静かに寝袋にくるまって寝ていた。
私はぼんやりと遠くを見つめていた。
これでいいんだよね。私はこうやって行人といることが一番幸せなんだよね。
私は自分自身に問いかける。幸せなのは間違いない。私はこうやって行人と同じ空間にいることをずっと望んでいた。
たとえ行人が悪人であったとしても。
そして行人は今は悪人ではなくなった。暴力団との関係はなくなった。他にも悪いことをやっている可能性はあるが、そこは行人を信じたかった。
しかし、そのせいで行人はお金を得る方法をなくしてしまった。
新しくちゃんとした稼ぎ口を探せばいいかもしれない。しかし一度暴力団と関わりを持ってしまっている行人がそんなことするだろうか。
私が行人に言ったことは本当に正しかったのだろうか。
だって行人があそこからお金をもらっていたから私たちは生きていけたのであって、このままだと私が寮に移った後に行人が飢え死にする可能性だって・・・。
私はとんでもない過ちを犯したような気分になった。
行人だって本当はわかっていたのかもしれない。自分のやっていることは悪だって。それでも生きるためにやった。それは行人にとっては否定しようのない正義で。
急に心臓を冷たい手で掴まれたような感覚に陥る。
呼吸が荒くなる。
私は自分の身体を抱えるようにして毛布の中に沈んだ。
言い知れない恐怖と罪悪感に支配されていた。身体がカタカタと震え出す。
私はもしかして、行人にとんでもないことをしてしまったのではないだろうか。
私はいたたまれなくなり、ソファから起き上がった。そしてその裏側で眠っている行人のもとへ歩み寄る。
行人が眠っているかどうかなんて関係なかった。とにかく今は罪悪感を消し去りたかった。
「ごめんなさい・・・、ごめんなさい」
私はぎゅっと寝袋を握る。
額を行人の肩に当てる。何度もそうしながら謝った。
すると目の前の寝袋がぐるりと
「ご、ごめん」
この謝罪は起こしてしまったことに対するものだった。行人を起こしてしまうことは予想できていたのに申し訳なくなった。情けないほどに声が震えていた。
「いいって、寒いだろ。ここ入れよ」
何があったのか聞こうとはせず、行人は低い声で優しく私に語りかけた。
私は少しも
「私のせいで、行人が、ごめん。ごめんなさい」
私の
私は何度も行人の胸の中でごめんなさいと謝り続けた。行人はそんな私を優しく両手で包み込んだ。普段の行人からは絶対に想像できないほど柔らかく優しい感触だった。
そのせいで私はますます涙を抑えることができなくなった。
行人は何も言わずに何度も何度も私の背中をさすったり、頭を撫でてくれた。
本当の正義なんてあるのだろうか。私はまたもや自分に問いかけていた。
私がしてきたこと、信じてきたことは本当に正義なのだろうか。
行人がしてきたこと、信じてきたことは本当に悪なのだろうか。
いつかわかる日がくるのだろか。
それとも一生わからないままなのだろうか。
私はいつの間にか泣き疲れ、行人の腕の中で寝息を立てていた。
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