第7話
相変わらず可愛げのない顔だと思う。私は薄暗いトイレの中でひびが入った鏡を見ながら思った。
愛想のかけらもないつり目が私を睨んでいる。もともとの形がこうなのだ。機嫌が悪いわけじゃない。もともとこういう目つきなのだ。
さらに真一文字に結んだ口元。会う人たちに機嫌が悪いと思われても仕方がないだろう。行人は初めて私の顔を見たときどう思ったのだろう。
私は産まれて今に至るまで化粧をしたことがない。世の女の人たちは当然のように小学生のころから化粧をして登校している。すっぴんのまま外出しても平気なのは私みたいな協調性のない女か、根暗な女だけだろう。
だが、そうはいっても以前と比べて幾分か表情が柔らかくなっているような気もする。相変わらず口角は下がったままなのだが、顔の輪郭が柔らかくなった気がする。ここまでくると感覚的なものにすぎないのだが。
私は水で顔を洗って震えながらトイレを出た。無人の廊下を通り、そそくさと行人のいる部屋へ向かう。
クリスマスは毎年家族の誰かと祝ってきた。父さんが死ぬまでは両親と3人で。父さんが死んでからは母さんと。母さんが死んでからは叔母さんと。
しかし今年は違った。私は家族ではない、血の繋がらない人とクリスマスを過ごしていた。
私たちが廃病院に住むようになってから1ヶ月以上がすでに経過していた。
月日の流れはあっという間だった。過ぎた新生活の日々を思い返せと言われてもあまり思い返すことができない。毎日朝起きて1時間近くかけて高校へ向かい、授業を受けて、配給のお弁当をお昼に食べて、そしてまた午後の授業を受けて、放課後になるとすぐにここに帰ってくる。
毎日そんな平坦な日々を送ってきた。それでも生きている実感や、満足感を感じていたのだった。
警察学校の一次試験が残り1ヶ月を切っていた。次第に焦りが増していく。
叔母さんの捜索はそれに伴って少なくなっていた。
今でも私は叔母さんが今でも生きていると思っている。それどころかほぼ確証に近いものがあった。
私の家が燃えてしまった際に焼け焦げた死体が自衛隊によって近くの大学病院にまで大量に運ばれ、最近ようやくほぼすべての死体の身元が判明したらしい。私の方には何も通達がこなかった。それは、その死体の中に私の親族である叔母が含まれていなかった可能性が高いということである。
行人は同じ場所で爪を切っていた。さっきは手だったが今は足になっている。行人の足は靴擦れの後だろうか、ところどころに細かい傷跡のようなものがあった。
私は身震いした。すぐに横開きのドアを閉めて中に入る。そして行人の隣で腰を下ろし、電気ヒーターの前に手をかざす。
「寒いね」
行人は「ああ」と呟くだけだった。パチリという爪を切った音が小さく響く。
少しだけ歩こうと言い出したのは私の方からだった。
行人は最初は渋っていたがあまりにしつこい私に押されて、ようやく「少しだけな」と、ゴミ捨て場にあったボロボロのコートを着て外に出る準備を始めてくれた。
私も同じゴミ捨て場にあったボロボロのダウンコートを着た。ところどころから中の白い綿が飛び出している。ダウンコート自体が白だからあまり目立たない。でも袖のところには泥がこべりついている。これはまあ、仕方がない。洗ったけど取れなかったのだ。
私たちはからっとした空気の中を歩き出した。空を見上げると筆でさっと撫でたような雲が浮かんでいる。木々は裸になり、切なく寒さに身を縮みこませているように見えた。
ポケットに手を入れて面倒くさそうに大股で歩く行人の姿をこっそりと見た。一定の間隔に合わせて白い息が漏れる。口からドライアイスが漏れているみたいだ。
私は身長が高い方だが、それでも行人の肩が私の頭ほどになる。その割に痩せ型だからひょろひょろに見える。改めてあの戦闘能力はこの身体のどこから生まれてくるのかわからない。
「私たち、変な格好ね」
「どこがだよ」
「だって見てよこの格好。ふたりともボロボロのホームレスみたい」
「ふん、温室育ちが甘えんな。裸じゃねえだけ充分だろ」
実に行人らしい意地悪な言い方だけどもっともな返しだと思う。私は何だか笑いが込み上げてしまった。
不機嫌そうに行人が私を見る。
今日はクリスマスだ。こんな時代でも、東京は毎年クリスマスで盛り上がる。今頃は遠くの街中で真っ赤なサンタの仮装をした人たちがイベントを開催したりしているのだろうか。小学生のころに母さんと一緒に商店街まで出かけて小さなスノードームを買ってもらったのを思い出した。今頃それも瓦礫の下に埋まってしまった。
別に街の方まで出たいとは思わなかった。やっぱり人混みは嫌いだし、若者が大勢ではしゃいでいたり、カップルが腕を組んで歩いている中には行きたくない。たとえ豪華な服が手に入ったとしても。人が大量に大騒ぎしている場所は私にとって無秩序だし、眩しすぎるし、そしてうるさすぎるのだ。
それよりも何もない廃墟と化した郊外で行人と一緒にいれるだけで満足だった。
「ねえ、行人は雪って見たことある?」
「ないよ」
「行人って何歳なの」
「24」
「何だ、私と全然変わらないじゃない」
「ガキが調子に乗ってんじゃねえよ」
行人は私の頭を軽く叩く。少しからかっただけですぐに行人は私の頭を叩く。
「いつか、見てみたいな、雪」
私は空を見上げ、願うように呟いた。漏れた白い息は空まで届かずに消えていった。
「雪くらい見たことあるだろ」
「実際にこの目でって言ってんの。いつか日本が平和になったら、東北に旅行でも行きたいな。ねえ、私が警察になったら生活助けてあげるから連れて行ってよ、東北」
「いやだね、俺は極力移動せずに静かに暮らしたいんだ」
「それこそ、東京なんか出て、東北に行けばいいじゃない。あそこならここよりは治安がいいはずよ」
「んな金があったらさっさとそうしてるっつうの。くだらねえ話するなら帰るぞ」
行人は本当に踵を返して、来た道を戻り出してしまった。
ごめんごめん、もう少しお願い。と引き留めても聞いてくれなかった。
結局あまり歩けなかったが、少しでも行人と歩けただけで満足だった。
私はカリカリと枯れ枝を踏みつぶしながら行人の後を追いかけた。
新年の到来を告げる除夜の鐘を、私は診察用の椅子に座って参考書を読みながら聞いた。私ははっとし、診察台で裏返っていた腕時計を見る。睡眠不足は記憶の定着に影響を及ぼす。中途半端なところまでしか問題が進んでおらず、気持ちが悪いが、今日はもう寝よう。
奥の通路を回って処置室へ行くと、行人の姿がなかった。
いつからいなくなっていたのだろう。トイレにでも行ったのだろうか。
行人は私を気遣ってなのか、参考書を開くと静かに隣の処置室へいつも移動してくれていた。けれども何も言わずにいなくなるなんて。
寝る準備を済ませ、寝袋に入る。中はひんやりと冷え切っており、しばらく震えていた。
ようやく中が温まりだした頃になっても行人は戻ってこなかった。
未だに行人の素性は完全にはわかっていない。作業現場で働いているのは事実だろうが、こんな時間にそこまで行くとは考えにくい。少なくとも今までそんなことはなかった。
途端に心細さに支配される。
1人には広すぎる廃病院に私は取り残されている。世界から私以外の人が消えたような感覚にさえなる。
私は寝袋から這い出した。
行人がいつも出ていくときに持っていくカバンを探した。しかしどこにもない。
作業着は壁にハンガーでかけてあった。その代わり、外出のときに着ていたコートがなくなっていた。
不安で足が少し震え出した。
私はできるだけ外に明かりが漏れないように懐中電灯で足元を照らしながら、荷物が他にあるか確かめた。行人がよく聞いているラジオは長テーブルの上にぽつんと置いてあった。新しく拾ってきた冷蔵庫の中の食料もそのままだった。
カバンとコートだけを持って出て行ったようである。
私は不安に耐えきれなくなって、穴だらけのダウンコートを手に取って診察室を飛び出した。
念のため、屋上やトイレ、1階も調べたが、行人がいたような形跡はなかった。
外は凍えるような寒さだった。外気にむき出しになった頬にちりちりと痛みが走る。昔はもっと寒かったなんて信じられない。
本当は大声で行人を呼びながら探したかったがもちろん我慢した。
枯れ枝だらけの地面を踏みながら早足で道に出る。
耳をよく澄ましたが、聞えてくるのは風の音とそれに乗って遠くの方から聞こえてくる新年を祝う街中の喧騒だけであった。
大人しく中で行人の帰りを待つべきだろうか。それとも探しに行くべきだろうか。
少し考えた末、奥歯が鳴り出したタイミングで私は引き返した。
診療所に戻り、いつもの処置室に戻る。むろん、そこにはやはり誰もいなかった。
ぬくもりを求めて寝袋の中に潜り込む。まだ自分の熱が少し残っていた。
その夜はすぐに寝つくことができなかった。
私は無理矢理目を閉じるのをやめて、ぼおっと隣に敷かれたもうひとつの寝袋を見つめ続けていた。鳥のヒナが飛び去った巣みたいだった。
3回ほど寝返りを打った記憶はあるが、それ以降のことは忘れて、私はいつの間にか眠りについていた。
カーテンを閉め切っているせいで、起きたときは何時くらいなのかいつもわからない。
私はぼやぼやした視界で何度かまばたきをした。
すぐに目の前に見慣れたぼさぼさの髪があることに気がついた。
私は夢か現実かわからぬまま安堵のため息をついた。
手を軽く握ってみる。じんわりと自分の体温が感じられた。
白い息が漏れる。朝はやはり空気が冷え切っている。寝袋から出るのに抵抗がある。
思い返せば、行人が寝ているところをひどく久しぶりに見た気がする。いつも行人は私より遅く寝て私より早く起きていた。
私は寝袋にうずくまった彼の姿をじっと見つめた。呼吸に合わせて肩が上下に動いている。
なぜかその姿を見ているとひどく不安に駆られた。同時に身体の芯がじんわりと温かくなっていくような錯覚を覚えた。
昨晩の寂しさがまだ残っていたのだろうか。同時に目の前に行人がいることに安心し、2つの感情が込み合っているのだろうか。
私は右手だけを寝袋から出し、気持ちを落ち着かせようとそっと行人の髪に手の甲で触れた。針金みたいな、がさがさのくせ毛が踊った。
私の髪もがさがさになっている。流石にこの人ほどじゃないけど。
私はゆっくりと寝袋から這い出た。
足音を立てないように奥の通路を通り、隣の診察室に向かう。
電気ストーブと電気ケトルにスイッチを入れる。お湯が湧いたらコップに注いでゆっくり飲んだ。少し舌を火傷した。
トイレで顔を洗い、軽い足取りでまた診察室に戻る。気分がよかった。
朝食はカロリーメイト。こんな食事ももう慣れた。
その後は屋上に上がり、朝の空気を吸った。
日課のトレーニングに取り掛かる。腕立て伏せや腹筋トレーニング、スクワットなどをじっくり時間をかけて行う。しばらく休憩してから、腕立ての格好になり、足を引きずるようにして腕だけで屋上を往復する。以前この姿を行人に見られたことがあるが、何も言わずに階下へ戻り、水を用意してくれた。
メニューをすべて終え、にじんだ汗を拭いてから屋上の上で大の字になって空を仰ぎながら身体を冷やす。今日も晴天になりそうだ。
ふと、行人に鍛えてくれと言って断られたことを思い出した。
あれは本当に悔しかったし納得がいかなかった。今となっては遠い昔のことのように思える。結局その願いは未だに実現はしていないのだが。
朝の空気を思いっきり吸ったら冷気のせいで喉が痛くなった。
ストレッチ体操をしてしっかりと全身の筋肉をほぐしてから私は階下へ向かった。
診察室に戻り、長テーブルに向かう。参考書を開き、昨日の続きから勉強を再開する。
参考書4ページ分の時間が経過したとき、奥の通路から行人が姿を現した。
硬い髪が重力に逆らってライオンのたてがみのように逆立っていた。私はそれを見て笑ってしまった。こんな間抜けな姿の行人は見たことがない。
「おはよう」
私は笑いを抑えながら言った。
「おはよう、何がおかしい」
不機嫌そうな顔で行人は言う。
「いや、別に。それで昨日はどこ行ってたの、その間誰かに私が襲われてたらどうするつもりだったわけ」
私は怒っているように装って強めの口調で言った。
「お前がずっと勉強してるもんだから1人にしてやったのに何だよその言い方は」
行人は口を尖らせて言う。
「何それ、わざわざ何も言わずに出ていかなくてもよかったのに」
「たまには俺だって1人で歩きたいときだってあるんだ。何だ、俺はここで飼われてる犬か?ご主人様の許可なく外に行ったらだめなのか?」
まったく、起きたばかりなのによくもそんなに憎まれ口を叩けるものだ。
「そんなんじゃないってば。今度からは私が何していようが一言言ってから外に行ってよ。心配になるから」
「ふん、お前に心配されたくねえよ」
「うるさい、ばか」
私は頬を膨らませる。
行人を見ると頭をがしがしと搔きながらまた通路の方へ消えていった。寝ぐせに気づいたのだろうか。
こんな会話だが、いつも通りだ。私は参考書に向き直った。
昨晩の不安は消えていた。行人がいるという安心で包まれていた。
残りの日はあっという間に過ぎた。
警察学校一次試験当日。
私は早朝5時に起床した。ずっと前から就寝時間と起床時間をずらしていたため、この時間の起床でも問題はなくすっきりと起きることができた。
行人は寝袋にくるまって寝ていた。こちらに背を向けているから顔は見えなかったが、寝ているだけで貴重な姿だ。写真でも撮っておこうか。
私はさっさと身支度を済ませた。
緊張はしていなかった。
3日間かけてこれまでの復習はじっくり余すところなく徹底してきた。論作文だって何十回と先生に見てもらった。
警察学校の筆記試験はそれほど高度な学力を問うことはない。どれも一般常識や必要最低限の推理力を測るものだと思っている。過去問を解く限り、不正解があるのは50問にひとつの割合だった。何も心配はいらない。かといって油断もしない。
大学を卒業してから警察学校を受験せずに、高卒として警察学校へ進む道を選んだ。担任の酒井先生と何度かそれで揉めた。私の成績だと難関大学も狙えるだろうから、まずは進学しろというのだ。
確かに警察学校を卒業して警察官として配属になったとき、大卒の方が初任給は高く、研修期間も短い。要するに素早く昇進することができるということだ。
それでも私は高卒の道を選んだ。一刻も早く警察になり、一般人ではなく、れっきとした公務員として、1秒でも早く正義の立場に立ちたかったからだ。
それに警官というのは学歴がすべてではない。どれだけ多く現場に立ち会ったかという実務的な能力も充分に必要になってくる。それに関しては早いうちから経験を積み始める高卒の方が優位なのだ。
朝食を取ろうと立ち上がったところで、診察台に小さなビニール袋が不自然に置かれているのを見つけた。
中を見るとおにぎりが3つ入っていた。ひとつひとつ取り出してみる。おにぎりというより、ただの米の塊だ。こんな不器用な形はなかなかできない。そしてこんな無造作な置き方。気づかずに出て行ったらどうするつもりだったのだろう。
私はラップをはがし、ゆっくりと口に入れる。。
塩を入れすぎだ。
私は思わず口からおにぎりを遠ざけ、まじまじとそれを眺めた。何の変哲もない、ただのおにぎりだ。
でもとにかく辛い。あいつの作るものは本当にいつも何かしらの味が濃い。本当に何を考えているんだあいつは。帰ってきたら散々文句を言ってやる。
私は寝ている行人に恨みのこもった視線を壁越しに浴びせた。
それでも私は次々とおにぎりを口に運んだ。そのたびに不器用な優しさが口の中に広がっていく。
それでもやっぱり辛いものは辛い。嫌がらせか何かかと疑ってしまうほどだった。
本当に、辛い。
だんだんと目の前が滲んできた。
このおにぎりの味がひどすぎるせいだ。そう思うことにした。
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