92.フィニッシャー


 壁の内側で蠢いていた無数の蟹が、統率されたように一斉にこちらに向き直ったと思うと、揃って死んだように脱力する。


 ぴくりとも動かなくなった蟹の関節を、中に潜んでいた狩人が斬り落としぞろぞろと出て来た。総勢で何千人になるのだろう。恐らく街中の狩人が集められている。


 彼らが抜け出し空っぽになった蟹達の関節から、泡を含んだ灰色の体液が流れ出した。辺りで生い茂る夾竹桃きょうちくとうが垂らす赤い毒液と不気味に混ざり合い、汚らしく濁りながらあっと言う間に地面を覆って、壁の内側を瓦礫と汚水の沼へ変貌させる。私の背丈なら膝まで浸かるだろう。


 破壊されたセンターへ引き返して行くラブカに気付いて目で追うと、センターの一階に立つ鉄村清冬きよふゆと草壁が私達を見据えていた。私と帯刀おびなたがよく使っていたソファが、すぐ横で転がっている。


「彼女から離れろ。魔法使い」


 鉄村清冬が告げた。


 人間離れした聴覚を持つ私と、優れた知覚を持つ吸血鬼である裁という相手故に聞こえると分かって放たれたその声は、冷厳さが増している。


「これは命令だ。俺にお前の魔法はもう通じない」


 私と擦れ違うと壁の内側を見下ろすように立ち鉄村清冬を睥睨していた裁が、憎々しげに零す。


「あの気色悪い蟹防衛魔術か」


 そう。先程から裁の付与の魔法エンチャントが上手く働いていない原因は、今し方鉄村清冬が明かした奴の魔術、『苦海の檻』だ。これは水棲生物を模した魔術装置を展開し、この装置は触れた魔法を解析して分解する。


 蟹の装置が暴れていたようにある程度動き回らせる事は出来るが、生物の姿を模しているのはあくまで擬態であり、魔法使いに破壊させる為の罠だ。分析中はやられっ放しの上に魔法使いを直接仕留める手段にも成り得ないが、魔法の無力化とそれによる防衛力において、『苦海の檻』を超える魔術は〝不吉なる芸術街〟に存在しない。つまり液状に広げられた装置に満たされたこの壁の内側では、もう裁の付与の魔法エンチャントは機能しないという事だ。


「……本当にとんでもない頭の出来だな」


 やっと痛みがましになって零した私に、裁は面倒そうに一瞥した。


「……で、あたしが動かれへんタイミングが来るんを、あんたは待っとった訳かいな。魔術名を明かして警戒を促すっちゅう魔術師の伝統から、魔術師は互いの魔術の情報を共有し合う以上、あのおっさんの魔術がどういうもんなんか知らん筈無いのに黙っとって」


「……居場所がバレるのが早過はやすぎて、説明してる暇が無かったんだよ」


 私達の遣り取りは聞こえない、鉄村清冬は告げる。


「美術館に現れた魔法使いについて知っている事を話せ。何も知らなければそこで自害しろ。断るのならお前の魔力が尽きるまで、俺がお前の魔法を無力化してから殺す。目敏くその魔術刀で悪魔のはらわたを取り出そうと彼女を狙ったようだが、それ以上彼女に近付けば狩人がお前を殺すぞ」


「あんたそれでも、あたしを助ける?」


 裁はまるで鉄村清冬が、私に『一つ頭のケルベロス』を投げ付けたのは自分だと明かすタイミングを分かっていたように、至って冷静に尋ねた。その右手に、『一つ頭のケルベロス』を握ったまま。


「自分さえ幸せやったらそれでええ奴でも、その辺におる普通の人と同しように扱いたいって、ほんまに思う? 今こうやって、あんたを殺そうとしたばっかりでも。今でも隙さえあればあんたを殺して、自分の願いを叶えようと必死に考えてるような奴でも」


「悪魔のはらわたをやるとは言っていないから、その問いには意味が無いよ」


 私は即答した。


「そんなに欲しいんなら殺しに来ればいいさ。そこには別に、文句は無い。文句は無いっていうか、仕方無い。どう足掻いたって、出自は変えられないんだから」


 裁は肩を落として、それは大きな溜め息をついた。散々周囲を騙して来た演技力を持ちながら、鉄村清冬に気取られるのを全く憚らないそのあからさまさは、心底しんていから現れた動きと分かる。つまり、これ以上無く呆れられた。


 肩を落としたまま、つられて視線も足元に落として俯いたまま、裁は零す。


「……あたしとあんたが分かり合う事は、生涯無いわ」


 もう私達への関心が失せたような冷たさで、鉄村清冬は告げた。


「時間切れだ」


 黒と黄色の閃きに天地が呑まれる。いや、私達が立っている壁の縁周辺と、それ以外が断絶された。気付いた頃にはもう、黒と黄色で編まれた円蓋状の檻に閉じ込められる。


 気配を感じて右側を見た。裁もそちらへ横顔を向ける。家に置いて来た時と同じ表情で、鉄村が檻の縁に立っていた。


 固く口を結んで私達を凝視する鉄村を、裁は鼻で笑う。


「しつこい男はモテへんで」



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