第4話

 遠くから聞こえるぼそぼそとした音で目を覚ました。

 目を開けると目の前には見覚えのある殺風景な景色が広がっているた。どこからか光が差しており、目の前に光の柱を作っている。

 私は自分がソファで寝ているのに気づき、滑り落ちないように仰向けになった。遠くに見える天井には亀裂が無数に走っており、そこから幾筋かの光が漏れ出していたのだった。

 身体を起こす。気が付くと毛布がかけられていた。行人がかけてくれたのだろうか。少なくとも自分でかけた記憶はない。つまりは、行人以外は考えられない。しかし、そのことに困惑せずにはいられなかった。妙な親切心はかえって君が悪い。

 気づけば昨晩の腹立たしさはもうなくなっていた。

 辺りを見渡すと、部屋中央のぼろぼろのテーブルの上に四角の物体が載っているのが見えた。床に置かれた眼鏡をかけ、よく見るとそれはラジオのようだった。先程から聞こえるぼそぼそとした音の発生源はそこからのようだ。

 五感が冴えてくると同時に現実感が戻ってくる。しかし現実感とっても意識がはっきりしているというだけで、やはり未だに小説の中にいるようである。

 のそりと立ち上がり、ひとりでにしゃべり続ける耳障りなラジオを止めた。

 私はあくびをしてもう一度ソファに深く腰かけ、天井を仰いだ。ガサガサした硬い感触が背中に伝わってくる。何だかまだ疲れがとれない。もう一度眠ってしまいたかった。

 そのときガチャリとドアが開く音がした。私はそれを聞くと同時にそのまま眠っているふりをした。

「起きてる?」

 離れたところから行人が尋ねた。

 そしてアスファルトを踏みながらゆっくりと近づいてくる。

「起きてんじゃねえか」

 頭を小突かれる。

「なんでラジオ消したんだよ」

「逆に何で人が寝てる部屋でラジオをつけてたのよ、別の部屋で使ってよ」

「この部屋が一番電波がいいんだよ。これくらい我慢しろよ」

 まったくこの男は相変わらずだ。

 昨日からつけっぱなしの腕時計を見た。1時27分。

 私は飛び上がった。そしてポケットに入ったままのスマートフォンを取り出し、通知を確認する。高校からは休校の連絡が来ていた。

 肩を落とし、そのままソファに倒れこむ。

「松坂燐花、ねえ。たいそうな名前だな」

 私はまた身体を起こし、ラジオを聴いている行人を睨む。

「荷物勝手に見たの」

「ああ、もちろん。見たところ怪しいものは入っていなかったし、別に何もいじっちゃいねえよ」

 こいつは本当に、ありえない。

「シチュー作ってあるから来いよ」

 唐突にそう言って行人は立ち上がり、冷蔵庫が置いてあった部屋まで歩いていった。

 私は戸惑った。昨日の昼からろくな食事を摂っていない。急に抗いがたい食欲に襲われた。

 私は屈辱を抑え込んで小走りで行人についていった。

「ほら」と、プラスチックの容器に具がたくさん入ったシチューを注がれる。

 それに加えておにぎりも渡された。

「これ、作ったの」

「ああ、そうだよ。ちゃんと感謝しろよ、なけなしの金で材料とか買ってるものなんだから」

「あ、ありがとう」

 私はおにぎりを腕に乗せたままシチューの注がれた容器を持ちながら、無意識に呟いた。言った後に身体がむずむずしてきた。

 しかし行人はそんな私の言葉にも様子にも、まったく気にしていないようで、自分の分のシチューを容器に掬っている。

 はあ。私だけ馬鹿らしい。

 それから2人で黙ってシチューとおにぎりを食べ始める。

 おにぎりは味付けをしていないただ握っただけという状態だったが、それでも不思議と美味しさがあった。形が歪んでおり、いかにも男の人が作ったというものだった。

 シチューは叔母さんが作ってくれるものに比べてやや濃い味付けだった。しかしほとんど食べていなかったため、むしろそっちの方がありがたい。ジャガイモや豚肉が大量に入っていた。

「それにしてもいい学校行ってんだな燐花」

「下の名前で呼ばないで」

「将来はきっと有望だな優等生。警察になっても頑張って1年は生きろよ」

 行人はおにぎりに齧り付きながらにやりとした。

「ええ、おかげさまで。さっさと優秀な警察になって、一番最初にあんたを捕まえてあげるわ」

 私は語気を強めて最大限に意地の悪い言い方をした。

 行人は「そうかい、そうかい」と一方の口角だけを上げて控えめに笑った。

「で、俺はそれまでお前が死なないように護衛すればいいってことかい」

「そんなこと一言も言ってないわ。私は私で何とかするわ」

「俺がいないとすでに死んでるくせによく言うぜ」

 行人は半分になったおにぎりを口に放り投げるようにして食べた。


「トイレは外に出たところ、仮設トイレが置きっぱなしになってる。綺麗だとはいえないがそこしかない。それが嫌なら草むらでしろ。それか30分先にある店。風呂はもちろんない。俺は現場の寮の共同を使ってる。もちろんお前にそこは使わせられないから、銭湯でも行ってこい。金は自分で払えよ」

 行人はそう説明した。

 実際に外の仮設トイレに向かうと確かに酷いものだったが、あるだけましだ。贅沢は言っていられない。

 入浴はどうしようか。行人の言う通り、銭湯を利用するか避難所の仮設風呂でも利用しようか。

「お前、親戚はいないのか」

 と、行人に尋ねられた。私はカーテンを少しだけ開けて、汚れた窓越しに沈黙した工場跡を眺めていた。

「ええ、近い人は叔母さん以外はいないわ、遠い親戚はいるけど、連絡も取れないしどこにいるのかわからない。生きているかさえも」

「親はどうしたんだ」

「死んだわ。2人とも」

 一瞬の沈黙が流れた。

 すると、行人は決まる悪そうに視線を泳がせた。

「す、すまない」

 その言葉に私は目を丸くした。この根性が曲がった男から素直に謝罪されるとは思わず、逆にこちらの方が戸惑ってしまった。

「いいの、もう乗り越えてるから」

 私はあえて気丈に言った。

「俺も」

 行人は空気が漏れるようにつぶやいた。

「俺も両親がいないんだ」

「そう、じゃあ私たち似た者同士だね」

「叔母がいるくせによく言うよ、温室育ちと一緒にすんな」

「またそうやって意地の悪いこと言って、人望なくすよ」

「こんな時代に人望もくそもねえだろ。もう少し考えてから発言しろ」

 行人は持っていた空のペットボトルで私の頭を叩く。軽い音がした。

「ちょっとさっきから暴力多くない?それと頭ばかり狙うのやめて」

「はいはい、わかったわかった。それでお前いつになったら出ていくんだよ」

 とうとう言われてしまった。

 非常に不覚なことだが、今朝からここには居心地のよさを感じていた。なぜだろうか、先程もらったシチューが想像以上に美味しかったからだろうか。

「わかりました。そんなに出ていってほしいなら出ていきますよ」

 行人は黙ったままだ。ラジオの前に移動し、周波数を合わせ始めた。自分から聞いておいて無視するな。

「それじゃあまたね」

 大袈裟に大きな声で言う。しかし行人はラジオに耳を当ててじっくりと周波数を合わせている。もはや私の声に応えることすらしなかった。

 やっぱりこいつ嫌いだ。昨晩のうちにさっさと出ていけばよかった。せっかくいい気分だったのに台無しだ。

 私はカバンを持ち、わざと大きな足音で歩いた。そして食器棚を引きずるように移動させる。何も収納されていないのに少し重かった。

「ここ、ちゃんと閉めておいてよ」

 向こうの部屋にいる行人に向かって声を投げた。しかし返事はない。

 ああ、腹が立つ。

 まだ口の中にシチューの味が残っていた。やっぱり味が濃かったのだ。さっさと水でも飲んで何もかも忘れてしまいたかった。


 廃工場跡地が完全に見えなくなるまでできるだけ行人のために隠密行動に努めた。本当なら近くで花火でも打ち上げて大騒ぎでもしてやりたかったけど、花火なんて持っているわけがない。残念だ。

 どかどかと力を入れて歩く。未だに腹立たしい気分がなくならない。

 確かに私は彼に命を助けられただけではなく、一時的に住居までも貸してもらっていた身だ。それに加えて私の叔母さんの捜索まで手伝ってもらった。あちらにメリットはまったくないのに。それを踏まえると文句は言える立場ではない。

 だからといってもあの態度はあんまりだ。


 行っていなかった分の避難所も回ったが、結局叔母さんの姿はなった。

 駄目で元々、昨日行った高校の体育館や公民館ももう一度行ってみたが、結果は同じだった。

 急にやるせなさが溢れてくる。

 役所まで一度赴き、安否確認サービスというものを利用しようと思ったが、役所の前ではボロボロの服を着た人たちが列を成しており、到底私個人の話に取り合ってくれそうな様子ではなかった。家族と連絡がつかず、捜し回っているのは私だけではないのだ。

 私は役所を後にした。今でも遠くからサイレンが絶えず聞こえてくる。

 これからどうすればいいのだろう。

 叔母さんに会いたかった。両親に猛烈に会いたかった。

 私はこれから一人で生きていかなければならないのだろうか。

 住むところはある。避難所だ。そこへ行けば食事や寝る場所、風呂やトイレだって困ることはない。周りに人だって大勢いる。皆私と同じような境遇の人たちだ。

 それでも私はその人たちと分かり合えるだろうか。今まで人と関わろうとしてこなかった勉強ばかりの自分でも他人から受け入れられるのだろうか。

 私は空を見上げた。寂しげな曇り空がどこまでも広がっていた。

 急に肌寒さを感じ、私は歩き出した。

 高校の体育館に行こうと思った。今のところそれが一番だろう。

 そこなら私のことを知っている先生もいるし、何か困ったことがあれば相談だってできる。

 私は歩きながらカバンを開けた。所持金を確認したかったのだ。

 財布を開けると千円札が5枚。それを見てぞっとする。途端に不安が押し寄せてきた。

 これからは大人しく避難所で暮らそう。それ以外考えられない。今までの私はどうかしていた。あのまま行人の隠れ家に居座るなんて無理だと容易にわかることだ。


 そして私は高校に到着した。今回は正門から入り、グラウンドを通って体育館ではなく校舎へ向かった。体育館の周りには、なぜか避難中の人たちがまばらに立っていた。

 昇降口は鍵が閉まっていた。まあ当然か。この騒ぎに乗じて誰かが侵入する可能性はゼロではない。

 結局私はそのままグラウンドを通って体育館へ向かった。

 体育館の出入り口では何人もの教員が忙しそうに出入りを繰り返していた。薄っぺらい四角形の物を脇に抱えてた教員が中へ入っていく。

 折り畳み式のテントだろうか。中に運んで設置するのだろう。だから人が外に出ているのか。

 今思えば、昨日は誰彼関係なく詰め込むように人が体育館の中にいた。こんなときとはいえども、見ず知らずの他人と肩が当たるような位置で寝たり起きたりするのを嫌がる人が多いだろう。そう考えたら簡易テントで区切りを作るのはとてもいい案だと思った。

 大勢の教員が蟻のように出入りを繰り返すのを見ていると、無理に割り込んで中に入るのも気が引けた。私は近くの花壇に腰を下ろした。

 遠くのほうを見つめていると軽トラックが2台停まった。そして教員がそこに群がっていく。2台から大量の段ボールや袋を下ろし始めた。

 私は体育館の周りにいた教員たちが一斉にそこへ向かったのを見て立ち上がり、体育館へ入った。

 状態は昨日とは少し違っていて、人は少なかった。荷物だけがそこら中に散乱している。

 壁には無数のテントらしきものが折りたたまれて積まれていた。

 そのとき目の前に人影が立っていることに気が付いた。

 慌てて移動すると同時に、その人物の顔に見覚えがあるのに気が付いた。

「君はここの生徒だよね」

「ええ、そうです、西部先生。3年C組の松坂燐花です」

「本当に無事でよかった」

「先生こそ、無事でよかったです」

「C組ということは酒井先生が担任だよね。今どこにいるかな。一度顔を見せておくといい。絶対心配してるから」

「わかりました。ありがとうございます」

 私は頭を下げた。

 西部先生は小太りのひょうきんな先生で、社会科担当だ。生徒からの評判もいい。しかし今の西部先生は心なしか疲れが表情に見てとれた。恐らく昨日からずっとここの作業で忙殺されていたのだろう。

「私も手伝います」

「とんでもない、君は避難のために来たんだから休んでなさい。というか生徒の手を煩わせるわけにはいかないよ」

「いいんです先生、何かしていないと落ち着かないんです。やらせてください」

 西部先生はそれでも私を止めたが、私は聞かずに立てかけてあったテントを持ち運びだしてからはもう止めなくなり、組み立て方や運ぶ場所を教えてくれた。

 途中で酒井先生が私を見つけたらしく、大声で私を呼びながら飛んできた。そして「何やってるんだ、早く休んできなさい」とまたもや大声で私を制止したが、私はそれを拒むと、やがて西部先生と同様に私に指示を出してくれた。

「お家は、残念だったね。でも松坂が無事で本当によかったよ」

「ご存じでしたか」

 私は酒井先生と正門で並んで次の軽トラックが到着するのを待っていた。

「ああ、叔母さんの方は大丈夫かい」

 酒井先生は担任であるがため、私の家族構成をある程度知っていた。

 体育系の先生で、声が大きくて情が厚い性格だというのが一番わかりやすい特徴かもしれない。

「その、まだ連絡がとれていないんです」

 そして酒井先生は「本当か?心配だな」と、顔を曇らせた。

「ここには来ていませんよね」

「ああ、来た人全員の顔を把握はできていないが、ざっと見たところ、君の叔母さんらしき人は、少なくとも俺は見ていない」

 三者面談で数度、叔母さんと酒井先生は顔を合わせている。

 それから一瞬の沈黙が流れた。

「確かに、ここにも来ていない、そして連絡もとれないとなると心配だが、諦めちゃ駄目だ。よく考えてみろ、いきなりあんなことが起こったら大抵の人は携帯なんて忘れて、まずは逃げ出すだろう。だからむしろ連絡が取れる人の方が珍しかったりするんだよ。だから大丈夫だ。叔母さんは絶対生きているよ」

 このように生徒のことを思った発言が多いのも情が厚いと思う理由だ。

「ありがとうございます。私もまだ諦めていません。昨日から周辺の避難所を捜しているんです」

「そうか、とても家族思いなんだな」

「いえいえ」

 両親を失っている以上、そう言われると複雑な気分だ。

 荷台に先生を一人乗せた軽トラックが到着した。荷台のその先生は荷物を抑えていた。

「結構大人数で行ってたみたいだな。松坂、これくらいの量なら、後は俺たちで運べるから、休んでいなさい。校舎の裏側でテントが出てるから、そこで食べ物を貰ってくるといいよ」

 私は素直に応じた。

 ここまで身を案じてくれているのに、それを拒否するのは、かえって先生の親切心を否定するような気がしたからだ。

 グラウンドを横切り、後者の裏側へ行くと、言われた通りテントが3つほど設置されていた。文化祭の出店みたいだと思った。

 ひとつひとつのテントに10人近くが紙皿を持って並んでいる。なるほど体育館にいた人たちはここにいたのか。

 近くにいた別の先生から紙皿を貰い、私も列に並んだ。空腹は確かに感じていた。

 これからは私もこうやって他の人と一緒に並んで生活することになるのだろうか。

 私は曇り空を眺めて息を吐いた。

 改めてこの世の中は理不尽だと思った。この世の中にはもっと以前からこんな生活をしてきた被災者がたくさんいる。それどころか避難所にすらたどりつけない人だっているのだ。住む場所すら、食べるものすらない人だっている。

 私はまだ恵まれている方だと思った。

 あの男は今ごろ何をしているのだろうか。あの男は今までどうやって生きてきたのだろうか。

 ふと私は行人のことを思い出していた。


 体育館の小型テントの設置が終わり、私は他の人たちと同様にテントに入った。テントといっても、ピラミッドのような一般的なものではなく、骨組みが直方体の空間を作っており、出入り口を除いた3面にシートが張られているものだった。床には畳が敷かれている。立ち上がれば容易に隣を覗くことができる高さだった。だからもちろん天井は開いている。しかしそれだけでも充分すぎるものだった。私は出入り口側に足を延ばして仰向けになった。通路には脚は届かなかった。思った以上に広い。

 両側を見てもあるのは白いシートだけだ。何だか妙な気分だ。キャンプでもしているような楽観的な気分になってしまう。

 いつかキャンプができる時代が来るのだろうか。一度でもいいからやってみたい。欲を言うと家族でキャンプをしたかった。

 結局避難所を選んだ理由は、単に生活支援を求めたことと、叔母さんとの再会がもっとも期待できるということだったが、それ以外にも心細さが紛れるかもしれないという淡い望みもあった。

 しかしいくら周りに同じ境遇の人たちがいても心の寒さは残ったままだった。

 私は遠く遠く離れた天井を見つめる。丸い鉄柵で覆われた電球がいくつも並んでいる。

 私は心細さを紛らわすためにカバンから参考書を取り出した。ようやく落ち着けたのだ。試験に向けて遅れをとるわけにはいかない。

 支給されたガサガサの服が落ち着かなかった。


 翌日は配給された朝食を食べてからすぐに叔母さんを捜しに行った。

 正午を回ったところで体育館に戻って一旦昼食をとり、再度捜索を続けた。

 しかしその日も成果はなかった。

 高校の再開は早くて来週からだと先生から言われた。

 空は今日も曇っていた。


 避難所へ来て3日目。私は行人のもとへ戻ることにした。

 自分でもどうして戻るのか上手く理由がわかっていない。

 戻るというと、何だか機械的だ。そうじゃなくて私はきっと戻りたいんだと思う。

 じゃあ何で?

 避難所にいれば食べ物にも困らないし、清潔なトイレやお風呂も使える。それに安全だし、困ったときはすぐに優しい先生たちが助けてくれる。

 それでも、私の心はいつまでも宙を彷徨っているような気がして、いつまでも孤独なままだった。

 結局のところ私は行人と過ごした、たった2日にも満たない時間に充実を覚えていたのだろう。

 今まで家族以外と関わってこなかった自分にとってその感覚は何とも言葉にしがたいものだった。

 それに行人といるときは、家族といるときとは少し違う感覚があった。

 安心感というよりも、もっと心が熱くなるような、安心とはむしろ逆の感情だった。

 何と行人に言おう。狡猾なあいつから馬鹿にされないようなもっともな理由なんて考えられるだろうか。

 もし、もういなくなっていたらどうしよう。もう二度と会えないかもしれない。

 私はさっさと荷物をまとめて、体育館を後にした。

 そのときふと、いつも通り食事の配給を行っているテントが目に入った。

 もしかしたら行人は今頃食べ物に困っているかもしれない。

 そう思い、私は足をそちらに向けた。

「友人の分もお願いします」

 そう言って、2人分のお弁当を貰って袋に詰めてもらった。

 お弁当は横に広く、カバンには横にしないと入りそうになかった。

 仕方なく私はお弁当を2段積んだ袋を引っ提げて高校を飛び出した。


 ついつい歩く速度が速くなる。

 はやる気持ちを抑えて、遠回りであっても人のいない道を選んだ。さりげなく背後を何度か確認して歩く。

 誰も私の跡を追っていないことを確認してから私は廃工場の中へ入った。

 たった3日来ていないだけなのにひどく懐かしい感覚がした。

 相変わらず地面はひびだらけで、亀裂からは緑が顔を覗かせている。

 今日もこの空間は静かだった。聞こえるのは私の息遣いと地面を蹴るローファーの音だけだった。

 行人が隠れ家としている崩れかけのアパート跡地を見つける。

 そして崩れた1階部分に入ったところではっと気づいた。

 あの食器棚を内側から移動させない限り、中へは入ることができないのだ。

 しかしその心配とは裏腹に、暗闇の中よく目を凝らすと、一部分だけ薄明かりが漏れていた。

 私は慎重に近づく。

 瓦礫を足場にして行人の隠れ家へ上った。

 食器棚は移動させてあった。つまり行人はこの中にはいないということだろう。どこへ行ったんだろう。

 また不安が押し寄せてきた。

 先にカバンとお弁当の入った袋を上げ、その後に私は上った。

 辺りを見回す。

 穴だらけのソファに傷だらけのテーブル。その上には私が置いていった小さな木刀が置いてある。私が出ていったときと何ら変わりはなかった。

 冷蔵庫のある部屋も覗く。冷蔵庫に手をつけると冷たいままだった。相変わらずカーテンが閉まっており、薄暗かったが、冷蔵庫もガスコンロも何もかも、行人が今も生活している形跡が残っていた。

 私は飛び上がりたい気持ちを抑えてカバンを冷蔵庫の近くに置く。

 そしてお弁当を出入り口がある部屋のテーブルに置いた。

 行人が帰ってくるまで待っているつもりだった。少し驚かせてやりたい気分だ。どこかに隠れたりしてみようか。

 そのとき私が入ってきた穴の方から何かが落ちる音がした。

 行人が帰ってきたんだ。私は立ち上がった。そして壁に開いた穴に近づいた。

 暗闇から突然鈍く光る黒い球体が現れた。

 そのとき、何か冷たいものが私の背筋を伝った。

 どうしてこの人はヘルメットなんてつけてるんだろう。

 心臓が持ち上がるような感覚の後、全身が危険信号を発する。

 声が出なかった。急に呼吸が荒くなり始める。

 そのヘルメット頭は腕の力でのそりと自分の身体を上らせた。

 私はその姿を見て絶句した。その佇まいはどう見ても行人には見えなかった。

 そしてあろうことか、もう1人が後ろから現れた。そいつも同様にヘルメットをかぶっている。

 そして片手には鉄パイプらしきものを持っていた。

 全身が冷たい汗で濡れてくる。口の中がからからだった。

 頭の中では依然として危険信号が鳴り響いている。今すぐ逃げないとだめだと、脳で誰かが叫び続ける。でもどうやって。出入口は今ヘルメット頭2人が立っているところしかない。

 脚が動かなかった。指先が小刻みに震えているのがわかった。

「こんなところに家があったとはな」

 先に隠れ家に侵入したヘルメットがくぐもった声で言った。

「なあ、姉ちゃん、この食べ物俺らにくれや。それとついでにここ、俺らに譲ってくれねえか」

 後ろの方から鉄パイプを持った人物が歩み寄ってくる。そして鉄パイプを私の顎元へ突き出した。なぜだろう、私はその卑劣な声に嫌悪感を感じるとともに先程の恐怖心は心なしか薄れ、あるのはその人物に対する憎悪のようなものだった。

 私は目の前にあるヘルメットを睨んだ。もちろん相手の表情は見えない。しかし私は睨みつけた。中にある卑劣で汚い悪人の顔を想像して。

「そんな目向けないでくれよ、別に傷つけたりしないさ、だから、な、俺らに譲ってくれよ」

 こいつらは今までも、こうやって他の人を脅してきたのだろうか。

「駄目だ、怯えて何も答えちゃいねえ」

 そう言うとヘルメットは鉄パイプを下ろし、くるりと向きを変え、テーブルにあった袋に手をかけようとした。

 その瞬間、私の中から熱い感情がせり上がってきた。足の先かあら頭のてっぺんまで強い感情が燃え上がる。

 それは行人のために貰ってきたんだ。

 お前らみたいな悪人のためのものじゃない。

 私はすぐさまテーブルの上に置いてあった小さな竹刀をとった。

 そして力を込めて振り上げ、一直線にその男の腕めがけて振り下ろした。

 空気を切り裂く音と共に鈍い音が響く。

 そして男の悲鳴が部屋中に響き渡った。腕を抑えて男がよろめく。

「お前らみたいなやつに、譲るものなんてない!さっさと出ていけ!」

 怒りに任せて野太い声が腹の底から出てくる。自分の声ではないみたいだ。

 突然腕を抑えていた男が何かを叫びながらこちらに向かってきた。その声は怒りのまま発されたもので、ヘルメットの中でこだまして聞き取ることができず、雄たけびのようになっていた。

 私はその男を寸前で避けた。

 しかし、そのとき、真横から飛んできたもうひとりの拳に反応することができなかった。

 目の前に火花が散る。天と地がわからなくなった。

 側頭部から痛みが頭蓋骨を通って後頭部に達する。

 私はそのまま倒れた。目の前が霞む。

 遠くに眼鏡が飛んだのが微かに見えた。

「よくもやってくれたなお前、なあ」

 そう言ってヘルメットは私の胸倉を掴んだ。

「女のくせに武器さえあれば、どうにかなるなんて思ったわけ?なめんじゃねえよ」

 左から平手打ちをくらった。また視界が歪む。

 私は右手に力を込める。木刀を持つ手が熱い。燃えているようだ。

 なめてるのはどっちだ。悪人が調子に乗るな。

 私は歪む視界の中、男のヘルメットの下、すなわち空いた喉に向かって拳を突き出した。

 男の喉に拳がめり込むのが分かった。

 男が咳き込み、ひるんだところで自分の足を抱え込み、男の金的に向けて蹴り上げた。男は苦しそうに悶絶しながら倒れる。

 私は立ち上がろうとしたが、その瞬間視界が大きくゆがみ、膝をついた。

 視界の隅ではうずくまって苦しむ男と、大股で歩み寄ってくるもう1人の男がいた。

 その瞬間脇腹に鈍い痛みが走った。息ができなくなる。

「こいつ、どうにかしねえと駄目だな」

 男は傍に落ちていた鉄パイプを取り、私に背中にもう一度蹴りをくらわせた。

 痛みに目を細めながらも、何とか目視できた光景は、私にまたがるように仁王立ちしているヘルメット姿の男と、その頭上に振り上げられた鉄パイプだった。

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