第8話
日々は木枯らしのようにあっという間に過ぎていった。
警察学校の一次試験を無事に終えたのも束の間、二次試験の日がどんどん迫っていた。
二次試験は筆記試験ではなく、体力検査と面接試験になっている。
私は依然として毎日のトレーニングを欠かさずにやっていた。どこかしらのスペースを見つけては空いた時間に何かしらやっていたのだが、行人には数度「それで充分だろ」と言われた。
行人が何を言いたいのかわかる。私が行人に鍛えてほしいといったあのことをまだ覚えていて、からかっているのだ。
わざわざ行人が教えるまでもなく私は「それで充分」だと言うのだあの男は。まったく嫌なやつだ。私には対人における戦闘能力とか、いざ相手を目の前にしたときの精神力みたいな、自分の力ではどうしようもできない面が明らかに足りていないのをわかってそんな風に言っているのだ。
それでも私は腐らずにせめて肉体面だけでもと鍛錬を怠らなかった。悪に屈する自分が許せなかった。私が女だから、筋骨隆々な悪漢に力負けするのは仕方ないことではあるのだが、それでも嫌だった。少しでも強くなりたかった。
高校では大学進学組の一次試験が終わり、二次試験に向けたクラス分けが行われ、それぞれの専門的な勉強に向かうようになっていった。
私はそれらの進学組とは別の教室で面接用の練習用紙を書いては消してを繰り返し、ある程度できあがったら担当の教員に読んでもらい、実際に面接のデモンストレーションを行ってもらうというのを繰り返していた。
下校時間になっても教室の机に張り付きっぱなしの同級生たちを尻目に、私はボロボロのローファーを履いて校舎を後にする。
面接にもこんなボロボロの靴で行くことになるだろう。今の時代、生活困窮者が入学や入社の面接に来るのは何ら不思議なことではない。私がついにその仲間入りを果たしていることに非現実的な気持ちになる。
私はマフラーを巻き直した。首にチリチリとマフラーの毛が当たってかゆい。
なんだか私だけみんなと別の世界に生きているみたいだ。
警察官志望で男と廃病院で共同生活を送る女子高生。誰がどう見ても訳ありな感じだ。シュールだ。こんなの日本中探しても私だけだろう。そんな自分のことを改めて考えると笑えてくる。
こんな私はこれからどこへ向かうのだろう。自問自答してみる。
答えはすぐに見つかった。正義の道だ。
悪人をに正義の裁きを下す存在になる。私の生きる目的はそれだ。そして今の私はその道を歩いている存在だ。しっかりと存在意義のある人間だ。未来に向かってしっかりと歩いているのだ。
空を見て歩いていたせいで、道路のひびにつま先を引っかけてしまった。体勢を崩したが転ぶ寸前で何とか踏みとどまる。
私は地に足がついている。つまずいてもすぐに立ち直ることができる。
ふと歩いてきた道を振り返った。
真冬の凍てつくような風が私に向かってきた。日はすでに冬空の果てに飲み込まれかけている。
遠くには寒そうに寂れたビルや工場の影が見えた。その遠くには爪楊枝のような東京スカイツリー。私は毎日あの方向を目指して帰っていた。しかし今は背を向けて帰っている。私の新しい居場所に。
早く行人に会いたい。間違いなく断られるが、こういう寒い日には寄り添って温めてほしい。あのひょろひょろの腕でもいいから包み込んでほしい。
人間の欲望は尽きないものだなと私は白い息を吐きながら思った。
少し前は行人と生活するだけで満足していたはずなのに、気がつけばそれだけでは満足できなくなっている。
もっと行人に近づきたい。
そう思うようになっていた。
風が足元を吹き抜けていった。私は少し身震いをしてから行人が待っている廃病院への道を進んだ。行人は別に待ってなどいないんだろうけど。
二次試験の日は夜なのか朝なのかまだわからない時間から冷たい雨が降っていた。私は穴が空いたボロボロの黒い傘を差して試験会場となる警察学校へ向かった。早朝5時。1月のこの時間はまだ夜中と変わりなく真っ暗で、時間の感覚がわからなくなる。
今回は行人からの差し入れはなかった。少し寂しかったけどそれでもよかった。
どんどん歩くにつれて建物が多くなってくる。ほとんどの窓はマジックペンで塗りつぶされたように真っ暗だった。まだ街は眠っているみたいだ。
時折前方から走ってくる車のライトに全身を照らされながらも私は歩き続けた。試験会場となる警察学校へは結構な距離があった。それでも何度も下見でこの道を通っているし、迷う心配はなく、気持ちを落ち着かせて歩くことができた。
ここ近年の警察学校の合格倍率は女子で約4倍だった。昔と比べて低くなってはいるものの、狭き門には変わりない。
日が昇り、腕時計が7時を回った頃に目的地に着いた。
見た目は高校と刑務所を足して割ったような見た目である。白いコンクリートで構成された厳かな建物がどんと構えている。それを包み込むように周りにはたくさんの木が植えられていた。たぶん桜の木だろう。春になると華やかなオーラが辺りを包み込むのだろう。
高い塀に覆われた校舎は何度見ても少し威圧感を感じる。
私の他にも制服を着た生徒が数人校舎の中に吸い込まれるように歩んでいた。みんな引き締まった表情をしていた。私はどんな表情をしているのだろう。
昇降口を通り、警察学校の教官に案内される。スリッパをぱたぱた鳴らしながら私は控え室に入った。長テーブルがいくつも並べられている。前方にはタッチパネル式の巨大なモニターがあった。私が通っていた高校と同じだった。
すでに私以外に数人が席についていた。真剣に何かの冊子を読んでいる。
私は力を抜いて席についた。
本番直前ではあまり勉強をせず、とにかくリラックスする。私が今まで意識してきたことだった。緊張は敵だ。リラックスが大事だ。緊張しすぎると今までやってきた分も充分に引き出せなくなる。
壁に映るデジタル時計が9時を告げたところでスーツに身を包んだ教官たちが控え室に入ってきた。そして私たち受験生は廊下を並んで移動し、10人ほどに分かれて各面接室の前で待機するように指示された。
いよいよ面接試験が始まる。午後からはジャージに着替えて体力検査がある。これだけで体力を消耗しきらないよう自分なりに管理する必要もある。
私は深呼吸する。自分の鼓動を確認する。大丈夫だ。乱れていない。
精神力には自信がある。
すでに1度死にかけ、悪漢たちにだって殴り倒されているのだ。幸か不幸か、私にはそんな特別な積み立てがある。精神力に関しては遅れは取らないだろう。緊張さえしなければ上手くいく。
受験番号順に5人が呼ばれた。私は他の人たちよりも素早く立ち上がり、勇んで面接室に入った。
そのとき、背中を誰かが押してくれた気がした。
一気に肩の荷が下りた気分になる。何だか全身が軽い。
面接試験と体力検査は何の滞りもなく進んだ。自分なりに出し切る力はすべて発揮できたつもりである。
家が焼失し、何もかも失ったように思えたが、私は折れずにここまで来た。廃病院通いの苦学生であってもここまで来れるんだ。
すべての日程を終え、試験会場だった警察学校を出たころには雨が止んでいた。傘を忘れそうになった。
私は寄り道を一切せずに夕闇に姿を消しながら早足で隠れ家へ向かった。早く行人の顔が見たかった。
道路のひびに溜まった水たまりを飛び越し、私は廃病院の中に入る。
今朝から降っていた雨のせいで1階のホールは湿気でジメジメしていた。タイル張りの廊下は下手に走ると滑りそうだ。
診察室の扉を開けると冷えた真っ暗な空間が広がっていた。
私は眉をひそめて中に入る。
行人はいないのだろうか。私が高校から帰ったとき、いないということはたまにはあったが、今日に限っては直感で何か不穏な空気を感じ取った。
私は薄暗がりの中腕時計を見た。6時を過ぎている。
私は手探りでそこらに何か武器になるものがないか探した。しかし普段から私が徹底的に掃除し、廃墟とは思えない生活感のあふれる部屋にしていたせいでそのようなものは手が届くところにはなかった。
私は動きやすいようにカバンを下ろし、呼吸を整えてゆっくりと壁伝いに歩き、電気のスイッチを押した。
薄明るいぼんやりとした灯りがつく。行人が蛍光灯に和紙を巻いて極力外から明かりが見えないように改装したのものだった。
診察室の中がよく見えるようになった。私は細部に目を凝らす。特に変わった様子はない。今朝私が出たときと同じ状態だった。
私は声を殺して進んだ。そのとき地面に敷かれたじゅうたんに大小さまざまな赤い斑点が無数にあるのに気が付いた。
私はまさかと思ってかがみこむ。
それが何かわかるや否や私はすぐに立ち上がり、奥の通路を通って、隣の処置室へ飛んで行った。
気が付けば全身が震えていた。奥歯がカチカチ鳴る。氷のように冷たくなっているはずの指先にはじっとりと汗がにじんでいた。
角を曲がり、薄明かりが漏れる処置室を見回した。
すると暗がりの中に地面で黒い影がうずくまっているのに気が付いた。
私はその影に駆け寄った。
思わず揺さぶり、行人の名前を大声で呼ぼうとした。しかし寸前で私は抑える。
よく耳を澄ました。
一定間隔で、それも穏やかな寝息が聞こえていた。
一気に緊張がほぐれ、私はその場でどっと座り込んだ。
勝手に変な心配して、馬鹿みたいだ。
私は地面についた手を上げてほこりを払おうとした。そのとき手のひらに何かべたりとしたものが付着しているのに気が付いた。
ぞわりという嫌悪感とともにまた全身の筋肉が緊張する。
薄明りの中、よく目を凝らすと、赤黒くドロドロした液体が手のひらにべったりと広がっていた。
私はすぐさま寝袋にくるまって眠っている行人に向き直った。
たまらず行人の名前を何度も呼んだ。恐怖で頭がいっぱいになった。行人の身体には触れることができなかった。今私が触れたら、行人の身体がばらばらに崩れてしまいそうな気がしたからだ。
10秒ほど行人の名前を呼び続けたところで行人がうめくような声を出してモゾモゾと動き始めた。暗闇の中で目をぱちくりとしたのがわかった。
「な、なんだよ?」
いかにも機嫌が悪そうな声で行人は言った。
「なんだよじゃないわよ、どうしたのこれ。血、血が・・・。いや、だって。そんな、私何もわからなくて、だって、どうすればいいのこれ」
「待て落ち着け、何言ってんだよ。血ってそりゃあ・・・、いやちゃんと縫ったから」
2人とも明らかに錯乱した様子だった。正確には錯乱しているのは私だけで、行人は起きたばかりでまだ頭が冴えていないだけのようだったが。
行人は身体をゆっくりと起こし、右腕を服の上から触った。そして「うわっ」と頓狂な声を出した。
「ねえ、どういうことなの。私どうしたらいいの」
「あー、とりあえず箱持ってきて箱。ほら、あそこに入ってるでかいやつ」
そう言って行人は背後にあるガラス張りの医療棚を指さした。確かに暗がりの中にひとつだけ大きな箱があるのがわかった。
私は言う通りに急いでそれを取りに行った。行人は「やべえやべえ」と言いながら右腕を抑えて隣の診察室へ向かった。状況が飲み込めないまま私は行人についていく。
「ほら、早くそれよこせ」
行人はすでに診察台に腰かけ、台の上に右手を乗せていた。ぼんやりとした蛍光灯に照らされたその右腕には何本も赤い筋が流れていた。
「ど、どうしたのそれ」
「斬られた」
「はあ?誰に?」
思わず大きな声を上げてしまった。
「まあ、詳しくは後で話すから。いや、詳しくは教えてやらねえけど。とりあえず今は血止めねえと、手伝え」
私は依然として混乱したまま行人に従った。箱を開け、中から医療用の縫合糸と針を取り出す。
「ちょっと待って、何する気?本気じゃないよね?」
「本気に決まってんだろ。そもそもすでに1回やったはずなんだけどな。縫い方が甘かったみたいだ」
よく見ると確かに行人の腕には大きな切れ目ができているものの、それに並行するように透明の糸が塗ってあった。それでもぱっくりと傷口が開き、赤黒い血液が流れ出ていた。私は思わず目を逸らす。
行人に命令され、私は布で行人の上腕をきつく縛った。行人はそのまま器用に片手で自分の腕に針を通し、何度も縫っていく。
「痛くないの?」
私は行人の顔だけを見るように努めながら尋ねた。
「ああ、これだけ針が細いと刺してるのかどうかわからねえよ」
本当に行人は表情ひとつ変えずに慣れた手つきでどんどん針を通していく。最近の注射針は昔とは違ってもはや刺していることすらわからないらしいが、麻酔をかけて行う縫合用の針でもそんなことになっているのか。
「それもそうだけど、傷は?」
「麻酔塗ったから今のところはそんなに痛まない」
確かに行人は穏やかに眠っていたのだ。本当に痛みはほとんど感じられないのだろう。それにしても腕を斬られたというのに眠っていられるこの男の精神力はどうなっているのだろうか。
私は怖いもの見たさで何度か行人の腕を覗き見てしまう。ぱっくりと黒く開いていた傷口はすでにほとんど塞がっていた。
「ちゃんとした医療器具があれば一瞬で塞がんのにな、さすがに全部撤収されてるわな」
行人はそうぼやきながら糸を切った。
「包帯探してくる」
私は立ち上がった。懐中電灯を持って処置室へ移り、棚の中を照らす。しかしどれだけ探しても中は空っぽで、縫合道具があったこと自体が奇跡のようだった。
肩を落として行人の方へ向かうと、リラックスした様子で行人は診察台の上で胡坐をかいていた。塗ったばかりの腕の状態を確かめている。
「包帯なんていらねえからな、乾かさないと塞がらねえし」
そう言ってぶんぶんと腕を振った。
「もっと早く言ってよ」
いつも通りの呑気な行人いら立ちを覚える。今回ばかりは本気でいら立ちを感じた。腕を縫うほどの傷ができているのにどうしてそんなに楽観的でいられるのだ。心配している私が馬鹿みたいだ。
「ねえ、それ誰にやられたの?私が試験に行ってる間のものよね?さっき斬られたって言ったよね?」
そのとき行人の眉がぎくりといったように動いた。私はそれを見逃さない。
「いや、いやな夢にうなされててな、起きたばっかで頭が回ってなくて適当に言っちまった。本当は転んでガラスで切ったんだ」
「ふざけないで!いっつもそうやって嘘ばかりついて!そんなに私に本当のことが言えないの?どうして?私が足手まといになるから?それとも余計な心配させるから?」
私は一息にまくし立てるように言った。行人はおどけた表情をやめ、無表情になった。
そして少し考えて「そうじゃねえ」と低くつぶやいた。
私は眉間にしわを寄せた。
「じゃあなに?どうして教えてくれないの?そんな大変なことなのに教えてくれないの?今まで協力して生きてきたのに?」
協力。慣れない言葉が口を突いて出たことに内心少し動揺した。
そうだ、私はこの男と協力して生きているのだ。この廃れてしまった世の中で。
行人は口をつぐんだまま何も言わない。私はそれでも行人が何か言うのを辛抱して待った。
やがて行人がゆっくりと口を開く。
「お前にとっては残酷なことだろう」
スカートを握り締めていた私とは正反対に、行人は少し穏やかな表情になっていた。
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