第14話
せっかく咲き誇った桜の花びらを散らす春風のように、時間の流れは温かくも残酷だった。
3月になった。すでに東京各地では桜が満開となっている。もはや当たり前となったこの景色。50年ほど前はこの時期に桜が咲くなんて一部の地域だけでたまに見られるような景色だったらしいが、今では西日本や東海、そして関東では当たり前の景色になっている。日課として朝から行人に剣術を教えてもらっていたが、ここ最近は2人とも汗だくになって中に戻るようになっていた。
そしてこの1ヶ月で私の腕前はみるみるうちに上がっていった。と、思う。
行人は本当に毎日のように私に稽古をつけてくれた。たくさん
私が行人の前で初めて涙を見せたあの夜から行人に対する罪悪感が芽生えていた。行人は私のせいで生活費を手に入れる術を失うことになった。それだけでなく、叔母さんを監禁して雑用をさせていたドグマの連中から狙われる可能性だって出てきたのだ。一度そういった連中と繋がりを持っている以上、下手に新しい正規の働き口を見つけるわけにもいかないことは私もわかっていた。
私がいなければ。何度もそう思った。
それでも行人は言葉では言ってくれていないが、何となく態度で私のことを恨んでおらず、それどころか受け入れてくれているような気さえした。しかし行人の生活が苦しくなったという事実めいた確信はやはり消えず、だからこそ私はこれからはずっと行人のそばに寄り添い、いつまでもついていこうと思うようになっていた。
私は何度か行人にこれからあのドグマとどう関わっていくのかを聞いた。行人は何も答えてくれなかった。これ以上私に罪悪感を与えたくないという心遣いだったのかはわからない。そんな心のわだかまりを抱えながらも私は行人と過ごした。
あのドグマグループからここが見つかることはないと自信があるのか行人はこの廃アパートから移動する気はなさそうだった。
叔母さんには週に1回のペースで会いに行った。叔母さんのもとを離れた次の日はもう大変だった。電話越しに散々説教をされ、散々泣きつかれ、押し切るのが大変だった。当たり前だ。やっと家族と再会できたというのに1日も経たないうちにいきなりいなくなるのだから。それでも最後には許してくれた。
叔母さんは私と一緒にいる「家族と同じくらい大切な人」が誰なのかは探りを入れてはこなかった。行人のことだと察している可能性もあったが、もうじき独り立ちする姪にそこまで干渉すべきでないと思ってくれたのかもしれない。
そして今日は私が行人と過ごすことができる最後の日だった。
もう荷物の準備はすべてしてあった。といっても衣類と少量の本や勉強道具を段ボールに詰め込んだだけだが。
私は明日から警察学校の寮に住まうことになるのだ。
期待に胸が膨らんでいるものの、この日がきてほしくなかったという気持ちもあった。警察学校という未知の未来を想像するよりも、行人と過ごすこの現実を毎日のように噛みしめていたかった。
そんなことを今頃になって考え出した私は夕飯のカップ麺を最後まで食べきれなかった。喉を通らなかったのだ。
子供じゃあるまいしと思う。ここから2時間ほどで着くところに引っ越すだけだ。週末には外出届を出して自由にここへ戻ってくることだってできるのだ。
今まで思っていた自分の人物像がどんどん揺らいでいくようだった。私はこんな弱い人間だったのだろうか。
私は使っていた箸と茶碗を流し台に戻しに行った。行人が作った貯水タンクの水はまだまだ残っていた。それで皿を洗う。これは私の担当だった。料理は行人が担当。
行人はいつも通りだった。明らかにソワソワしている私には何の関心も示さず、私の残したカップ麺の残りをすすっている。
まったく。私はため息を吐いた。モヤモヤする。
行人らしいといえば行人らしいが、こんなときまでそんなに淡白にしなくてもいいのにと思う。
私は考えた挙句、自分から切り出すことにした。いつもこんな調子だ。いつも我慢できなくなった私の方から行人に何か聞いたりしている。
「明日だね。引っ越し」
行人はずずっと麺をすすってから「ああ」と呟いた。視線はカップの中に注がれたままだった。
「もう、他に何かないわけ?うう、お前も成長したなぁ、俺はもう涙を抑えられないよ、とか」
私は精一杯行人の声色を真似してみた。無理に低い声を出したせいで喉が痛くなった。
「別にねえよ。むしろこれで毎朝ゆっくり寝ることができてありがたいぜ」
ずっと前からいつも私より早起きしてたくせに。
何とかして行人に寂しい思いをさせてやりたかった。いや、そういう素振りをさせたかった。そうしないと不公平だ。私だけ別れの日を明日に控えてソワソワしている。
「ごちそうさま」
行人は立ち上がってカップ麺の残骸を捨てに行った。いただきますとごちそうさまは律儀に毎回言っていた。ちゃんと食べ物に感謝している証拠だ。いいことだ。
私はここぞとばかりに行人に意地悪をしたくて行人が座っていたソファにどかっと座り込んだ。
戻ってきた行人は「どけっ」と私を腕で押し退けた。私は体勢を立て直して行人にくっついた。
「何だよ
行人は困惑した様子で声を荒らげた。
「ちょっとは構ってよ!それか、少しは察してよ!」
「何がだよ。急に気味悪いな。明日引っ越すのがそんなに不安なのかよ」
「不安なんじゃないし・・・。別に」
私は口の中でごにょごにょと呟いた。
「ああ?」
行人は迷惑そうに眉間に皺を寄せた。
「大体おかしいでしょ、こうやって一緒に生活してんのに私がいないみたいじゃん。もう少し色々反応してくれてもいいんじゃないの」
私は思い切って、横になってそのまま座った行人の膝に頭を預けた。もう明日からはしばらく会えなくなる。なら最後だけ自分らしさなんて忘れて思いっきり甘えてもいいと思った。
膝枕。悪くはなかった。両脚の間に自分の頭がすっぽりと収まり、心地はよかった。ただ、自分の年齢を考えたら恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだったが、考えないようにした。
「何か目的をはき違えてないかお前。別に俺はお前と馴れ合うために一緒に生活してるわけじゃねえんだぞ」
「じゃあ何のために?」
行人は私の頭を押し退けようとはしなかった。行人は何だかんだいって、あからさまに私を拒絶することは少ない気がする。やっぱり不器用なだけで根は優しい人間なのかもしれない。
「雑用」
「じゃあ明日からその雑用係がいなくなるのよ。寂しくないの?」
「別に」
このまま顔を回転させれば行人の顔を真下から見ることができる。でも下から見た不細工な行人の顔は見たくないから私は側頭部で行人を感じながらずっと向こうの壁をぼんやりと見ていた。
「今まで掃除とか皿洗いしてくれてた人がいなくなるのよ。不便でしょ」
「別に」
「話し相手もいなくなるのよ。これからは1人になるのよ。寂しくない?」
「別に」
「もう!」
私は行人の膝を叩いた。
「いい加減そこ、どけ。動けないから」
私はその言葉を無視して話を無理矢理繋げる。
「そういえば、私、どう?だいぶ強くなったでしょ。これで変な人に襲われても返り討ちにできるわよね」
私の今の戦闘能力については本当に返り討ちにできる確信があった。行人からは木刀や木剣といった、要するに武器となるものがないときに素手でも戦えるように護身術も教えてもらった。恐らく警察学校で初めて習うようなことばかりだったが事前に私はそれを習得したことになるだろう。
「まあ、最初と比べたら少しはマシになったと思うよ」
そこは否定しないのか。と思ったが、行人自身が先生の立場で私を教えたわけだから、否定すると自分の教え方も否定することになる。まったくこの男は。
しばらく沈黙が訪れる。
行人の方から話を振ることなんてことはまずないから、こんな風に沈黙ができるのも私の責任になってしまう。
「ねえ、今日一緒に寝ていい?」
何気なく言った言葉だが言ってから後悔した。何を言っているんだ私は。私らしくないとかそういった次元ではない。私の人格の同一性が完全に崩壊した。
「はあ?」
頭上から行人の
途端に頬が紅潮するのがわかった。まずい、行人に見られたくない。
「うそうそ!冗談だから忘れて、いや忘れろ!」
私は何度もバシバシと行人の膝を叩いた。
「あのさあ、お前」
うんざりしたような行人の声。
「お前だけそんな風に1人で暴走してたらこっちだって調子狂うから。いい加減落ち着けよ」
「だから落ち着いてるわよ!」
「どこがだよ」
行人は上から私の頭をぺしりと叩く。
私は行人に顔を見られないようにむくりと身体を起こした。顔に前髪がかかる。
「落ち着いてるって!」
行人に背を向けて大股で歩き出す。本格的に頭を冷やさないといけない。暴走?確かに今の私は暴走気味だ。明らかにいつもと違う。
心の中がごちゃごちゃになっていた。寂しさを紛らわすように色んな感情が暴れているようだった。
今日で最後。明日からは寮暮らし。
たったそれだけのことなのに。今生の別れってわけじゃないのに。両親が死んだときの方が絶対に悲しかったはずなのに。
今日の私はどこか変だ。警察学校での生活は楽しみでたまらないけど、それでもやっぱり行人と一緒にいたいんだ。嬉しさと寂しさがせめぎ合ってるんだ。
結局私はそのまま自室と化している一室でぼんやりと過ごした。穴だらけのカーテンの隙間から外に見える廃工場跡地の影を眺めたり、むき出しになった鉄骨で
別れの日はいつかくる。そんな大袈裟なものじゃないはずだけど。それでも私は受け入れられないようだ。
私は真っ暗な窓の外を眺めながら、お昼のうちに叔母さんに会いに行ったことを思い出した。叔母さんは元気そうだった。入学祝ということで少し早い入学祝いをくれた。それから年度が変わると同時に仮設住宅に移ることにしたと言っていた。移動先の住所を教えてもらった。
一緒にお昼ご飯を食べ、しばらく談笑した。やはり叔母さんは私が誰と一緒にいるのかを聞いてこなかった。逆に私の方からすべて話してしまいたかった。この溢れそうな胸のモヤモヤをすべて吐き出してしまいたかった。
そんな風に叔母さんとのやりとりを頭の中で思い出しながら私はそのまま寝袋に入った。日中は暑くても夜はそれなりに冷える。
今に限っては叔母さんのことを考えた方が気が落ち着いた。
そうやって叔母さんとのやりとりの記憶をすべて再生し終えても眠気は訪れなかった。私は寝袋から這い出て近くにあった毛布を肩からかけ、自室と化した部屋を出た。いつの間にかお互い就寝するときは別室になっていた。
行人はやはり起きているようだった。淡いランプの光が別室から漏れていた。
この人は一体いつ寝てるんだろうと思いながら、私はこっそりと行人の様子を覗いた。
行人は普段とは違う部屋にいた。思えば行人がこの部屋にいるところはあまり見たことがなかった。大量の荷物や家具が置いてあり、物置のようになっていて私自身もあまり入ろうとはしていなかった。
そしてそんな埃っぽい物置部屋のようなところで使われていない家具に囲まれ、行人は壁の一点をぼんやりと眺めているようだった。
何をしているんだろう。
私は眼鏡をくいっと引き上げ、目を凝らすが、行人の前に壁に何があるのかは判別できなかった。
何だか違和感を感じた。その背中がいつもより小さく見え、頼りなく思えた。
私はしばらく考えた後、思い切って行人のもとへ歩み寄ることにした。
部屋に足を踏み入れると何だか空気が変わったようだった。
「行人?」
私は輪郭のぼやけた背中に語りかけた。
行人は特に驚いた様子も見せず、ずっと壁を見つめていた。
一体どうしたんだろう。こんな行人見たこともない。私と離れるのが本当は寂しいんでしょう。そんな冗談めいた憶測でさえ馬鹿らしいほどにその姿は異様だった。
「なにしてるの」
行人は何も言わなかった。
私は黙って行人に歩み寄った。そして隣にしゃがむ。そのとき足に何かが当たった。軽い音が静寂の中響く。空のペットボトルが転がっていた。水を飲んでいたのだろうか。
私は向き直り、行人の視線の先に自分の視線を移した。
行人の足元に置かれたランプが柔らかく照らす壁に目を凝らす。
石膏でできた壁はボロボロで、ところどころに穴が空き、中には闇が広がっていた。しかし、丸いぼんやりとした光で照らされたところには黒いペンで書かれた横線や文字があることがわかった。
その瞬間、それが何かがわかった。
昔ここに住んでいた親子が壁に子供の成長の証として身長を記入したのだろう。木造の住居が多かった昔によくあった習慣だ。今になって実物を目にするとは思わなかった。
その瞬間、私は固まってしまった。瞬きすら忘れ、自分の視界に入った光景に目を奪われていた。
ゆきと
壁にはいくつもの「ゆきと」という名前が年齢と横線と一緒に縦に並んでいた。
10才、11才、12才・・・。
その数字は10才から16才まで並んでいた。
私は
「これは・・・?」
私は慎重に聞いた。何だか今の行人には少しでも触れてしまうと壊れてしまいそうな危うさがあった。
「俺の、成長記録」
成長記録。何だか似つかわしくない固い言い方だと思った。
「そう、なんだ」
これでわかった気がした。行人が結局いつもここに戻ってくる理由が。
ここは行人が過ごした場所。私の知らない行人が生きていた空間。
私は視線を上げ、振り返って周囲を見渡した。
完全に物置となっている。しかも壁の至るところに穴が空いている。いつ取り壊されてもおかしくないほどボロボロだ。でも、だからこそこの部屋が生きていたことがわかる気がした。行人という生きた人間の幼いころの呼吸、心臓の音、声がこの空間に残っている。そんな気がした。
そして行人と、死んでしまった母親と過ごした空間。
何だか急に私がこの空間にいるのが申し訳なくなり、私は立ち上がった。
そしてそのときだった。
「どこ行くんだ」
私はまたもや固まってしまう。あの冷淡な行人が発した言葉とは思えなかった。
「ごめん」
私はもう一度行人の方へ向き直り、また隣まで行き、腰を下ろす。
2人で薄明りの中、壁の文字を見つめる。
「よくこれ、見にきてたの」
「たまに」
行人は小さく呟いた。
「お母さん、行人のこと、大事に思ってたんだね」
行人の過去を何も知らないのにこんなことを言うのは無責任だと思った。それでも本気でそう思った。行人はちゃんと母親から愛されていたんだ。
「俺の母親、俺が生まれる前は、風俗で働いてたんだ」
突然行人が口を開いた。私はなぜか身をこわばらせてしまった。
「それで、客の中の誰かが俺の父親っぽい。そいつが誰なのかもう知る方法はないけどな」
私は視線を落として黙って行人の言葉を聞いていた。
「そのせいで母親は仕事がなくなったんだよ。そういう店で働くくらいだ。もともと金がなかったのに、それでさらに生活が苦しくなった。それでも俺を産んだんだ。ありえねえよな、俺なんて
私は気がつくと自分の手を握っていた。かける言葉が思いつかなった。
「それからは1人で俺のこと育ててくれたんだよ。どこから金が出てきたのか知らねえけど。1回、夜中に電話してるのを聞いたことがあってさ、取引だとか証拠だとか、なんか怪しいことしゃべってたぜ。多分、裏の人間と関わってたんだろうな」
裏の人間・・・。行人と同じ方法。
やっと行人の信じてきた正義がどういうものなのか少しわかった気がした。
「ま、結局あっさり死んだけどな」
行人はからりとした声で言った。
「こんなご時世だ。いつ誰が死ぬかわからねえ。死んだら終わりだ」
それから行人は口を閉ざした。
私は少し考えた末、静かに暗闇の中で行人の手を探った。自分にはこんなことしかできない。何を言っても行人の心の慰めにはならない。そう思った。
だから黙って行人を温めようとした。行人の冷たい手に触れ、そして上から包み込む。
大きな手だった。到底私の小さな手では包みきれないほどに。
気がつけば私の目からは涙が流れていた。
手の震えが行人にきっと伝わったんだと思う。
今度は行人の方から私に寄り添って、私の頭に手を添え、自らの肩に寄せた。
行人とは思えないほど温かく柔らかい
その夜は同じ寝袋で眠った。この前私が泣いたときもこうやって眠った。
行人はずっと私の手を握ってくれていた。
この年齢の男女がこうやって一緒に眠ることは女にとって危険なことだとわかってはいたが、行人は何もしてこなかった。私もわかっていたが、もし行人が手を出してきても受け入れるつもりだった。恋愛経験もなく処女である私の虚しく
結局行人は私が起きている間、寝息を立てることはなかった。その間ずっと私を優しく包み込んでくれていた。
俺なんて墜ろせばよかったのに。行人の怒りとも悲しみとも捉えられない無気力な声が耳に残っていた。そんなことないなんて簡単に言えるわけがない。
行人の母にとって行人はどんな存在だったのだろう。
そして行人は母が死んだとき、どう思ったんだろう。そんなことを考えていた。
母の代わりになれるわけなんてない。でも、もしできるなら、いつか私が行人を包み込んであげたい。母親以上の存在になってあげたい。
そう思いながら私は眠った。
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