第11話
私は自分の耳を疑った。
到底叔母さんの口から出てくるとは思わない人の名前。
行人さん。
確かに叔母さんは今そう言った。どういうことだ。聞き間違いを疑った。あるいは偶然同じ名前の人物を差した。逆にそんなことこそあるのだろうか。
私はかなり長い間、石のように固まっていたらしい。叔母さんが心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「ちょっと、どうしたの燐ちゃん。大丈夫?」
その言葉で魔法が解けたように私は息を吹き返す。
「行人さん、燐ちゃんも知ってるでしょ。あっちも知ってるみたいだったわよ」
ますます訳がわからない。どうして叔母さんがそのことを知っているのだ。
耳に入る言葉が現実のように思えず、めまいが起こる。
「ちょっと待って、叔母さん。私、今、すごく混乱してる。どういうこと?どうして叔母さんが行人のこと知ってんの」
「だから行人さんが助けてくれたのよ。私のことを」
だめだ、
「ご、ごめん叔母さん。もう1回最初から説明してもらっていい?その、単なるできごとだけを言うんじゃなくて、時間の流れに沿って何があったのかわかりやすく」
叔母さんは照れたように笑った。「ごめん。ちょっと興奮しちゃって、舞い上がってたわ」と口元を隠した。
私たちは近くにあったベンチに腰かけた。近くに誰もいないことをそれとなく確認して叔母さんは話し始めた。
話は私と行人が2度目の
周辺にいつの間にか設置された大量の起爆剤が爆発したとき、叔母さんは庭の花に水をやるために玄関のドアを開けようとしたしていたところだったという。
一瞬の閃光とともに見えない力で全身を飛ばされ、同時に真上から天井が落ちてきた。しかし幸運にも天井と床のわずかな隙間に身体が入り込み、下敷きになることは防げたらしい。
全身を叩きつけられており、痛みでしばらくは動けなかった。しかし間もなく焦げ臭い煙が鼻を突く。たちまち辺りは黒い煙と火の海と化した。
叔母さんは痛みのことなど忘れてすぐさま瓦礫から這い出て、無我夢中で黒煙の隙間を縫うように避難した。火の中からはたくさんの悲鳴が聞こえていたという。
何とか炎の中から脱出できた叔母さんは
ハッとしたころには目の前に青空が広がっていた。だが地面に身体が叩きつけられてもはっきりとした意識はあった。どうやら車の方が直前で減速したらしい。
そして叔母さんはボロボロになって自由に身体を動かせないまま、気がつけば数人がかりで抱え上げられ、その車に乗せられていた。
大型車の後部座席に乗せられるや否や、口にテープを貼られ、両手を後ろに縛られ黒い布で目を覆われた。何が何だからわからぬまま今度は身体が宙に浮いたかと思うと、走行中にも関わらず後部座席からトランクにそのまま投げるように入れられたという。
混乱するなか、走行音に紛れて聞こえてくる男たちの会話に必死に耳を澄ませた。
「あの女どうするんですか」「警察に見られてねえから」「とりあえずうちで」
叔母さんはその言葉に恐怖した。ようやく事態が飲み込めてきた。
叔母さんは運悪くも暴力団、すなわちドグマのグループの車にはねられた。事故の発覚を恐れた恐れたドグマグループは自由に動けない叔母さんをそのまま
叔母さんはそこまで話し終えて咳ばらいをした。冷たい空気が喉に入ってくるのだろう。しかし私はそんなことなど気にならないほど神妙に叔母さんの話に聞き入っていた。
サイレンの音がどんどん遠のく中、叔母さんをトランクに乗せたまま車は数十分走り、やがて狭く入り組んだ道に入った後に停まった。
トランクが外から開けられ、叔母さんはそのまま数人がかりで抱えられた。
布の目隠しが取られたときにはパイプ椅子に座らせられ、ギラリと天井の電球を鋭く反射させたナイフを首に当てられていたという。
死を覚悟した。
しかし目の前にいた黒いグラサンをかけた、いかにもな風貌の男からはこう要求された。ここで雑用をしろ。何も考えずにただ言われたことだけをしろ。そうすれば少なくともここで安全な暮らしを保障してやる。
凶器で脅されているのに安全な暮らしもくそもない。しかしそんなこと言えるはずもなく、叔母さんは頷き従ってしまった。
それから叔母さんは毎日のように男たちから命令されることを行い、生殺しのような日々を過ごした。
食料は充分なくらいには与えられた。しかし外出することを一切許されず、ニュースやラジオを聞くことも禁止された。
黒いビニール袋で包まれた箱を段ボールに入れたり、怪しい粉の入った包みを梱包したりなど、明らかに犯罪のにおいが漂うことを毎日のようにさせられたという。しかし逆らう勇気もなくただひたすら従った。
以前、行人が今の暴力団ってのは昔と違って仲間を増やしたがると言っていたのを思い出した。確かにその通りなのかもしれない。一般人であり部外者である叔母さんにそんなことをさせるなんて普通に考えてどうかしている。
そしてそれからは私が想像していた通りだった。
行人と繋がっているドグラグループがまさに叔母さんを拉致して監禁したグループで、行人は取引中にそのことを知り、隙をついて叔母さんの逃げ道を作ったという。
私は叔母さんがすべて話し終わってから大きなため息をついた。
本当にこんな偶然があるのだろうか。何か不思議な力が働いているとしか思えない。こんな偶然があっていいのだろうか。
もしかしてこの世界は私が思っているよりもずっと狭いのかもしれない。誰かしらが、どこかで繋がっているのかもしれない。
そして改めて行人には驚かされた。いや、もはや信じることができないほどだった。たった1人でドグラグループの目を
そしてもうひとつの疑問が残り続けた。どうして行人は叔母さんが幹部ではなく人質で、それどころか私の叔母さんであるとわかったのだろう。
「その、行人は具体的にどうやって叔母さんを逃がしてくれたの」
「昨日、行人さんが尋ねてきたのよ。ドグマの事務所というのかしら、そこに」
叔母さんはひとつ咳ばらいをした。
「そのとき私は奥で渡された封筒の山を全部開けてたの。そしたら遠くから知らない男の人がずっとこっそり私のことを見ているのがわかったわ。それからしばらく行人さんは事務係の男と話してて、その人がいなくなったころでさっと私に近づいてきて言ったのよ」
私はきゅっと拳を握った。
「今日の夜中、メンバーのほとんどがここを留守にする。裏口を開けておくからそこから逃げろ、って」
私は目を丸くした。気分がどんどん高揚していくのがわかる。そう言った行人の声が容易に浮かんできた。
「意味がわからなくて動揺しちゃってね、私。そしたらね、行人さんは『私の名前は行人。燐花さんは元気です。きっと高校の体育館にいると思います』って耳打ちしてきたの。もう燐ちゃんの名前を聞いて気が気じゃなくてね。それからなんとかソワソワしないように頑張って演技しながら夜を待って、本当に逃げれちゃったのよ。一晩中歩いてようやくここまで来れたのよ」
叔母さんは力が抜けたように笑った。どうやら言ってることはすべて本当のようだ。
それにしてもこの人の精神力の強さには驚いた。流石は母の妹といったところか。昨晩数ヶ月にわたる監禁からようやく逃げ出したのに一切弱った様子を見せない。
母の血筋をもった女は皆こんな風に精神が図太くなるのかもしれない。
いや、もしかしてこの人は精神力があるというよりは、私に、両親のいない私を独りにさせまいという一心で自らを奮い立たせていたのかもしれない。
視線を落とすとボロボロになった叔母さんのスニーカーがどしりと地面にくっついていた。それを見て苦いものが心に溢れてくる。
「燐ちゃん、私が捕まってるってどうやって知ったの?」
はっと私は視線を挙げた。
「知らなかったよ。だからずっと捜してたのよ」
「知らなかったって、じゃあどうして行人さんは私があそこにいるってわかったのかしら。たまたま見つけたということなのかしら」
まあ、そういうことになる。叔母さんは依然として混乱したままだった。私の中では大体が繋がってきていた。
私は自分のスマートフォンの待ち受け画面を叔母さんとの写真にしていた。行人のことだ、それを気づかないうちに盗み見ていたのかもしれない。いやそれ以外考えられない。
そして取引先であるドグマの事務所に行ったらまさに私の横に映っていた顔があった。あの行人もさぞかし驚いただろう。
そして事態を冷静に飲み込んだ行人は叔母さんを逃がすように細工してくれた。
私たちのために危険を冒してまで。
胸がちくりと痛んだ。
行人は紛れもなく敵だ。私はあいつのことが嫌いでたまらない。
それなのに。
どうしてあいつはいつまでも私を助けてくれるのだろう。
どうして嫌いにならせてくれないのだろう。
どうして忘れさせてくれないのだろう。
「燐ちゃんはずっと行人さんと体育館にいたってことよね?今もいるのかしら?お礼を言いたいわ」
そうか、叔母さんの中ではそういう解釈なのか。
私はどこまで叔母さんに説明するべきか悩んだ。それと同時に焦燥感が増していく。
「とりあえず行人さんに会ったらすぐに警察の方に行かないと。あの暴力団の隠れ家もわかったんだし、捕まえてもらわないと」
「それはだめ!」
一瞬の沈黙が流れた。しばらくしてからその言葉が自分から発せられたものだと気がついた。
「ど、どうしてよ燐ちゃん」
もし、その暴力団が今回の監禁容疑で警察に捕まることがあったら、もしかしたら行人にまで警察の手が回るかもしれない。
私は唇を噛みしめた。どうしてあの男はここまで私を苦しめるんだ。私は正義の側につく人間であるはずなのに。絶対に悪は許さないはずなのに。行人も悪人のうちの1人なのに。
「えっと、その。もし、全員を逮捕しきれなかったら、残った人が仕返しに来るかもしれないから。えっと、でも体育館にいれば大丈夫。絶対見つからないと思うし、それにちゃんと警備員だって見回りしてるし」
苦し紛れの言い分。頭の中が真っ白になっていた。途中から自分で何を言っているのかわからなくなっていた。
私は一旦落ち着くためにこっそり息をゆっくり吸い込んだ。
いや、実際に体育館にいることが一番安全なのは正しい。拉致から逃げた人を探し出して口封じのために殺そうとするというのも考えられなくはないが、さすがにそこまでリスクを冒すとも考えられない。重要な秘密を知ってるなどの特別な事情がない限りは。
叔母さんはしばらく考えてから「それもそうね。命を狙われるのは嫌だものね」と、冗談交じりに納得してみせた。
私は内心でほっと
「それと、行人はここにはいないよ」
叔母さんは目を丸くした。
「それじゃあどこにいるの?」
「えっと、わからないわ」
私は悩んでからそう言っておいた。行人は他人が自分の居場所を知られるのは嫌うだろうから。
「それじゃあ、燐ちゃんは今までどこにいたの?行人さんといたんじゃないの?」
私はまたもや答えあぐねた。もう面倒くさい。あの男は本当に面倒くさい。秘密ばかりの人間は付き合っていると疲れる。
「私は体育館にいたんだけど、ときどき行人が私に会いにきて食べ物とか、服とかいろいろ恵んでくれたの。だから私はあの人がどこにいるかわからないの」
今後、叔母さんがまた行人と会うことは流石に絶対ないだろから、もうこの嘘で押し通すことにした。
「あら、そうだったの。そうよね、あんな暴力団と知り合いなわけだもんね。素性は知られたくないよね」
何とか納得してくれたようだ。
しかし暴力団と繋がっている行人に対して何も
「いつかまた行人さんに会ったらちゃんとお礼しないとね。もしかしたらこれからも体育館に来てくれるかもしれないわね」
叔母さんは穏やかな表情で言った。私は軽く笑みを浮かべて「そうね」と答えた。そんな日は絶対こないとは思っていたがもちろん胸の内に抑えた。
「それじゃあ中に戻りましょう。寒いわ」
私たちは腰を上げて昇降口を通った。叔母の無事を伝えるため先に職員室に2人で寄ることにした。
廊下で打ち合わせしたとおり、叔母さんは行人の存在を一切匂わせることなく、遠くの友人の家に避難していたと担任の酒井先生に告げた。
すると酒井先生だけでなく職員室中の先生たちが叔母さんの無事を喜んでくれた。その中の1人が私の警察学校の合格について
それでも悪い気分ではなかった。
2人で職員室を出てから叔母さんは、心配そうな声でこっそりと私に耳打ちした。
「そういえば行人さん、私から離れるとき、燐ちゃんに対して元気に生きろって言ってたわよ。もしかしてもう会いに来てくれないのかしらね」
ボサボサになった髪を
悲しいような腹立たしいような言いようのない感情が溢れてくる。
「どうしたの燐ちゃん」
叔母さんが私の顔を覗き込んだ。
「あ、ごめん。合格が嬉しくてさ、何だか気分がぼーっとしちゃって」
私は悟られまいと慌てて取り
「そうよねえ、頑張ってたもんねずっと。今日はお祝いね」
「お祝い?」
「ええ、そうよ。赤飯買ってこなくちゃ。燐ちゃん、何か食べたいものない?」
「いいよ、そこまでしなくて。叔母さんだって今日はゆっくり休みなよ。寝てないんでしょ」
それ以前にどこでお祝いをするつもりなんだろう。まさか身寄りのない避難者がまだ数人残っているあの
「そんな、いいよ叔母さん」
私は本心から嫌がった。今はとてもそんな気分ではない。
何とか私は叔母さんを説得し、しょんぼりとした叔母さんと体育館に行った。
床暖房が搭載されている体育館でも、叔母さんは「寒いわね」と言っていた。
「そっかあ、燐ちゃんもついに警察になるのね」
「まだなったわけじゃないよ。あくまで警察学校の生徒ってだけで」
「あらそうなの。私にとってはもうそれだけで充分よ」
叔母さんは少女のようにはにかんだ。
私はそんな様子をどこか上の空で眺めていた。
「それじゃあもう少しでまたお別れになっちゃうのね」
叔母さんは今度は急に悲しそうな顔になった。警察学校入学の1ヶ月以上前には寮に引っ越しをすることになっているのは叔母さんもずっと前から知っていた。それでも突然家がなくなって離れ離れになって、ようやく会えたのにまたすぐに離れないといけないというのは予想できるわけがないし、悲しい顔をするのも無理はない。
「うん」
私は小さくつぶやいた。
「でも、引っ越しまでは一緒にいられるもん。あまり寂しがってもだめよね。でも、燐ちゃんが引っ越した後はどうしようかしら」
「近くに仮設住宅がたくさんあるからそこに行くといいよ。ちゃんと警備も届いてて安全だからそこは安心して」
叔母さんは「わかったわ、そうするわ」と頷いた。
そうして会話していくうちに他愛ない話を交わす懐かしい空間ができた。何年間もこうやって私と叔母さんは家族の絆を守っていた。
それでも私の心の中はずっとざわついていた。
お昼になり、配給のお弁当を2人で食べ、また話しているうちにやがて叔母さんが眠ってしまった。それに気づくや否や私は腕時計を確認する。まだ午後1時を過ぎたばかりだった。
私はもう一度叔母さんの寝顔を見た。少女のようにスヤスヤと眠っている。
私は小さく「ごめん」とだけ呟いた。
そしてメモ用紙を取り出し、ペンで文字を書く。
ごめんなさい。
叔母さんとは引っ越すまで一緒にいたい。
でも、本当のことを言うと、もっと一緒にいたい人がいるの。
叔母さんが会いたいって電話してくれたら絶対すぐ会いに行くから。
だから、せめてあと少しだけの時間、その人と一緒にいさせてほしい。
私にとって家族と同じくらい大切な人なの。
3回ほど書き直した末、私は手紙の最後に自分の電話番号を書き、叔母さんの枕元にそっと置いた。叔母さんの顔は見なかった。寂しくなるから。
この手紙を読んだとき、叔母さんはどう思うだろう。名前は伏せたが行人のことを指しているとわかるだろうか。探しに来ないだろうか。連れ戻しに来ないだろうか。
そんな考えを振り払い、私は荷物をすべて持ち、音を立てないように体育館を出た。
それからは無我夢中で走った。廊下を走らないという規則などお構いなしに。
昇降口まで行き、靴を履き、外へ飛び出した。
乾いた空気が私の頬に突き刺さる。
息をするとすぐに肺が冷気で痛み出す。それでも私は走り続けた。
大切な人に会いに行くために。
大切な人の顔面を思いっきりにぶん殴りに行くために。
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