第1話

 10月中旬。

 つい最近まで夏だったはずなのに、この時間になるといつの間にか自分の影がコンクリートの色にのまれ始め、身体を撫でる風が冷えてくる。

 首筋を時折撫でる外気が冷たい。長い髪が鬱陶うっとうしくてあえて短髪にしているが、この季節になると髪を伸ばした方がよかったかもしれないと思ってしまう。

 17時18分。

 私は左手の時計を見る。今日は予備校で問題集をコピーしていたせいで帰宅の時間が遅くなってしまっていた。

 あと12分で未成年の単独での外出禁止時間になってしまう。

 自宅はもうすぐそこなので焦る必要はないのだがどうしても早足になってしまった。

 空気は冷たいはずなのに身体を動かすと下着と肌の間が汗ばむ。往生際の悪い夏が意地悪く残っているようであまりいい気分ではない。

 未成年は午後5時半以降、単独で外出することを規則として禁止されていた。罰金などの罰則は特にないが、補導員が巡回を始め、未成年を見つけると補導され、自宅と通っている学校まで連絡がいく。

 こうした厳しい規則があるのは、2年前に17歳の少女が夕方に1人で歩いていたところ、怪しい男に後ろから襲われ、監禁される事件が起きたのが発端である。

 それでもその規則に従わずに4人の少年不良グループが補導員の目を盗みながら出歩き回っていた結果、行方不明になるという事件も発生している。

 至るところに監視カメラが設置されているが、それでもさらなる事件を防ぐことができず、犯行を捉えたとしても、犯人の巧妙な逃走により、逮捕に至らないケースも多かった。


 自宅が見えるようになってくると突然目の前から強い風が吹いてきた。

 そのせいで私は片手に持っていた参考書を落としてしまう。

 すぐさま拾い上げ、表紙に傷がついていないか、折れたページがないか確認する。

 幸い、大した傷はついていなかった。

 顔を上げ、目の前を見る。風が吹いてきた方向を。

 あの風はどこからやってきてどこへ向かうのか。いつか勢いがなくなり、最後には死んでしまうのだろうか。

 自宅の向かいにある公園を通過したところで、私はふと気づく。

 何週間か前からずっとこの公園のベンチで生活していたホームレスの姿がなくなっていた。彼の荷物と自転車ごと、もともとそこには誰もいなかったかのように、さっぱりと寂れた景色だけが広がっていた。

 もはやその空間は公園としての機能を果たしていなかった。

 こんな世の中だ。子供が公園に行かなくなるのも無理はない。公園に残されたのはよく目にするような蔦が巻き付いたジャングルジム、悲しそうに静止した動物の乗り物と、ホームレスがよく眠っていたベンチだけであった。

 私は腕時計を再度確認して、あと6分余裕があるのを確認してから公園の門をくぐった。

 中に入ると少し別の空間に入ったような気がした。

 私が生まれる前、つまりあの大災害が起こる前の平和な時代にはこの公園も子供たちの声で賑わっていたのだろうか。

 今は風の音しか聞こえず、ただ冷たい空間が広がっているだけである。

 私は公園に背を向けて家へ向かった。

 家に到着し、玄関に立ってから胸の高さにある箱形の機器に人差し指を入れる。指紋認証システムが作動し、ドアのロックが解除された。今の時代、どの家にでも当たり前のように備えらえてある、国家推奨の防犯システムである。

 玄関に入り、靴を脱いだところで午後5時30分のサイレンがちょうど鳴った。

 サイレンといっても、爽やかなオルゴール調のものである。住民の心を落ち着かせる作用のある音色を選んで流しているらしい。

 廊下を通ると夕飯の匂いが漂ってくる。たちまち食欲が刺激される。

 リビングで夕飯の用意をしてくれていた叔母にただいまと言う。

「おかえり燐ちゃん」

 叔母は昔から私のことをそう呼ぶ。高校三年になったのだからいい加減その呼び方は恥ずかしいと言っているのに本人はいっこうにやめてくれない。

「着替えてくるね」

「はぁい」

 自室に入る前に居間を通り、奥にある仏壇に顔を出す。

「ただいま」

 仏壇には父親と母親が笑顔で笑っている写真が置いてある。

 私もその二人に微笑み返すと、立ち上がって自室へ向かった。

 着替えを済ませてリビングへ向かう。

 食卓にはすでに食器が並べてあった。今晩のおかずは肉じゃがだった。叔母は私と違って料理が得意だ。お母さんには悪いけど、叔母の料理が一番美味しいと思ってしまう。

 ふたりで手を合わせて食事を始める。

 普段から私の家では食事中にテレビをつける習慣はない。

 食事時のこの時間はニュース番組をやっている局が多く、頻繁に殺人や強盗、誘拐などのニュースが目に入ってしまうからだ。それは私と叔母の家族をこの世から奪った忌々しい事件を思い出させるものであり、そういったものを極力遮断することがいつしか暗黙の了解となっていた。

 夕飯が終わるとしばらく叔母と談笑し、私は湧かしてくれたお風呂に入り、疲れを癒す。

 そしてその後はすぐに自室に入り、机に向かって参考書を開く。

 警察学校の一次試験がもう3ヶ月と迫っていた。


 私の両親は警察だった。

 父親は警視長。母は巡査部長を務めていた。

 私は幼いころからその両親の背中を見て育った。両親の正義と平和のために悪に立ち向かう逞しさに憧れ、いつしか自分も同じように警察となり、正義と平和の日本を取り戻そうと志すようになったのだった。

 親譲りの負けず嫌いな性格で、中学校に上がった頃から常に学年トップの成績を維持し続けた。勉強がもともと得意だったこともあるが、他の人に上をとられるのが嫌だったから必死になっていた節がある。

 都内で有名な高校に入学した後も、トップの成績を維持した。

 部活動では中学の時に剣道部に入り、高校まで続けた。

 中学2年の時に夏のインターハイで全国9位になったのが最高成績だった。高校に入ってからというものの、勉強との両立が思った以上に難しく、全国大会に3回出場したが結果は芳しくなかった。

 仲のよい友人は中学のときから今に至るまでいなかった。

 自分の正義感の強さが原因か、生真面目すぎる性格が原因かはわからないが、誰かから話しかけられることは事務的な用件以外なかった。

 私自身それでよかった。叔母と仲がよかったこともあり、寂しさを感じたことはなかった。何より私には友人と過ごすための時間よりも、夢のために突き進む時間の方が大切だったのだ。


 父が死んだのは私が小学生高学年のときだった。当時捜査していた事件の犯人を追い詰めたところで反撃を受け、致命傷を負い、結局2日後に病院で死んでしまった。

 犯人は捕まったが、父の命が代償となった。

 私はそれを機にさらに強く警察を志願するようになる。逆に母は強く反対するようになったが私は頑として節を折ることはしなかった。

 それと同時にこの世の悪に対する対抗心も膨らんでいった。

 この世に蔓延る悪人を1人残らず捕まえ、もう一度平和な日本を取り戻すのだ。私はそれに貢献するのだ。誰も血を流さなくていい世の中を取り戻すのだ。

 いつしかそれが私の信念となっていた。

 そして私のその信念がもはや生きる意味と呼べるほどまで確固たるものになる事件、いや悪夢が起こった。

 中学を卒業する直前だった。

 母が何者かに殺された。

 母は夜1人で歩いていたところを後ろから誰かに襲われた。

 犯人は今に至るまで捕まっていない。証拠もほとんど掴めていないままだった。

 母も父と似たもの同士で、一段と正義感が強く、同じ警察の中でも一目置かれていたし、名前も世の中によく知れ渡っていた。だからこそ正義とは反対側の世界に生きる人から憎まれることが多かったのだろう。

 私はそのことを電話で叔母から聞かされたとき、目の前が真っ暗になって1人家の中で気を失いかけたことをよく覚えている。

 あのとき感じた自らの内臓を燃やしてしまうのではないかというほどの怒り。暗くて黒い怒りが私の中にしばらく宿っていた。

 悪は絶対に許さない。罪のない人を傷つけることは絶対に許さない。

 誰が何と言おうと私は絶対に警察になる。

 誰も血を見たくなんてないんだ。誰も傷つけあうことなんて望んでいないんだ。

 それから私は叔母とともに生活することになった。

 引っ越すことはしなかった。できれば両親と過ごした家を離れたくはなかった。だから一人暮らしだった叔母がわざわざ暮らしていたアパートを出払って私と住んでくれることになったのだった。


 翌日土曜日、私は勉強をするために図書館へ向かっていた。

 予備校は今日は臨時で休校。家で勉強してもいいが、やはり自室よりも図書館や予備校の方が集中できるから、基本的に週末はいつも午後から図書館か予備校へ出向いていた。

 図書館は高校や予備校とは反対の方向にある。だからいつもと違う景色を感じながら歩くことになる。私はここの景色が嫌いではなかった。だからこの道を通るときは基本的に参考書はカバンにしまって歩く。

 この道は比較的治安がいいらしく、事件があったことをあまり聞かない。歩道の両面にイチョウの木が植えられており、その道が5キロほど続いている。まだ葉は緑だが、もう少しで紅葉が始まり、このあたりは絵本のように一面黄色の世界になる。私は毎年それを楽しみにしていた。

 イチョウの木がなくなったところでぽつぽつと住宅や売店が増えてきた。

 私は足を少し早めた。

 しかし、寂れたコンビニエンスストアを通過したところで私は目の片隅に何か動くものを捉えた。

 思わず立ち止まり、その動くものを凝視する。

 コンビニエンスストアの側面、電柱やゴミ捨て場で陰になっている空間に人影が見えた。

 最初は店員かと思ったが、制服を着ていないし、そもそも来ている服もぼろぼろで、店員でないのは明らかだった。

 私は迷った。このまま放置するべきだろうか。しかし、もしあの人物がコンビニを襲おうとしていたなら・・・。考えにくいが、可能性はゼロとは言えない。

 ならば警察に連絡するべきか。でもあの人物が何者かわからないままで、警察に連絡というのはあまりにも時期尚早である。まずは声をかけるべきだろうか。

 私は警戒しながらゆっくりとその人物に歩み寄った。

 体格を見るからに男性で、癖のあるうねり毛がまず目に入った。黄ばんでよれよれのワイシャツを着ており、ホームレスを連想させた。

「あの、そこで何をしているんですか」

 その男は私に気づき、ゆっくりとこちらを向いた。

 余り日本人らしくない顔立ちだと真っ先に思った。

 全体的に顔の彫りが深く、鼻も高い。鋭い切れ長の目が私を見据えていたが、その目には幾分か疲れが見え、よく見ると頬も少しやつれていた。私はいざというときのために注意深くその男の人相を記憶しようとした。

「何してるんだって、食べ物を探してるんだよ」

 低い声で唸るようにそう答える。

 私は戸惑った。食べ物を探しているということは今からコンビニに押し入ることも考えられる。しかし、男が今漁っているのはゴミ箱。すなわち残飯だ。わざわざそんなことをしてから強盗に押し入るとは考えにくい。

 恐らくこの男はやはりホームレスだろう。着ている服をはじめ、汚れた身なりを見れば想像がついた。となると食べ物を探しているというのは本当で別に襲撃を考えているわけではないのだろう。

 私はカバンから財布を取り出した。

「待っていてください、今、何か買ってきますからそこで待っててくださいね」

 ホームレスに食べ物を与える行為は本来ならば推奨されていなかった。ホームレスを保護および援助するのはあくまで政府の役割であり、一般市民がホームレスに干渉することは危険な行為として扱われていた。実際に過去にホームレスに食べ物を与えた一般人がそのまま襲われるという事件も毎月のように起きている。

 要するにホームレスは人間として扱われていないのだ。餌に飢えた野生動物のような扱いである。

 私は家の前の公園で生活していたホームレスを見ているとどうしてもやるせなくなり、過去に何度かこっそりと食べ物を置いたことがある。それと同様に、今も身体が勝手に動いてしまったというか、はっきりとした自分の意志での行動なのだが、どうしても見捨てるわけにはいかなかった。市役所に通達したところで、いつ対応がいくかわからない。ならば自分ができることをするべきだ。

 おにぎりを3つ買った。それを渡すと「いいのか?」と、その男は目を丸くして聞くや否や、袋を破っておにぎりに齧りついた。

 私はこの場を目撃されるのを恐れてそそくさとその場を立ち去った。

 後ろでもごもごと男が何か言っていたが、聞えないふりをした。

 なぜ人助けをしているのにこちらが後ろめたい気分にならねばならないのかと不満に思ったが、非難の対象になるのは防ぎたかったのだった。


 月曜日。

 2日前に会ったあのホームレスらしき男のことがずっと頭を離れずに週末を過ごしてしまった。彼と出会った後、図書館で夕方まで勉強し、その後は別の道で帰宅した。彼との接触は以降避けたかったからである。

 それでもふとあるごとに彼のことを考えてしまった。

 何故か彼は今まで見てきたホームレスとは違った雰囲気を纏っていた。確かに痩せてはいたが、その割に姿勢というか佇まいがどしりとしており、あのまま放っておいてもそのうち自立して普通の暮らしに戻ってしまいそうな雰囲気であった。

 実際にホームレスになりすまして一般人が食べ物を不当にもらう事案も発生しており、彼もそれだったのだろうか。

 私は自習室を出た。思いっきり伸びをする。最近疲れがたまっている気がする。気分転換に少し校舎を歩いてこよう。

 窓から空を眺めた。青空は見えるものの、薄い雲が漂っている。今日は午後から雨になると今朝のニュースで言っていた。朝の天気予報くらいは叔母も一緒に見るようにしている。

 そういえば1時間ほど前からパトカーのサイレンが幾度となく聞こえてくる。

 パトカーや救急車のサイレンが鳴るのは毎日のことだが、今日はいつもより多い気がする。何かあったんだろうか。

 職員室のある2階に降りると、教員たちが頻繁に職員室を出入りし、各々が切羽詰まった状態で何か言葉を発していた。

 昼休みだからといってあそこまで教員がざわつくことはあるのだろうか。私はなぜか胸騒ぎを覚えた。

 そのとき突然臨時用のサイレンと共に放送が鳴った。私は足が止まった。

「緊急放送、これは訓練ではありません。えー、ただいま、付近の警察から連絡が入りました。この付近で爆破予告があったとのことです。校舎にいる生徒も校舎外にいる生徒も、今から速やかに体育館に集合してください。その際、決して慌てず、列を乱さずに—―」

 放送が終了する前に付近の教室からどうしよう!と大声が上がるや否や、大勢の生徒が教室からあふれ出した。私はその波にのまれるように体育館に辿り着いた。

 5分かからないうちに体育館に全生徒が集まった。周りはやはりざわついている。皆、次々と不安を口に出している。

 校長の話が終わり、しばらく全員がそのまま待機したのち、教員たちが話し合って、結局そのまま臨時休校となった。


 カバンに荷物を詰め、帰宅の準備をしながら私はスマートフォンを見た。予備校からも休校の通知が来ていた。まあ当たり前だろう。

 叔母に連絡を入れて、私は他の生徒たちから遅れて高校を後にした。


 相変わらず遠くでサイレンが鳴っている。

 少し歩いたところでスマホが震えた。立ち止まって着信を確認すると、叔母からだった。私の今から帰るという報告に対しての返信だった。『わかったよ^^』と古臭い顔文字が添えられていた。

 もう周りに生徒はほとんどいなくなっていた。皆そそくさと帰ってしまっていた。私自身も自分なりに急ぎ足で帰校の支度をしていたはずなのだが。

 至るところには警察が数人体制で見張りをしていた。私は一礼して前を通過する。

 しかし私はその場で立ち止まった。

 いつもの通り道が通行止めになっていたからだ。パトカーが何台か停まっていた。何があったんだろうか。

 私は仕方なく道を変えた。多少遠回りになるがやむを得ない。

 しかし先程からなぜか胸がざわついていた。何の根拠もない単なる予感だ。それこそ今日みたいに普段とは違うことが発生したせいで神経が過敏になっているだけかもしれない。

 回り道をしたせいで交通量の多いところに出た。多くの車が今日もけたたましくエンジン音を響かせながら行き来している。

 車の往来を見る私の背後にはビルが林立している。

 私は気持ち歩道寄りで歩を進めた。

 右からはごうごうと自動車のエンジン音が聞こえてくる。普段あまり交通量の多い道を通らないせいか、少し耳障りだ。

 すると急に風が吹いた。私は思わず腕で顔を守った。その瞬間私はなぜか猛烈な寒気を感じ、気づけば足が止まっていた。

 その瞬間目の前が真っ白になった。その眩しさに私は目をつむった。

 気が付いたら私の身体は宙に浮いていた。目を開けたとき視界には灰色の空が広がっている。世界がスローモーションに感じた。

 その直後、背中から全身を何か強い衝撃が走った。気が付けば目の前に靄のかかった地面があった。

 呼吸ができなかった。全身に強い痛みが走り、私はその場でうずくまった。

 何が起こったんだ。

 私は手探りで眼鏡を拾い、かけなおす。ぼやけた視界が鮮明になった。

 耳鳴りがする。

 目の前には黒煙を上げる黒い物体、いや横転した車の裏側が見えていた。

 途端にあたりから悲鳴が上がり出す。道路を走っていた車が次々と急停止し、いくつものブレーキ音が響き渡る。何台かが追突した音も聞こえた。

 何かが爆発したようだった。さっきの光は起爆のときに火薬が発火したときのものか。

 私は身体を何とか起こし、背中の激痛に耐えながら立ち上がった。

「何してんだ!早くこっちに来い!」

 どこかで誰かが叫んだ。私も早くここから離れなければ。

「おい!お前に言ってんだよ、こっちを見ろ」

 私は朦朧としながらふらふらと歩き出す。

「おい、しっかりしろ、どこ行く気だよ」

 突然耳の近くから男の声が聞こえた。しかし耳鳴りに遮られ、その声はくぐもって聞えた。

 突然身体が予期せぬ方向へ倒れ、視界がぐわりと揺れた。

 しかし肩に柔らかい感触を感じ、私の身体はそのまま静止した。

「頭でも打ったのかお前?死にたいのかよ」

「え、何が」

 私は何が何だかわからないまま尋ねた。

「いきなり爆発した車の方へ向かってたんだよ今、1回落ち着けよ」

 まさかそんなこと。

 私は混濁した意識のまま何とかたった今の状況を理解しようとした。

 私は今立っていて、誰かが私を支えていて・・・。

 私は何とか自分の力で体制をもどした。

「ありがとうございます、助かりました」

 と、まだぼんやりする意識のまま振り返りながら言ったところで目の前の男の顔を見て固まった。

 相手も同じようで、「お前、前会った・・・」とつぶやいた。

 日本人らしくない彫りの深い顔、ぼさぼさで癖のあるうねり毛。

 それは紛れもなく、2日前、買ったおにぎりを渡してしまった男だった。

「こ、こんにちは」

 私は何と言っていいかわからず、あたかも今までの知り合いであったかのように挨拶をしてしまった。

「とりあずここにいたら死んでしまう。歩けるか」

「ええ、何とか」

「わかった。とりあえずついてこい」

 私は身体の痛みに耐えながら言われるままその男の後に続いた。この状況ではやむを得ないだろう。私を助けてくれたのだから、むしろ信じてついていくべきだろう。

 何も言わず男の後をついていくと、狭い路地裏を次から次へと通り、いつの間にか住宅街に出ていた。

 向こうからものすごい量のサイレンが鳴り響いていたが、今通ってきた道にある建物によって遮られ、別の世界から聞こえているようだった。

「ねえ、何が起こったの」

 私は右の腕をさすりながら聞いた。どうやらここも打ちつけたようだ。

「誰かが道路を爆破したんだろう。その衝撃で車がひっくり返ったんだ」

「そう、なんだ」

 もしかして私は一歩間違えたらその爆発で死んでいたのではないだろうか。車がひっくり返るほどの爆発だ。人なんて跡形もなくなるだろう。

「どうして私を見つけたの」

「こっちが聞きてえよ、そこらへん散歩がてら歩いてたらいきなり車が吹っ飛んで、お前が何を思ったのかいきなり変な方向へ歩き出しやがって。驚いたよ」

 こんなときに散歩?何を言っているんだこいつは。

 私は身を引いて男から距離をとった。

「こんな時に散歩?今の爆発に関わっているとかじゃないでしょうね」

「おい、やめてくれよ。仮に俺があの爆破を知っていたとしても、わざわざ近くに行くわけねえだろ。俺だってもう少しで死ぬところだったんだ」

 言われてみればそうだ。

「じゃあ、あなた名前は?普段は何してる人?どこに住んでるの?」

「まるで警察の尋問だな、そんな怪しまないでくれよ。せっかく助けたのに心外だな。それより、この前のおにぎり、ありがとな。助かったぜ」

 馬鹿にされているようで少し腹が立ったが平静を装う。

「いいから答えて」

「はいはい。大門行人おおかどゆきと。普段は土木やってんの。中央区にある現場で。そんで、そこの寮で暮らしてる。ほら、これでいいかい」

 両手を上げて降参のポーズをした。

 だめだ、容易には信用できない。

 そのとき突然花火のような爆音が響き渡り、地面が揺れた。

 全身に危険信号が伝わり、肩に力が入る。私は音の方を向いた。

 遠くで黒い煙がいくつも上がっていた。その向こうには東京スカイツリーが見える。

 全身から血の気が引いていくのを感じた。

「家の近くだ」

「は?」

「あそこ、私の家があるの。叔母さんが家にいるのに。行かなきゃ」

「無理に決まってるだろ、死にてえのか」

「だめ、行かなきゃ!」

 もはや痛みは感じなくなっていた。

 私は走り出した。大門行人が何か言っているがもはや蚊帳かやの外だった。

 私の頭の中は叔母の安否でいっぱいだった。

 これ以上家族を失ったら私はどうなってしまうのだろうか。

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