第2話 僕
ずいぶん昔の話だった。だから僕はそれをセピア色で記憶する。本当はカラフルなことなのに。なぜかそうしてしまうのだ。
写真とはけったいなものだ。何で撮るのか、教えてほしい。だって、そうじゃないか。忘れたいんだ、全部。消してしまおうと、手を取る。
「カシャカシャ」
ファインダーをのぞくのは誰だろう。
きっとろくでもない奴なはず。
明日になったら解決するって後のばしにしてきたことを今どうにかしようともがく。ずっとその繰り返しを経験する。
ああ、テストだ。どうにかしなきゃ。ああ、朝だ。起きねば。ああ、何もない。どうしようか。そんなことかな。
僕は機嫌がいい。すこぶる機嫌がいい。だけど、だけどそれは今だけだ。すぐジェットコースターのような奈落に落ちる。這い上がることはできない。ただ、ただ時が過ぎるのを待つ。それが僕の罪。それが僕の罰。それが僕の現実。
僕は今、自由を謳歌している。煩わしいものなど何もない。何もないから、すばらしい。そんな世界で今、なぜか苦しい。
でもきっと、元に戻ったって、同じ。苦しいだけだろう。
出口はない。入口もない。ただ、壁は四方を囲んでいる。
だけど僕は、それでも生きている。きっと一人だから、こんなに不安なのだろう。でも、一人しか知らないのだ。そうだな、やっぱり僕は孤独だ。
だからねえ、この世界があんなことになるなんて、思いつきもしなかった。
それはね。
降ってきたんだ。悪魔が。世界を飲み込んでいった。形のない悪魔が。だからみんなは訳も分からず死んでいった。でも僕はどういうわけか、偶然その際難を逃れたらしい。他にも何人か、生き残っている。そう、生き残っているという表現が適当だろう。
「逃げろ!」
そういってあげたかった。みんなに。だって、こんな殺伐とした世界、受け入れられないよ。色もない世界。何もないに等しく感じる。
空虚といっていいだろう心をどうにかしようと、僕はもがく。とりあえず、海にでも行ってみようか。きっと気持ちも晴れて、気分もよくなって、すべてを忘れてしまうだろう。
僕には足がない。足?うん、足というか、足はあるんだけど、もっと遠くに行ける足。車とか、そういうの。
でも、この無法な世界ではもういいやと思い、免許もなしに皆車に乗っている。だから僕も乗ることにした。
海は心地よかった。風も心地よかった。そして、僕の心の空洞を埋めてはくれない。なぜかずっとほじくられているようだ。やめろ。そう呟く。きっと呟くことに意味はないのに。
なす術もないことに気付く。際限がないことを悟る。だから、僕はただもがく。
ああ、息苦しい。被写体のいない生活。味気のないことに、辟易とする。
だからさあ、何だろう。もう、海にでも吸い込まれてしまおうか。きっと苦しいのだろうか。多分、もがきながら落ちていく。死に向かって。嫌だ。
もう海まで来たのだけど、次はどうしようか。また何かをしないと、心が苦しくなる。新しい刺激を求めないと溶けそうだ。壊れそうだ。もつれそうだ。
そうやって足を進めた。進めた先で不思議なものを見た。そう、そこだけ昔のままなのだ。空気も気配も。人が住んでいる。いや、僕以外にも生き残りはいるんだ。正確にはね。でも、お互いを認識できない。いや、認識できなくなったのだ。そうだな、見えないってことさ。
最初は見えていた。本当に何が起こったのかは僕には分からないけど、みんなが形のない悪魔に、そう、飲み込まれるというのが適切なのだ。何かに飲み込まれた。僕は見た。でも生き残った人たちはだんだんお互いの姿が透けてきて、最後にはもう見えなくなっていた。
僕が知っているのはそれだけ。
だから、今僕は焦がれている。生きている人間の存在を感じている。だからこの扉のようなものを目にしたときは震えた。体中が。足も膝も筋肉も。全部。
すべてが透けてしまった世界で、何の希望も持つことはできないだろう場所で、見た。彼女を。
彼女は透けていなかった。みんな、他の人たちは生き残ったはずなのにお互いを認識できないのに。透けてしまってそれ以来、本当は存在しているのかどうかも分かっていないのに。
彼女はいる。扉の先に。息遣いも震える様子も動くさまもすべて目に焼き付く。
ああ、久しぶりの感覚だ。多分、僕はこれを求めていたに違いない。うん、いや、間違いない。
僕は気づく。今更気付く。なぜ、疑問を抱かなかったのか不思議に感じるほど、驚く。僕、何も食べていないのに、生きている。そんなことを。
そうだ、そうだ。そういえば、ただ昼も夜も朝も人間の営みを排除していたのだ。そんなことに今気づく。
おかしな話だ。僕は生きているようで死んでいたのか、と思う。
ああ、ああ。彼女がいるこの扉の先をのぞく。というか、扉は透けてしまっている。僕の目はおかしくなったのか、と思う。扉は透けているのに、彼女は透けていない。
さあ、もう開けようか。答えてくれよ、僕の訪問に。頼む。頼む。
「コンコンコン」
「コンコンコン」
もう、渇望する時間は消え失せたようだ。
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