第5話

 薄暗闇の中でぼんやりとした炎が浮かぶ中、私は歌を歌っていた。下手なカタカナ英語でハッピーバースデーソングを歌っている。「To You」の部分を私は「チューユー」と歌っていた。まだ「トゥ」の発音は難しいのだ。

「ハッピバーステーお父さ~ん」

 目の前の炎が吹き消され、あたりが真っ暗になった。

 お母さんが立ち上がり、照明を点けに行った。私は待ちきれずに暗闇の中でお父さんの前まで這っていき、抱き着いた。

「ありがとうな、燐花」

 お父さんの顔が照らし出された。顔いっぱいに満面の笑みを浮かべている。こんな表情、絶対仕事場では見せないのだろう。

 警視長であるお父さんが、家族にしか見せない貴重な表情だった。私はその顔が大好きだった。


 夢の中にいるようなふわりとした感覚が全身を包んでいた。顔の右側がずきずきと痛んだ。全身に力が入らず、起き上がることができない。溶けているような感覚だった。

 霞む視界の中で、ひとりの人物が自らの腕で近くにいた人影を貫くよう吹き飛ばす瞬間が見えた。

 倒れた男が何か叫んでいる。すると死角からもうひとりの男が鉄パイプを掲げて飛びかかった。しかし、するりと避けられ、そのまま崩れた姿勢で盛大に腹部に膝蹴りをくらった。

「2人がかりでその程度かお前ら、ほら立てよ、どうした」

 フィルターがかかったように聞きづらかったが、確かに聞き慣れた声が地面にうずくまる男たちを挑発する。

「もうやり合う元気がないなら終わりだ。ほら、さっさと出ていけお前ら」

 行人が地面にうずくまる男に馬乗りになり、さらに追い打ちをかけて拳を振るう。ヘルメットで覆い切れていない首あたりを執拗に狙っている。そもそも出て行けと言うのに馬乗りになっているのはどういうことなんだろう。

「わかったから、もうわかったから、出ていくからやめてくれ」

 倒れていた男が、殴られ続ける男を庇うように、行人を止めにいく。

 行人は殴る手をやめ、止めに入った男を睨みつけてから立ち上がった。

 男2人はふらふらと立ち上がり、何度かつまずきながら追われる小動物のように壁の穴の中に消えていった。

「ほんと、どっちが、悪者か、わかんないわね」

 私は絞り出すように呟いた。恐らく行人には聞こえていないだろう。

 行人はゆっくりと私に歩み寄った。

「立てるか」

「ごめん、まだ無理かも」

 行人は「そうか」と呟き、私の視界から消えた。

 側頭部がずきずき痛んだ。

 まったく情けないと思う。ある意味では私自身が。そして他の意味では先程の男たちが。

 男たちに関しては無論、たかが女1人に木刀で小手を1発くらい、挙句には行人に一度も触れることなく撃退されたことだ。

 私に関しては、自分の臆病さについてだった。

 普段からあれだけ気丈に振る舞い、悪を打たんとして生きてきたはずなのに、いざ実際に自分よりも強い相手を前にした途端、恐怖で足がすくんでしまった。

 警察になって、あんな風に怯えていたら、それこそ本当に行人の言うように、5年もしないうちに死んでしまうだろう。

 突然右の頬に冷たいものが押し当てられた。思わず細い声が出た。

「まったく、いいざまだな燐花、いつもの威勢はどうした」

 頭上で行人の嘲るような声が聞こえる。こいつ、こんなときまで馬鹿にしやがって。

「これでわかっただろ、お前は警察になんか向いてない。ろくに人と殴り合ったり、殺し合ったりしてこなかった人間が簡単になれるようなものじゃねえんだよ。もう今の世界は昔とは違うんだ。人が毎日何十人と死んでるんだよ」

 行人が諭すように話しながらしゃがみ込んだ。目の前に行人の膝が見える。

「なにそれ、私が喧嘩に弱いから警察に向いてないみたいな言い方ね」

「ああ、そういうことだよ。その通りだよ」

 その言葉に私は小さく鼻で笑った。

 めまいは治まっていた。側頭部の痛みをこらえながら身体を起こす。頬から濡れたタオルが滑り落ちた。

「申し訳ないけど、それは違うよ、行人」

 私はまっすぐ行人を見据えた。行人は顔色を変えずに同じように私の目を見据えていた。

「確かに私は弱いわ、それは認める。精神的にも肉体的にも両方、弱いわ。でも、だからって警察官が務まらないとは思ったことはない」

「何を根拠に」

 行人は冷たい声で尋ねた。

「私の母親がそうだったから」

「母親?」

「ええ、私のお母さんも警察だったの。前言ったように死んじゃったけど」

 行人は黙って私を見つめていた。

「お母さんは体格はそんなに恵まれてなくて、実際に採用試験だってぎりぎりだったらしいの。精神的にも少し脆いところがあった。それでも巡査部長にまで昇格したのよ」

 行人は依然として表情を変えずに私の言葉を待っている。

「お母さんには誰よりも強い正義感と勇気があったわ。だから警察官になれたと

 思ってる。そしてその血が私にも流れてる。私はお母さんの子なの。まだまだこんな風に情けないし、弱いし、行人がいなかったらもう死んでてもおかしくないようなやつだけど、誰よりも平和を願ってる!誰も血を流さなくて済むような世界を誰よりも強く願ってるの!だから、だからあんたみたいな人に馬鹿にされる筋合いはないんだよ!」

 言葉が次々と溢れてくる。いつしか私は拳を握りしめ、地面に叩きつけた。痛みは不思議とあまり感じなかった。

「わかってるわよ、警察なんてそう簡単になれないって。でも私はなるの、警察に。それが私の夢なの!ずっと思い続けてきた私の夢、生きる理由みたいなものなの!それをあんたなんかに笑われたくない!」

 感情が爆発したように制御が利かなくなる。私は力任せに行人の肩を突き飛ばした。行人の言い分が許せなかった。私には警察は無理だと嘲笑したことについてではない。警察という私が信じてきた正義の存在を馬鹿にされたように気がして、受け入れることができなかった。

「随分と警察を神格化しているようだな」

 尻もちをついた行人はぼそりと呟く。

 私は行人を見据える。頭の中がゆっくり冷えていくのを感じる。

「ええ、そうよ。世の中の平和は警察が守ってるのよ」

「ふん、そうかい。じゃあそういうことにしておくよ」

「何よそれ」

「悪いがこれ以上お前と言い争いはしたくないんだ。エネルギーの無駄だ。疲れてるんだ、口喧嘩をしにきたなら帰ってくれ」

 行人は身体を起こし、ソファの方へ向かった。

 私は悔しさで歯を食いしばった。どうして伝わってくれないんだろう。どうしてこの男はここまで正義というものに無頓着なんだろう。

「何だこれ」

 私は視線を上げた。行人の手には私が行人のために持ってきた2人分のお弁当が入った袋が下げられていた。しかし、中身がはみ出しており、容器は潰れていた。

 私はふらふらと立ち上がり、行人に歩み寄った。

 そしてめちゃくちゃになったお弁当を見て肩を落とした。

「あ、せっかく買ってきたのに・・・」

「買ってきたって、お前が?これ、俺の分?」

「そ、そうよ。お腹、空いてないかなって、思って」

 歯切れが悪くなってしまっているのが自分でもわかった。たぶん困惑していたのだと思う。行人が発していた切迫した雰囲気が急に消えたからだ。

「まじかよ、ちょうど今日はまだ何も食べてなかったんだよな。ありがとう」

 なんなんだこいつは。本当に調子が狂う。毒気を抜かれた気分だ。

「あ、ちょっと待って、もうそれぐちゃぐちゃだから、私が食べるから、行人は綺麗な方を、食べ・・・」

 私が言い終わる前に行人は袋からぐちゃぐちゃになったお弁当を取り出し、ソファに腰かけて付属の割りばしを持っていた。

 そして手を合わせて「いただきます」と言う。

 そんな姿を見て、まるで子供みたいだと思う。1人で真剣になっていた自分が馬鹿らしい。

 そのまま行人は容器にかじりつくように食べ始めた。

 仕方なく私もお弁当を取り出し、プラスチック製の蓋を開けた。

「何で地面で食ってんだよ、こっち座れよ」

「嫌。隣で食べたくないの、あと、口に物が入ったままでしゃべらないで」

 ソファはひとつしかなかった。私は正座し、静かに食べ始める。

 すると行人は箸をくわえてお弁当を持ったまま立ち上がり、私の真向かいに腰かけた。

「じゃあ俺もこっちで食う」

 私は食べ物を飲み込んでから眉間にしわを寄せた。

「どうしてよ」

「別に、いいだろ。どこで食おうと俺の勝手だ」

 今度は私がソファに座った。すると行人も隣に座る。

 本気で腹が立った。食事中に歩き回る自分たちの無作法にも。

 仕方なく私は行人が隣で食事を摂ることを許した。ただし、間にカバンを置いて。


 ようやく顔の痛みが少し引いてきた。私は押し当てていた冷たいタオルを外し、指先で頬骨のあたりに触れてみる。やはりまだ痛んだ。

「ねえ」

 私は地面であぐらをかきながらラジオをいじっている行人に声をかける。私はソファで横になっていた。行人が横になって休むように言ったのだった。

 ラジオの太陽光充電が上手くいっていなかったのか、行人は不満そうに声を出してラジオを地面に置いた。今日のように曇った日のここは本当に薄暗い。

「ねえ」

 私はもう1度声をかけた。

「なんだ」

 行人は大儀そうに答えた。

「行人ってなにしてた人なの」

「なんだよ、またその質問か。なんにもしてねえよ」

「嘘つき。何もしてなかった人が武器持った男2人を撃退できるわけないでしょ」

「あれは、お前が先に少しやってくれたからだろ。お前こそなんかやってたんだろ。男2人相手になかなか、善戦したんじゃないか」

「誤魔化さないでよ」

 私は身体を起こし、行人に向き直った。

「逆に言うと、俺みたいなただの一般人でも男の1人や2人は倒せるようにならないと生きていけないってことだ。俺は今までそうやって生きてきたんだよ」

 私は小さくため息をついた。駄目だ、やはりこの男の正体に近づくことはできなさそうだ。

「じゃあさ、もう聞かない。でも、行人は戦闘に長けた人だっていう認識はさせてもらうからね」

「ああ、いかにも」

 行人は胸を張った。こいつ、質問攻めから逃れた途端、気楽になりやがって。

「それでさ、ひとつお願いがあるの」

 私は間髪入れずに続けた。言い終わる前に行人から断られると思ったからだ。

「私を鍛えてほしいの」

 行人は目を丸くした。

「はあ、お前を俺が鍛える?そのためにここに戻ってきたのか」

「え、ええ。そうよ。強くなりたいの」

 私は考えるより先に答えた。都合のいい理由ができた。この際、そういうことにしよう。

「まったく、殴られたショックで頭がおかしくなったか。悪いが無理だ」

「どうして無理なの?どんな教え方でも構わないわ、言われたことは全部覚えるから」

「じゃあわかった。なんで無理なのか教えてやるよ」

 そう言うと行人はラジオを壁の隅にやり、立ち上がった。そして私にも立ち上がってこちらに来るように指で促した。

 私は何が起こるのかと身構えながら歩み寄る。

「今から俺を力いっぱい殴れ。殺す気でいい。後のことなんて考えるな。思いっきり殴れ」

 何を言われているのか理解が追いつかなかった。私は口を半開きにしたまま固まった。

 行人は私の目を見つめている。

「いいか、最後に、もう1度言う。殺す気で、俺を殴りつけろ。さあやれ」

 私は何も言うことができず、その場で立ち尽くした。行人に真っ直ぐと見据えられ、蛇に睨まれた蛙のように固まっていた。握りこぶしすらつくれず、ただ重力に従って腕を下ろしたままだった。

 その瞬間、目の前の空気が何かによって引き裂かれたのが見えた瞬間、首に強い衝撃を感じた。そのまま身体が真横に吹き飛ばされる。

 すぐに行人に吹き飛ばされたのだと直感した。

 何が何だかわからない。機嫌を損ねたからだろうか。でも、いきなり行人を殺す気で殴れなんて、そんなことできるわけがない。

 そしてそのせいで自分が逆に殴られるなんてのもますます理解できない。

「早く立て」

 頭上から行人の声がはっきりと聞こえてくる。

「立てるはずだ。早く立て。もう何もしない」

 理不尽さに困惑しながら私は歯を食いしばって肘を支えにして立ち上がった。

 不思議と体が軽く、倒れた直後にも関わらず、容易に立ち上がることができた。

 私は殴られたと思われる首に手を当てた。まだ少しひりひりと痛む。もしかして、殴られたわけではなく、単に、はたかれただけだったのか。

「もう少し上か下に俺が手をずらしてたら致命傷になってる。上にずれれば、乳様突起にゅうようとっきっていって、耳の後ろにある骨の・・・、ああそんなことはどうでもいいんだ。わかっただろ、お前には無理だ」

「無理って意味がわからないわ。いきなり行人に勝てるわけないじゃない」

 私は大袈裟に首を抑えて言った。

「いいや、俺はあらかじめ、お前に俺を殴れと言った。2回も。それも無抵抗な状態で。でもお前はそれをしなかった」

「当たり前じゃない、いきなり殴れなんて、わけがわからないわ。無抵抗な人を殴っていいわけがないじゃない」

 私は語気を強めた。

「それだ。お前のその、頭の固い、馬鹿みたいな考え方。それじゃあ一生強くなんてなれない」

「だから、ちゃんと事前に言ってくれれば、心の準備が」

「心の準備なんてできるのか?もしいきなり俺に殺されかけてもそんなこと言っていられるのか?いいか、この世界は、一緒に生きていた仲間がいつ自分を襲ってくるなんてわからない。情なんて抱いた方が殺される。そんな世界なんだ。だからお前がその悪に染まりたくない、悪いことをしたくないという独りよがりな考えを変えない限り、何を教えたところで無駄だ」

 私は言われるがまま、行人の言葉を聞いていた。涙がにじみそうになったが、ここで涙でも見せようものなら、今後鍛えてくれることなんて一生なくなるだろうと必死に堪えた。

 一体この男はどういう人生を歩んできたのだろう。

 行人の考えを否定することは、もはやできなかった。この男は私にとって悪だとみなされることでも平気で行いそうだった。それどころか、私が知らないだけで実際に悪事を何度も犯してきているのかもしれない。

 もしかしたら、自分が生きるためなら何でもする。それこそが行人の信じる正義なのかもしれない。そして、そうせざるを得ないような人生を送ってきたのだろうか。

 もしそうなら、行人の考えを否定することは、まさに行人の正義や、果てには人生そのものを否定するのかもしれない。

 やっぱり戻ってきたことが失敗だった。傷ついただけだった。

 言いたいことを言い終えたようで、行人は黙って私の前を通り過ぎ、別の部屋へ入っていった。

 私は手持ち無沙汰になり、肩を落としながらソファに腰を下ろした。相変わらず硬いソファだ。まったく私の重みを受け入れてくれない。

 まるで私と行人みたいだ。お互いにお互いの人生の重みを受け入れることができない。

 それから私は部屋から戻ってきた行人に散々叱られた。

 今回の奇襲を受けたのは私のせいだと言う。

 さっきからどれだけ私を貶せば済むのだと思って反論したところで、私が持ってきたお弁当の袋を指された。

 どのように持ってきたのかと問われ、カバンに入らなかったから手で持ってきたと言うと拳が頭に落とされた。

「あのなあ、そんな風に昼間に堂々と食べ物持って歩いたら、目をつけられるに決まってるだろ」

 私は、ちゃんと周りに人がいないか何度も確認したと反論したが、強奪を繰り返してきたやつらをそう簡単に見つけられるわけないだろ、と一蹴いっしゅうされてしまった。

 そういうわけで私は、行人の隠れ家に暴漢たちを呼び寄せてしまったことになった。

 そしてその罰として、行人は私にとある命令をした。

 その罰とは、これから引っ越しをする。その引っ越しを手伝うのと、引っ越し先での雑用をこなすということだった。

 すでに場所が割れてしまっているため、今後さらに人数を増やして襲ってくる可能性がゼロではない。その理由での引っ越しだった。

 私は不服ながらも承諾した。

 一方的に私のせいにされて腹立たしい反面、行人には申し訳ないことをしたとも思っていた。

 その罪滅ぼしができるならと要求を呑んでしまった。

 しかし、その要求を拒否したところで私にはもう居場所は行人のところしかないからだ。あまりに違った人生を送ってきたであろうこの男と、本当にこれから一緒に生きていくことができるのだろうかと不安ではあったが、不思議と妙な安心感もあった。

 こうして行人、いや、私たちは新たな拠点を身構えることになった。


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