第10話
先ほどからグラウンドを教員が何人も忙しそうに往来しているのが聞こえてくる。
私は頭痛に顔をしかめながら寝返りを打った。
保健室のベッドの柔らかさに思わず身体が溶け出してしまいそうだった。
数ヶ月まともなところで眠っていなかった。起きたときに全身が痛いということも多々あった。しかしここでならそんな心配もせずに丸一日中眠っていることもできそうだった。
熱は昨日に比べて下がったようだった。まだ頭痛と喉の痛みは残っていたが。
廃病院を飛び出して真冬の雨の中を数時間歩いた私は、行く当てもなくなり震えながら何とか高校までたどり着いた。一部の教室や体育館にはまだ電気がついていたが正門は閉まっていた。
高い塀に成す術もなく、私は近くにあった名前のわからない大きな樹のそばまで行き、スカスカの枝の下で雨宿りをした。もはや雨宿りになってはいなかったが、気持ち程度の雨を
あまりの寒さに全身が震え出し、思わずくしゃみが出たところを、たまたま外に出てあたりの様子を確認しにきた教員に発見され、すぐさま体育館に入れてもらえた。
体育館の中はガランとしていた。高い天井の光が床に柔らかく反射していた。あれだけいた避難者も随分と減っていたのである。残っていたのは老婆や中年の男性といった歳をとってくたびれた人たちだけであった。
ほとんどが新しく建設された仮設住宅へと移ったと言われた。
みんな、誰とも会話しようとはせずに黙って1人でマフラーを編んだり、本を読んでいたり、横になっていたりしているだけで、みんなほとんど死んでいるようだった。
その夜は私も体育館で布団を敷いて眠った。その時間もやはり体育館にいた全員が1人の時間をひっそりと過ごしていた。私もそうだった。
そして一晩明け、私は熱を出した。生徒が次々と外から学校に入っていく中、私は校舎をふらふらと進み、
そして2日経って今に至る。ベッドで横になって1日中天井をずっと眺めたり、保健室の伏見先生と中身のない話をして時間を潰していた。
チャイムが鳴る。すると廊下からは生徒の楽しそうな話声が聞こえてきた。
時折、女子生徒が保健室に入ってきて「ちょっと聞いてよせんせ~」と間抜けな声で自分の恋愛話をしだしたりした。
盗み聞きしているようでもあったし、そもそも聞きたくもない話が勝手にカーテンの外から聞こえてきて不快ではあったが我慢した。
何だか授業をさぼっているみたいだ。しかし私はすでに試験をすべて終え、学校に行く理由もないわけだからさぼっているわけではないのだが、どうしても後ろめたさがあった。
カーテンの外で伏見先生が立ち上がったのがわかった。こちらに近づいて「熱測ってみる?」と、カーテンを開けた。今朝の時点でだいぶ熱が引いていたため、もう一度確認しにきたのだろう。
熱は完全に引いていた。数年ぶりの風邪だったが、すぐに治ってよかった。こんなときの病気はますます精神をすり減らすだけでつらかった。
伏見先生に言われ、私は担任の酒井先生と今後の生活についての相談や、試験の結果報告をすることになった。
すれ違う生徒たちとできるだけ顔を合わせないようにして廊下を歩き、突き当りにある職員室まで向かった。
酒井先生はデスクに備え付けられたモニターで作業をしていた。少し忙しそうだったので、ひと段落つくまで様子を後ろで眺めていると、酒井先生が伸びをしたときに私の存在に気がついた。
「おお松坂、大丈夫だったか?熱は下がったのか?」
伏見先生が伝えたのだろうか。予想外の言葉に私は少し面食らった。
「ええ、おかげさまで、もう大丈夫みたいです」
「それはよかった、特に試験の後でなあ。運がよかった。それと、試験お疲れさん」
そう言って酒井先生は私の
「試験はどうだった?」
酒井先生が慎重な声で聞いてくる。
「おかげさまで、全力を出し切れたと思います」
「それはよかった。松坂は緊張に強いからな。それ、これからも絶対役に立つから大切にな」
酒井先生は本当に嬉しそうに目尻に
酒井先生は優しかった。何だかいつも以上に優しく感じた。それなのに、悲しかった。優しくされるとなぜか悲しくなる。
これ以上会話するのが嫌になったので、しばらくまた体育館で寝泊まりするという本題を伝えようとしたときであった。
「子供の未来がかかっているんですよ!」
と、男の大声が聞こえてきた。声の方へ視線を向けると職員室の片隅にある空間で2人の先生が話しているようだった。その片方から発せられた怒号だったらしい。
「それをあなたは自分の都合でないがしろにするつもりなんですか!?」
「いや、落ち着いてください
嘉島先生。あの温厚な先生がこんな大声を出すとは。進路相談の話か何かだろうけど、どうしてそんなに頭にきてるのだろう。
私は視線を酒井先生に戻し、なんとか再度2人の会話の空間を作り直した。
今まで住んでいたところを出てきて体育館でまたしばらく寝泊まりすると告げると、酒井先生はわかったとだけ言って頷いた。それ以上は何も聞いてこなかった。
それから酒井先生は追加で何か話していた気がするが私は上の空だった。気がつけば会話が終わり、私は手を振る酒井先生に一礼し、職員室を後にしていた。嘉島先生ともう1人の話し声は落ち着いたのかあれ以外聞こえてはこなかった。
子どもの未来がかかっているんですよ。
先ほどの嘉島先生の言葉が頭の中で再生された。
未来。
私の未来はどうなるんだろう。
考えても何も見えてこなかった。暗雲が立ち込めているようだった。
今まで見えていた、歩いていたはずの道が急になくなってしまったような気がした。途端に自分の人生がとてつもなく空虚なものに感じてきた。今の私、生きている意味なんてあるの?警察になってどうするの?それが本当に私の生きる目標なの?
目頭が熱くなってきた。何だか身体が火照っている。また熱が上がってきたのかもしれない。
私は保健室に戻り、やはりまだ具合が悪いと嘘を言って、ベッドに潜り込んだ。何もしたくなかったし、伏見先生から話しかけられたくもなかった。だから私は精一杯づ愛が悪い演技をしてベッドに潜り込んだ。
布団をかけてくれた伏見先生がカーテンの向こうへ消えてから私はゆっくり目を開けた。
そしてもう1度目をつむり、布団を握り締めながら私は何度もあの男の名前を呼んだ。
ひんやりとした羽毛布団が火照った私の身体を冷やしてくれた。
遠くでパトカーのサイレンが鳴り響いている。最近静かな日が多かった気がするがまたいつも通りの東京に戻ったようだ。
高校の周辺を警備員がパトロールをしているのが窓から見えた。
今日は臨時で休校になった。都庁を襲撃するとの犯行声明が届いたとのことだった。
私はそれを図書室のモニターで流れるニュースで読んだとき思わず鼻で笑ってしまった。考えが甘すぎる。何人規模の犯人グループか知らないが、都庁襲撃なんて本当にできるとでも思っているのだろうか。こんな時代だが、いや、こんな時代だからこそ今の日本国内の自衛力は数十年前と比べて格段に上がっていた。よって都庁を襲撃しようなど、考えるだけ無駄である。逆に言えばそんな浅はかさが悪人らしいといえる。
廊下から何人かの生徒が話しながら歩いていくのが聞こえた。多分受験がまだ残っている3年生だろう。臨時で休校にはなっているが、受験生に限り本人と保護者の任意で登校して勉強をすることは許されていた。
保護者も帰るところもない私は、ただ広いだけの無機質で寒い体育館から出て、図書室に移動していた。本の内容はあまり頭に入ってこなかった。本を閉じて書架に戻し、今度は科学のビデオを借りて隣接するモニター室で見てみたが、結局映像が入ってはすぐに抜けていくだけだった。
諦めて私は図書室の片隅の窓から外をぼおっと眺めている。
全国の学校は必ず市町村にひとつは置かれた警備会社と契約を結び、こういう事態に備えて警備してもらうことになっていた。
空は曇っていた。雨が降りそうで降らない、中途半端な曇天だった。
行人のもとから離れてすでに1週間が経過していた。
毎日が空虚だった。受験勉強が終わり、単にするべきことがなくなったということもあるかもしれない。しかし、それよりも行人から離れたことで胸に穴が空いたような気分がいつまでも残っていた。
父さんと母さんが死んだときとは少し違う感覚だった。もちろん悲しいと思う。しかしそれに加えて私の人生、歩んできた人生の一部がそのまま抜け落ちたような、本の真ん中あたりにあるページをまとめて破り取ってしまったかのような感覚があった。
誰かと離れることはつらい。父さんと母さんとの死別で体験したはずの悲しみが、虚しさに形を変えて私を包み込んでいた。
もしかしたら行人はまた拠点を変えるかもしれない。そしたらもう一生会えないかもしれない。
首を振った。いや、行人は敵だ。私の敵だ。悪の道を進む人間なんだ。
私は気を紛らわすために図書室を後にした。保健室にでも行こうと思った。休校日だけど保健室に
案の定、保健室の先生はデスクに座って備え付けられたモニターを操作していた。
「先生、何か手伝えることはないですか」
私は手持ち無沙汰であることを示すように両手をぶらぶらして見せた。
「どうしたの松坂ちゃん、突然」
伏見先生は40代そこらの先生で、歳の割に言葉遣いが若者じみている。
「いえ、何かしていないと暇で」
彼女も私が体育館で生活しているのを知っているが、下手な詮索はしてこなかった。警察学校に合格していた場合、私は寮に移ることになる。それが私が仮設住宅に住もうとしない理由だ。どのみちもう少しで寮で生活することになるのだ。
「そうねえ、もう受験終わったもんね」
伏見先生は思いっきり伸びをした。
「特に手伝えることはないかな。その代わりお話でもしましょ」
むしろそちらの方がありがたかったかもしれない。手伝えることがないかと聞いておきながら、集中が必要な仕事を言われたらどうしようかと不安になっていた。とにかく今は何も考えずに気が紛れることがしたかった。
「早いわねえ、あと1ヶ月もすれば卒業式ね」
私の高校の今年の卒業式は3月2日だった。
「ええ、あまり実感は湧きませんが」
伏見先生はふふと笑みを浮かべた。
「そうよねえ、大人になればなるほど時間の流れは早く感じるもんね。私なんてもうこんな歳よ。体感だともう残りの人生はあと30年ほどらしいわ」
伏見先生はまたもや、ふふと笑った。私は反応に困りとりあえず同じように笑みを浮かべた。
「警察学校だったわよね。松坂ちゃんみたいに真面目な生徒なら絶対に受かってるから大丈夫よ」
伏見先生はガッツポーズをした。
「ええ、私もそう信じてます」
「生徒の夢を否定するわけじゃないけど、警察なんだから
私は生返事をした。あと70年か。気が遠くなる。それまでには世界が元通りになっているだろうか。
「そういえば寮だったわよね。友達頑張って作るのよ」
今度は少し面食らった。寮暮らしになるのはずっと前から知っていたが、そこでも友達を作ることはあまり考えていなかったからだ。
「友達は作らないとだめですか」
「当り前じゃない。友達はいつになっても大事よ。特にあなたが行くところは警察学校でしょ。チームワークや協調性だって今以上に必要になってくるのよ」
盲点だった。警察学校でも高校と同じように1人で誰よりも努力して周りの人よりも先へ行こうと思っていた。それが甘い考えだったというのか。
面接でもしかしたら私は協調性に欠ける人物として評価されたかもしれない。少し不安になってきた。
「もう、そんな心配しなくても大丈夫よ。人生、何とかなるものよ」
私の心中を察してか、伏見先生は励ましてくれる。
「そんなものなのでしょうか」
「そんなものよ。40年も生きてる私が言うのだから信じれるでしょ」
伏見先生はにこりと笑った。この人はずっと笑っている。40年間こうやって生きてきたのだろうか。こんな時代でもこうやっていつも笑って生きていけるのだろうか。
体育館で寝泊まりするようになってから2週間以上が過ぎた。
2月21日。警察学校の合格発表日。
行人と過ごした日々を追想して過ごし、心を痛めていた私だが、その日ばかりは行人のことを頭の隅に追いやり、朝からそわそわしていた。
これまでは私はボランティアとして高校の掃除を手伝っていた。そのときばかりは本当に行人のことを忘れられた。無心で壁の汚れや蜘蛛の巣、果てには男子トイレの掃除まで
そうやって空白を埋めるように行った奉仕活動の甲斐あってか、高校は心なしか全体的に綺麗になったように思える。ひとつの階だけがそうなったみたいなわけではない。1階から4階まで廊下の端から端までがそうなったのだ。何度か教員から無理しすぎるなと申し訳なさそうに心配されたがそれでも続けた。
そして合格通知は突然にスマートフォンの通知音と共に知らされた。
送信されてきた宛名を確認する。私が受験した警察学校からだった。
生唾を飲み込んでから受験IDと名前を入力し、合否の通達メールを受信する。
メールを開くと同時に深いため息をついた。全身の力が抜けると同時に心臓が弾むようにぞわぞわし、くすぐったくなった。
柄にもなく大声を出して飛び跳ねそうになった。
職員室にさっそく合格の知らせを伝えに行った。
担任の酒井先生は大声で喜んでくれた。まるで自分のことのように心の底から喜んでいるようだった。その声を聞いた職員室にいた教員全員が私に駆け寄り、胴上げでもせんというばかりの勢いで私を祝福してくれた。
何だか悪い気はしなかった。ずっと
少しその様子に驚いた酒井先生は「松坂がそんな風に笑ったの初めて見たよ」と言い、「本当によかったな」と優しい笑顔を向けてくれた。
職員室を出た後も顔の
警察学校で制服を着ている自分を想像する。私がずっと思い描き目指してきた姿。その未来がついに保証されたのだ。
最近ずっと
しかし荷物が置いてある保健室へ向かっていると自然と笑みが消えてきた。そして入れ替わるように苦いものが胸の中にじんわりと滲んできた。
嬉しい。確かに死ぬほど嬉しい。何年間もこの日のために頑張ってきたんだから当たり前だ。それなのに、心のモヤモヤが消えてくれなかった。
私が誰よりも早くこのことを伝えて、祝ってほしい人は先生たちじゃない。そして申し訳ないけど叔母さんでもない。お墓の中にいる父さんと母さんでもない。
私は廊下で立ち止まって心の中で彼の名前を何度も呼んだ。何度も何度も呼んだ。
私、受かったよ。夢に近づいたよ。
ねえ行人、会いたいよ。
褒めてほしいよ。
そのとき背後から私を呼ぶ声が聞こえた。
その声が耳に届くと同時に懐かしさが込み上げてきた。果たしてその声が本当に現実のものなのか
自分のよく知っている声。いや、でもそんなはずは。
「燐ちゃん!」
私は振り返った。目の前にいる人物が誰かわかる。でも、どうしてこんなところに。
「叔母さん・・・」
目の前にいきなり叔母さんの身体が迫ってくる。ものすごい力で抱きしめられた。
「よかった、本当によかった」
そう声を発するなり、叔母さんの声は涙声になってかすれ出した。
私は苦しくなって叔母さんの腕の中から逃れた。
「今までどこに行ってたの」
私は興奮気味に聞いた。叔母さんの顔は涙でくしゃくしゃになっていた。思わず笑ってしまう。
「ここではあまり大きい声で言えないわ。一旦外に出ましょう」
私は叔母さんに従って校舎を出た。
「助けてくれたのよあの人が」
叔母さんは唐突にそう言った。
「あの人?」
私は
「ええ、そうよ?燐ちゃんのことも助けてくれてたんでしょ、ずっと」
次いで私の耳に聞こえてきたのは、叔母さんが口に出すとは到底考えられない人物の名前だった。
「行人さんよ」
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