第12話

 高校を出て20分ほど走ったところで私は立ち止まった。体力が尽きたわけではない。思いとどまったのだ。

 行人のもとから離れてすでに2週間が経過している。さすがに早すぎる気はするが行人がすでに別の拠点に身を移してしまっている可能性もある。

 叔母さんの話を参考にすると、行人がドグマの事務所を訪れた日の夜中に叔母さんが逃げ出していることになる。そうなると行人が怪しまれ、追われることになることだってないとは言い切れない。

 行人のことだから、行人自身にはもちろんのこと、私や叔母さんに変な足がつかないように上手く立ち回ってくれてはいるだろうが、だからこそ行人がすでに身をくらませている可能性が高いのだ。

 その場合私はどうすればいいんだろう。もし、もうすでにあの廃病院から行人が去ってしまっていたら。この広い東京の中で特定の人間を見つけられるわけがない。ましてやずっと身を隠して生きてこれた行人だ。不可能だ。

 考えただけで胃をきゅっと握られたような気分になる。

 私は不安を振り払うように強く拳を握り締めた。考えるより今は行動するべきだ。実際に行人がいるか確認してみるまでわからないのだから。

 元気で生きろだなんて、あんなこと言われたままなんて納得できない。


 廃病院に着くまでにサイレンの音を6度も聞いた。パトカーが4回。救急車が2回。その音を聞くたびに私は行人の身に何かあったのではないかといらぬ心配をしてしまう。そもそも毎日のようにサイレンはあちこちから聞こえていた。今となっては日常の一部でしかない。それなのにそこまで動揺するなんて、相当不安に侵されているらしい。

 廃病院は相変わらず廃墟一帯の中でも存在感があった。

 私は忘れずに周囲をこっそり見渡し、誰かから跡をつけられていないか確認する。

 一歩踏み出すごとに廃墟との距離が近づく。それに従って心臓の音がどんどん大きくなっていくのがわかった。期待、不安。ふたつがぐちゃぐちゃに混ざって私を満たしていた。

 私は正面玄関まで向かった。全面ガラス張りのドアはひび割れており、そこには『立入禁止』と黒文字で書かれた黄色のテープが何本も引かれている。こちらはダミーの出入り口だ。行人と2人でこれを作ったのが懐かしく感じた。2週間前となんら様子は変わっていないようだった。

 私は再度周囲を確認してから今度は壁伝いに歩き、生い茂ったつたの中に入った。ここが2人だけの裏口であり、本来の出入り口でもあった。

 壁にできた穴からは、中を塞ぐように木の板が見えた。

 私は内心で小さくガッツポーズをした。出入口がこうやって塞がれているということは行人が依然としてこれを使っていて、たった今もこの中にいる可能性が高い。

 私は慎重に壁と板の間に指を差し入れ、ゆっくりと板を移動させた。

 中を覗くと相変わらず鬱屈うっくつとした薄暗闇が広がっている。

 私は隙間を縫うようにして中に入った。

 本来は不気味で侵入が阻まれるようなところであるはずだが、私にとってはもう慣れた空間で、どんどん足が進んでいく。期待感も私の背中を後押ししていた。

 正面玄関と真逆の方向から廊下を歩く。途中にある階段を上って2階を目指す。

 聞えるのは自分の高まる息遣いと響く靴音だけだった。

 ガラス片や枯れた小枝が踏まれるたびに小さな悲鳴を上げる。何もかもが以前と同じ状態だった。

 そして私たちが過ごしていた診察室の前まで来た。自分の影が横開きのドアにシミのように張りついている。

 中からは何の物音も聞こえなかった。しかし私は不安な気持ちを振り払うように強くドアに手をかけて横に開いた。

 突然目の前が真っ白になり、私は思わず顔を背けた。暗闇の中で開いた瞳孔に過剰な光量が差し込んできたのだった。

 目を細めながら私は中を見る。違和感を覚えたのと絶望感に襲われたのは同時だった。

 中に広がっていたのは殺風景な景色。ところどころヒビが入ったタイル張りの床。あたりに散乱したよくわからない医療器具の残骸。

 とても誰かが最近そこを利用していたとは思えない、何年間も自然の中に放置され続けた紛れもない廃墟の一室。カーテンは開け放たれ、廃墟らしいドライで突き抜けるような光が外から入り込んでいた。

 私はめまいの中、フラフラと後退した。足に力が入らなくなっていた。背が壁に当たる。ひんやりとした感覚を感じながら私はそのまま枯れた植物のようにへなへなと座り込んだ。

 だめだった。遅かった。もう行人はいない。もう会えない。私はこれからは誰ともわかり合えず、ずっと1人で生きていかないといけないのだ。

 身体が途端に震え出した。寒さで震えているというよりは今後の人生に抱く恐怖心で震えているように感じた。私だけが1人この世に取り残されたように感じた。

 震えが我慢できなくなり、私は力の入らない全身を何とか奮い立たせて立ち上がった。

 左右にふらふらと揺れながら私は吸い込まれるように診断室へ入った。はなをすする。まだ諦めてはいけないと自分に言い聞かせる。

 別の診断室に入ったのかと錯覚するほど、その空間は冷たく無機質だった。とても私たち2人が数週間前までここで温かい日々を送っていたとは思えない。

 何か行人の手掛かりになるものはないかと私は周辺を見回した。

 奥の通路を通って隣の処置室にも行く。そこも同様に人が過ごしていた証拠が散乱したガラクタによって巧みに隠蔽いんぺいされていた。まるでタイムスリップでもしたような気分である。

 すべての棚を調べ、地面を這うようにして診察台の下までくまなく何か手掛かりがないかと探す。

 しかし、結局何もめぼしいものは得られなかった。最初から行人と私はここに存在していなかったかのようである。

 私は肩を落とし、診断室を出た。喪失感で身体がぐったりと重い。

 ここまで徹底して2人の生活の跡を消してしまうとは。どうしてわざわざこんなことをするのだろう。

 以前住んでいた廃工場地帯の隠れ家はこんなことまでせずに冷蔵庫とか家具は置いてきたのに。

 そこで私は立ち止まった。ものすごい勢いで血が脳内をめぐっていくのがわかった。

 そうだ、行人は廃工場の隠れ家でこんな証拠隠滅は一切やっていなかった。何かあったらまた戻ってすぐに拠点として機能させるつもりであるかのように。それに行人はこの廃病院には過去にも住み込んでいたことがあると以前話していた。しかし私が初めてここに行人と来たときは行人が住んでいた跡がなく、完全な廃墟になっていた。

 私は眉間にしわを寄せる。行人のこうした一連の行動の行動と目的が私の中で繋がらない。

 廃病院の方は生活の証拠が意図的に消されている。

 それに反して廃工場の方は生活の証拠がそのままで行人と私は立ち去っている。。

 そもそも行人は以前ここに来ていないのではないか。理由はわからないが嘘を私に吐いていた。廃病院という住むのを躊躇ためらうようなところに私が一緒に移るように説得するための嘘だとしたら。

 行人とここに初めて来たときのことを思い出す。屋上にソーラーパネルがあることを知っていたり、1階の電源盤があることを知っていたり。行人の行動にはかつてここに住んでいたということを信用できる要素があった。

 しかし行人のことだ。事前に調査していたという可能性も捨てきれない。

 そして強引かもしれないがひとつ気になる点があるとすれば正面玄関のガラス扉。行人は裏口などのダミー扉から拠点を出入りするのを好む。それなのにここに来たときの行人は裏口なんてないかのように堂々と正面玄関から中に入っていた。わざわざ壁を壊してまで裏口を作り始めたのはここに住み始めてからである。

 そして私の中で答えが浮かんだ。

 強引な推測であるのは自分でもわかっていた。それでも今はそれにすがるしかない。

 つまり、行人にとって廃工場の拠点は今後も何かあれば戻る予定の場所で、ここは何かあれば捨てるつもりの場所だったということか。

 それだとしたら一生懸命ここを掃除して快適な空間にした私の行動は何だったんだ。

 行人に断罪すべき項目がひとつ増えた。

 私はカバンを持ち直し、大股で歩き出していた。

 何の根拠もない希望だけど、信じてみる価値はある。少しでも可能性があるのなら。

 私は1階の裏口から外へ出た。板を元通りにして裏口を塞ぐ。

 心臓が高鳴っていた。

 時計はすでに午後3時に近づいていた。ここから工場地帯の距離を考えると日没までには辿り着けるか怪しかった。日が暮れてしまえば行人を見つけるのも困難になる。

 私は走り出した。今度こそ最後の希望だった。


 廃工場へ向かっている途中からしとしとと雨が降り出していた。

 私は気にせずに走り続けていた。冬の冷徹な空気が容赦なく肺に突き刺さる。それでも走った。息が上がっても立ち止まらずに身体を引きずるように歩きながら呼吸を整え、再度走り出した。とにかく足を止めるわけにはいかなかった。

 そして私はついに廃工場へ到着した。

 雨は降り出したときよりも強くなっていた。私は額に張りついた前髪を耳にかけ、コンクリートの上を大股でバチャバチャと歩いた。

 そして視界に入ったものに心臓が跳ねた。

 前方にあった水溜まりなどお構いなしに真っ直ぐそれに近づく。

 私が漕がされて廃病院まで荷物を運んだ自転車だった。瓦礫の山にあたかも自分も同じく廃棄物であるかのように同化しながら停められていた。後輪の左右に固定されたカゴもまったく同じものだ。

 やはり行人は最初から何かあったらここに戻ってくるつもりだったんだ。私の考えは間違っていなかったんだ。

 私ははやる気持ちを抑えて行人がいるであろう廃アパートの方向へ向き直った。浮かれてなどいられない。

 雨の中、息をひそめて崩れかけた廃アパートの中に入る。

 相変わらずその中に入ってしまえば真っ暗で、気を付けて歩かないと瓦礫に足を取られそうだった。

 気分は容疑者を追い詰めた刑事だった。私は深呼吸をして壁伝いにどんどん中に侵入した。そろそろ瓦礫でできた階段があるはずである。それを上って食器棚を押しのけて壁の穴から侵入すればきっと行人に会うことができる。

 そう考えていたときだった。意識を夢想に集中しすぎていた私は自分の身体が宙を浮いていることに気がつかなかった。

 現実世界に意識が戻ってきたころには私は地面に押さえつけられていた。自分の腕がどこにあるのかわからない。

 全身もまったく動かなくなっていた。身体の重心をものすごい力で押さえつけられているようだ。

「何しに来たんだ」

 私の真上から慣れ親しんだ、けれども冷たい声が聞こえてきた。

 夜行性の肉食動物に食われんとする獲物のような気分で私は必死に声を絞る。

「あんたに言いたいことがあってわざわざ会いに来たのよ。とりあえず放して。痛い」

 行人は少し考えた末、乱暴に私を開放した。

 ようやく自由になった両腕を動かす。だんだんと感覚が戻ってきた。いくらこちらが警戒しておらず、さらには暗闇の中であったとはいえ、一切存在を感じ取られることなく奇襲できるとはやはり行人の戦闘能力の強さを認めざるを得なかった。

「それで、何の用だよ。どうしてここにいるってわかった?ずっと追ってたのか?」

 なに自惚うぬぼれたこと言ってんのよ。と心の中で思ったがそんなことを言いに来たわけではない。私はゆっくりと立ち上がった。

 私は暗闇の中で改めて行人と向かい合った。こちらからは表情を見ることができない。

「まずは、えっと、その。叔母さんのこと。ありがとう。本人も、感謝してた」

 口をついてそんなことを言っていた。本当はそんなこと言いに来たわけではないのに。

「ああ、礼には及ばん」

「えっと、それで、その、私のスマホの画面見て、叔母さんのこと知ったんでしょ」

 違う。そんなことを言いたいじゃないの。

「ああ、そうだよ。できるだけそういう情報は頭に入れておいて損はないからな」

「そう」

 気がつかないうちに下を向いていた私は行人の姿を改めて見上げた。シルエットは何も変わっていなかった。肩まで癖毛が伸びてしまっている。

「なあ、いいからそんなこ・・・」

「あのさあ!」

 私は意を決して、目の前にいる行人を見据えた。両手を握り締める。

「どういうつもりなのあんた!あんなこと叔母さんに言っておいて!」

 全身が震えていた。そのせいで口が上手く回らない。それでも私は溢れる感情をそのまま行人にぶつけた。

「はあ?何が?」

 行人が声を荒らげた。少し苛立ったのがその声からわかった。

「元気に生きろって?何のつもりなのよ!」

 私は一歩踏み込んだ。

「私がっ・・・」

 そのまま行人の胸ぐらに掴みかかる。今度は行人は避けなかった。

「あんたなしで、私が元気に生きられるわけないでしょ!」

 私はバランスを崩し、そのまま前方に力なく倒れた。行人はそんな私を受け止めた。

 行人の胸の中に立ったまま顔をうずめる形になった。しかし私は甘んじることはしなかった。

「そんなこと、とっくの前からわかってたでしょ!」

 行人から身を引きはがし、今度は行人の顔を見据えた。暗闇でもこの距離から行人の顔ははっきりと見ることができた。真剣な表情だった。先ほどの苛立った口調から予想できる表情とは違って真摯しんしに私の目を見ていた。

 私は怒りと愛おしさの入り混じった思いを拳に込めた。爪が食い込むほど強く握り、そして弓のように引き絞った。

「ふざけんな!」

 そう叫んで顔面めがけて思いっきり拳を放つ。

 しかし私の拳は虚しくも宙を裂いただけだった。全身の力を腕先に任せていた私は情けなくそのまま頭から地面に倒れこんだ。幸いにも倒れこんだのは柔らかい土だった。

「何でそこで避けるのよ!」

 私は倒れたのを誤魔化すためにすぐに身体を起こしてわめいた。途端に顔が紅潮するのがわかった。

「そんな大振りで当たるわけないだろお前」

「うっさい馬鹿!ふざけんな!」

 私は行人に掴みかかった。

 まるで駄々をこねる子供だ。本当に情けない。こんな姿、母さんにも父さんにも、叔母さんにも誰にも絶対見せられない。

 行人だから見せられる、私の強情で子どもっぽい部分だ。

 それからはもう何が何だかわからなかった。私は本当に子供のように自らの感情に任せて、阿呆あほだとか馬鹿だとかふざけんなとか、言いたいことを思う存分に叫んでいた。

 行人は私の繰り出す拳をすべて避け、ずっと私を引きはがそうとしていた。私はそれに負けじとしつこく醜い姿で行人に飛びかかり続けた。

 そうやってしているあいだに流石に疲れ始め、私はぐったりと行人の胸の中に身体を預けていた。行人も抵抗するのを諦めたのかもう私を引きはがそうとはしなかった。

 しばらくふたりでそうやっていた。

 身体の震えはもうなくなっていた。

「もう満足?」

「うん」

「じゃあ、中、入るか。寒いし」

「うん」

 雨はもうやんでいた。先ほど一瞬強まった雨が嘘のようだった。

 廃工場地帯の上空ではその雨が霧となって空へ昇っていた。今は死んでしまった工場が息を吹き返したようだった。

 溜まった涙をすべて落とした雲の隙間からは夜空が覗いていた。









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