第3話

 行人の隠れ家がある旧工場地帯を抜け、私たちは朽ち果てた東京郊外を進んだ。

 無機質で冷たい倉庫などに囲まれながら私は行人の背中を追っていた。周辺の建造物はすべて背筋が冷たくなるほど不気味で妙な威圧感があった。

 どれだけ耳を澄ましても聞こえるのは私の息とふたりの足音だけ。動物の鳴き声すら聞こえない。この世界にはもう私たちしかいないかのような錯覚に陥る。

 私が生まれる前はここの工場群ほとんどが稼働していたはずなのだ。毎日のように作業員たちが出入りし、その喧騒けんそうの中、空に向かって煙突が煙を吐いていたのだろう。

 それが今はもう見る影がない。もう息が止まっている。死んでいるようだ。

 本当はもっと生きていたかっただろうに。こんな静かな無機物にはなりたくなかっただろうし、こんな風に草木に侵食されたくもなかっただろう。

 そこらじゅうの地面にひびが入っていて足元を警戒していないと躓いてしまいそうだった。


 30分ほど歩くと、ようやく街の明かりや自動車の走行音が聞こえるようになってきた。

「こんなに遠いところに今までいたの」

「そうだよ」

 私と同じように声を潜めて行人は答える。

 そのとき、視界に一筋の光が過った。

 私たちはすぐに身を低くし、近くにあったゴミ捨て場の陰に隠れた。

 しばらくしてガタガタと音を立てながら軽トラックが通過していく。

 他に光がないかを確認してから私たちは道に戻る。遠くなっていく淡いトラックのライトを私は見つめていた。

 それから都市部に到着するまで他に7台の自動車をやり過ごした。

「気をつけろよ、そろそろ人が出てくる」

「人ってどっち?一般人?警察?」

「両方だ。一般人に関しては通報されることはないだろうが、見られないに越したことはない。あまり大きく動くなよ」

「わかった」

 声が震えていたことに自分でも気が付いた。

 自分は今すごいことをしている。規則を破って夜間に外出している。いわば警察の目を搔い潜った潜入である。

 潜入と言っても大袈裟か。どこかに忍び込んで行動を起こすわけではない。避難所を可能な限り回って、あたかも最初からそこにいたように振舞いながら叔母さんを捜すだけだ。

 私は全身に味わったことのない空気を感じている。生まれたときから常に身の安全を第一として教えられ、たとえ両親と同伴だったとしても夜間に外出というものをした記憶がない私にとって今の状況というのは現実感がなく新鮮で、小説の中にでも入り込んだような気分だった。

 夜風を感じながら深呼吸をして気を落ち着かせる。味わったことのないひんやりとした空気が身体を満たした。遠くでサイレンが鳴っている。

 私たちは再度歩き出した。

 左右をフェンスに囲まれた高架下を歩く。真上から絶えず響く自動車の音が私たちの足音を搔き消す。

 防壁だろうか。ひびだらけのコンクリートの壁を上る。行人から手を貸されたが私はそれを振り払って自分で上った。

 東京タワーが近くに見えるようになってくるにつれて見覚えのある景色が広がってきた。

 私たちはさらに五感を研ぎ澄まし、慎重に歩を進める。

 すると突然行人が私を引っ張り、近くにあった車の残骸へ隠れた。

 私はゆっくりと陰から行人が覗いていた先に視線をやった。

 頭にヘルメットをかぶり、全身を薄暗い緑に染めた人影が5人ほど集まっていた。全員で向かい合い、何かを話し合っている。

 自衛隊だ。

「私、銃初めて見たかも」

 息を吐くようにそう呟いた。心臓が次第に音を強める。

 自衛隊が事件の対応として出動する際、その様子は一般に公開されることはなかった。日中に活動する際、その活動範囲には一般人が立ち入ることは禁止されている。

 理由は、国民の不安を煽るからだった。

 50年ほど前にはBB銃という玩具が日本でも流行っていたというのを本で読んだことがある。銃弾がプラスチックになってはいるものの、見た目は本物に似せてあり、お互いに撃ち合うイベントもあったらしい。そんなこと到底信じられない。

「どうするの」

「とりあえず、あいつらが向こうへ行くまで待つ。あそこ見えるか」

 そう言って行人は真横を指さした。

 20メートルほど先に車の一部や粉々になったコンクリートの残骸が山積みにされていた。

「あそこを迂回したら、水路がある。そこを通っていけば、そのまま川を歩いてお前の家の近くまで行ける」

「水路?何でそんな道知ってんの」

「何度も通ったことあるからだ」

 行人は例の自衛隊が向こうへ歩き出したのを確認してから「ほら、行くぞ」と私を促した。私は意を決してそれに続く。

 コンクリートなどの残骸の山を迂回すると、そこには本当に水路があった。

 行人は柵を乗り越え、下へ降りた。私もそれに続く。

「たぶん綺麗な水じゃねえけど、そんなこと今さら——」

 行人は何の躊躇ちゅうちょもなく用水路に足を突っ込んだ私を見てそれ以上言うのをやめた。

「よし、じゃあついてこい」

 できるだけゆっくりと地を這わせるように足を運び、水の音を立てないように歩く。

 用水路の水は冷たく、足から全身に冷気をもたらした。

 水の透明度を確かめようと思ったが暗闇の中それは不可能だった。

 ただ水底はぬかるんでおらず、硬い地面を踏んでいるという実感はあった。藻などが植生していないということだろう。ということはこの用水路は工場排水用のものなのだろうか。

 壁に手を預けながら私たちは暗闇の中を進んだ。

 確かにここなら真上から人が覗かない限り、誰かに見られるということはないだろう。

 少し進んだところで突然上から足音が聞えた。

 私たちはすぐさま音がした方の壁に張り付き、息を殺した。

 しばらくすると足音は遠ざかっていった。

 暗がりの中行人が頷くのが見えた。私も頷き返し、再度歩みだした。


「よし、ここらで一回上がろう。少し待ってろ」

 10分ほど進んだところで行人がそう言った。壁に隣接した小さな階段を上り、頭だけを出して辺りを見渡した。やがて「よし、来い」と手招きする。私も階段を上った。

 見覚えのある景色が目の前にはあった。辿り着いたところは私の住んでいた家から1キロほど離れたところにある住宅団地だった。7階ほどのアパートが林立している。

 だがほとんど明かりはなく、しんと静まり返っていた。恐らく昼間の爆破事件でみんな避難したのだろう。

 私は靴の中に入った水を出しながら身震いした。だいぶ体温が下がってしまった。濡れた脚を夜の冷気が貫通していくようだった。

 私は耳を澄ましたが、近くでまだ消火活動が行われている様子はなかった。もう鎮火されたのだろう。

 ここ最近で東京は木造の家が減った。

 ほとんどの住居は火災に強いだけではなく、外部からの衝撃にも強い鉄筋コンクリートのかくかくしたものになっていた。

 私の住んでいた家は不運にも木造のモダンな作りのものだった。周辺の住宅もそうだ。あの区域自体が昔から存在していた区域で、古い家が多かったのだ。

 もし私がわがままを言わずに叔母さんの住んでいたアパートに移っていれば・・・。

 私は考えるのをやめた。叔母さんは絶対に生きている。それを今確かめに来たんだ。余計なことを考えて目的を忘れてはならない。

 私たちは暗がりを歩いた。相変わらずゴーストタウンのように静まり返っていたが、どこに誰が潜んでいるのかわからないので常に神経を研ぎ澄ませながら進んだ。

 まずは私の通っていた高校へ行くつもりだった。こういう事態には全国の学校同様に体育館を避難所として開放していたからだ。もしかしたらそこにいるかもしれない。

 近辺にはざっと思い出せるだけでも小学校、中学校、高校が5校近くあった。すべて回ると考えると相当骨が折れるが、それでも私は回れるだけ回るつもりだった。

 焼けてしまった家まで行こうと思った。あの家には両親の仏壇がある。家の前まで行って手を合わせるだけでもしたかったが、立ち入り禁止のバリケードが置かれており、家がある通りに入ることすらできなかったので、断念せざるを得なかった。

 変わらず隠密に住宅街を進んだ。ここから高校への道はわかっているので、今度は私が先導した。

 道中で一度行人に頼んでスマートフォンの着信履歴を確認してもらった。しかし依然として叔母さんからの連絡はなった。

 やっと高校が見える地点まで来たが、周辺には数人の警備員がいた。赤色の誘導棒を振りながら通過する車を誘導している。

 私たちは高校の敷地周縁部の柵を伝って移動し、私だけ先に裏口の柵を越えた。

 行人は一人で行けと私に促し、暗闇の中に消えていった。私はその様子をいぶかしむ。そして途端にはっと気づいた。スマートフォンを渡したままだった。

 どうする。今ならまだ暗闇の中で行人に追いつけるかもしれない。しかしあまり怪しい動きをして目立つわけにもいかない。

 私は後悔した。私の指紋ででしか画面のロックを解除できないので悪用される心配はないが、あの男に限っては何をされるかわからない。私には到底思いもつかないようなことをするかもしれない。

 私は舌打ちした。しかし体育館の方へ向き直った。今はそれよりも大事なことがある。スマートフォンがないくらいどうってことない。私は家を、家族と過ごした大切な場所をなくしたのだ。今さら機械1台ごときが何だというのだ。

 私はできるだけ足音を立てずに大回りにグラウンドを通過し、体育館まで近づいた。体育館の扉は閉まっていた。しかし窓からは明かりが漏れ、中から人の声が無数に聞こえてくる。

 私はゆっくりと横開きの思い扉をスライドさせた。隙間から中を覗く。

 体育館を埋め尽くす量の人々が大量に敷き詰められていた。中には包帯を巻いた人もおり、いかに深刻な状況であるかを物語っていた。

 この中から叔母さんを探し出すのはかなりの労力を要するだろう。

 しかしそうは言っていられない。私は力を込めてできるだけ静かに扉を開いた。

 近くにいた老人がこちらを見たがやがて興味がなさそうに視線を虚空に移した。

 私は湿った靴を脱ぎ、それを片手で持ちながら青いビニールシートの上に乗った。

 濡れたまま歩いて申し訳ないと思ったが仕方がないと割り切った。

 顔を左右に振りながら一人一人の顔を見ていく。

 子どもの鳴き声、そしてそれを必死にあやす母親。一度男の人の怒鳴り声も聞こえてきた。私はそんな様子を見て、申し訳ない気分になった。私が責任を感じる理由はもちろんない。それどころか私も同じく被災者なのであるが、この理不尽な世の中をどうしようもできない自分の無力さを感じてしまうのだった。

 中を2周したが結局叔母さんの姿はなかった。

 私は肩を落とし、来たときと同様にゆっくりと扉を開け、闇の中に消えた。

 誰にも見られていないことを確認してからそそくさとグラウンドの端を通って裏門から出た。

「どうだった」

 暗闇から突然声をかけられてびくりとした。

 目を凝らすと大きな木の陰に行人が寄りかかっていた。

「だ、だめだった」

 律儀に待っているとは思わなかった。本当に逃げられたと思っていたのだ。

「そうか、じゃあ次をあたるか」

「う、うん」

 私たちはまたできるだけ人目のつきにくい暗闇を歩き始めた。

 身体はどんどん冷える一方だった。途端に心細さが増してくる。

 なんだか急に行人に対して申し訳ない気持ちになった。

「ねえ、あとは私一人で何とかして探すからもう帰っていいよ」

「はあ?」

 行人が声を荒らげると同時に頭に鈍い衝撃が走った。

「い、痛っ。何するのよ」

「人にここまで歩かせておいて帰れなんて都合がよすぎじゃねえの。なにいい人ぶってんだよお前」

「ご、ごめん」

「つべこべ言ってねえでさっさと早く次のところへ急げ。消灯になったらどうすんだよ」

 私は唇を嚙んで歩き出した。やっぱりこいつには腹が立つ。毎回のように反論できないことを的確に指摘してくる。それにしても言い方というものがあるだろうが。


 それから近辺の学校や公民館を計3つ回った。途中からアキレス腱が痛み出していたが、それでも私は諦めずに叔母さんの捜索を続けた。

 しかし叔母さんを見つけることは結局できなかった。そして最後に辿り着いた小学校の避難所はすでに消灯してしまっていた。

「今何時?」

 私は行人に尋ねる。

「さあ」

「さあじゃないわよ、私のスマホで見なさいよ」

 行人は面倒くさそうにポケットから私のスマートフォンを取り出す。そして「ほらよ」と私に渡した。

「え?」

「どうした?いらねえのか」

「い、いや」

 私はスマートフォンを受け取った。まさかこんな素直に返してくれるとは思わなかった。画面を開き時間を確認する。午後11時を回っていた。こんな時間に外にいるなんてやっぱり未だに信じられない。もし人に見られたら私はどうなるんだろう。

 私たちは帰路についた。流石にこの時間になれば自衛隊や補導員の姿はなく、私たちはわざわざ水路を通ることはせず、できるだけ小道を通って帰った。

「お前、これからはどうするつもりだ」

「これからって?」

「明日から」

「もちろん叔母さんを探すわ」

「はあ?諦めの悪いやつだな。またこの道を往復するつもりかよ」

「当り前じゃないの。まだ病院にも行ってないし、まだ行くところはあるわ」

「あっそ、勝手にしやがれ。明日からは一人で行けよ。というかそれなら、あのまま避難所にいればよかっただろうがお前」

「あんたの隠れ家に荷物が置きっぱなしでしょ。荷物置いたままにできるわけないじゃない」

 荷物といっても参考書類しか入っていないのだが。

「なら最初から持ってくればよかったのに、全然後先考えてないんだな」

「あっちに着いたらすぐに荷物を持って望み通り出ていくわよ」

 自分でも気が立っているのがわかる。叔母さんの行方が心配でたまらないのにこの男ときたら、今後に及んでも小言で私を突いてくる。

「ああ、そうかい、わかった、そうしろ」

 私たちはそれからお互い何も言わなかった。

 2人とも黙って真っ暗な道を歩く。

 そのせいでさらに腹が立つ。何なんだこの態度。もう少し人とコミュニケーションをとろうとはしないのか。

 私はわざと大きめに足音を立てて歩いた。それでも行人は相変わらず無反応だった。石を蹴ってぶつけてやろうと思ったがやめた。


 脚の痛みがピークに達したところで工場跡地に到着した。

 この時間になれば本当にこの辺りは真っ暗で何も見えない。風の音すらせず、不気味と言ったらこの上なかった。

「よくこんな不気味なところに独りで住めるわね」

「不気味ってどこが」

「だってほら、何の音もしないじゃない。すごく不気味」

「今の世の中、近くに人がいる方が不気味で恐ろしいよ。静かな方が圧倒的にまし」

 そんなものなのだろうか。生きてきた環境が違うと、ここまで考え方が変わるのだろうか。

 私たちは崩落した1階部分を通り、そして行人の隠れ家に戻った。

 中に入ると同時に無力感と疲れがどっと出てきた。空腹感もあった。

「ほら、お前の荷物あっちの部屋にあるぜ。さっさと出ていけ」

「ごめん、もう足が疲れて歩けない。明日にする」

「ふん、聞いて呆れる。言ったことも守れねえのか」

「うるさい」

 私は近くにあったソファに腰を下ろした。恐らくどこかのごみの中から持ってきたもので、ガサガサしていたが気にならなかった。とにかく眠かった。

 後ろでずずずと重いものを引きずっている音がする。行人が食器棚をもとの位置に戻しているようだった。

 やがて泥のように重い眠気が襲ってくる。私はそのまま意識を預けた。

 遠くなっていく意識の隅で叔母さんの後姿を見た気がした。

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