38.なつかし泥人形
青砥部長は落ちそうになっている眼鏡もそのままに、何故か両手でドア枠を掴んで踏ん張った。何をしてるんだと怒鳴ろうとするより早く、青砥部長は振り返る。
「分かった! お前も来い!」
理解出来なくて
「……あの腕は魔法使いの仕業です! 何とかしないと!」
「お前が一人でやらなきゃいけない訳でも無いだろ!」
日頃腹の底へ蓄積させている怒りが、つい小爆発して声を荒げる。
「逃げろってんですか!? 冗談じゃない!」
「馬鹿野郎!」
青砥部長は腕の束が迫って来るのが見えているだろうに、真っ直ぐに私を見据えて怒鳴った。
「俺は男だ! 女を捨てて逃げねえ! そしてお前は、素晴らしい絵を描く! こんな所で死なれていい人間じゃない! 他の魔術師はお前のような才能があるか!? あると断言出来ないなら来い! 魔術師なんて閉ざされた世界だけで生きるな! お前が死んだら
余りの気迫に面食らう。
私はここまで、何かに熱中した事があっただろうか。命を懸けてまで、何かに没頭した日なんてあるか? すぐそこまで魔法使いが迫っているこの瞬間まで、自分の願いと誰かを思う気持ちのその両方を、諦めなかった試しがあったか? 何も手放さずに済むハッピーエンドを、心の底から信じ抜くなんて。
青砥部長を影が覆う。
私は背に迫る腕の束へ振り返りながら、左の拳を放った。束は木っ端微塵に輪郭を失い、私達を飲むように落としていた影も失せる。砕けた束は瓦礫の嵐となって、周囲のキャビネットや床を破壊しながら吹き飛んだ。粉塵が吹き荒ぶ室内から、全ての腕が失せる。
ここに青砥部長は置いておけない。この人一人の為に気を遣って戦うのは、他の〝患者〟を軽んじる事になる。逃げるのも駄目だ。敵前逃亡は街の魔術師が許さない。限り無く不死に近い身体に、災害のような膂力。知恵は人間レベルで魔術にも明るい。そんな奴が裏切る素振りを見せようものなら、最も払うべき脅威は魔法使いに代わって私となる。そもそもそんな立場なんかどうでもいいぐらい、私がここから離れるのは私が許さない。
私は首が落ちても平気だけれど、皆はそうはいかないじゃないか。簡単に死ぬ。誰だって。そういうものが本来なのかもしれないけれど、私は生まれた時からこんな身体だから分からない。病気になった事も無い。怪我をしたら痛いぐらいしか、寄り添える恐怖が無い。
だから私が戦う。私なら平気だし、人が傷付くのは見たくないから。
まだ感じる人の気配に、追い払おうと声を荒げて振り返る。
「……いつまでそこにいるんですか、早く行って下さい!」
早く逃したいだけで、怒っている訳ではないから心苦しかった。こんな状況でそう強烈に必要と言われたら、誰だって嬉しい。ただ私が一番欲しいものは、それではなかっただけ。
目が合ったのは美術館で会った時と同じ、私の顔を覗き込むように上体を倒した姿勢で、愛嬌たっぷりに笑う
「さっきは助けて下さってありがとうございました。
幻滅するような、ぞっとするような気分に襲われて、内臓が冷え切る感覚と共に覚る。
前提が間違っていた。今日動いている三人の魔法使いに見出すべき共通点は、裁さんではなく私だった。この三人の魔法使いは姿こそ見せないものの、全員私の側で魔法を使っている。そして、魔術師でも無ければ街の北側へ走って行った裁さんが、街の南端に位置する〝館〟にこのタイミングで現れる事が出来る方法はただ一つ。そしてその答えは、彼女がこんな危険な街に一人でやって来た理由の解明にも帰結する。
ぶよぶよマンを高架線へ追い詰めた時よりも、今し方腕の束を殴り飛ばした時よりも、彼女をコガネムシから逃がす時より遥かに速く、その仙姿玉質に相応しい姿へ殴りかかった私は、耐え切れなくなった衝動のままに咆哮した。
「お前が魔法使いか、裁!」
笑みを崩さない裁の肩越しに何かが飛び出し、右肩を打ち抜かれる。何かはそのまま部屋の奥へ疾走し、私ごとキャビネットを貫いた。何かは減速しながらも瓦礫を蹴散らしてまだ進み、何台目かも分からなくなったキャビネットの腹に刺さって止まると粉塵を噴き上げる。
押し込むようにキャビネットに叩き付けられた私は、右肩へ両手を伸ばした。腕の束と同じ灰色をした、丸木杭みたいなものを捉えて折ると投げ捨てる。キャビネットに縫い付けられていた身体が自由になり、右肩からビビットオレンジを流しながら落下した。
穴を開けられ立ち尽くすキャビネット群の向こうを一瞥する。毒々しい程愛嬌に満ちた笑みで本心を塗り潰した、裁と目が合った。
遥か頭上から落下音が急接近する。着地した私は間髪入れず、眼前のキャビネット群の穴を潜り抜けるように鋭く跳んだ。辺りに水玉模様の影を広げて迫っていた丸木杭の群れが、私がいた辺りを蜂の巣にする。
貫かれ瓦礫と化したキャビネットが両脇をすっ飛んで行くのを追い越して、一気に粉塵を突き抜ける。やっと明瞭さを取り戻した視界は、ぐらぐら揺れるシャンデリアの真下を捉えた。待ち構えていたように、ドア方向から丸木杭の群れが放たれる。
知った事じゃない。
視線を下ろした。ドア枠を背に私を見上げている裁は、まだ笑みを浮かべている。
気に障る。
気に障る。このままじゃ杭に串刺しにされる事なんかより、あいつが気に障る。そんなあいつに騙された私が気に障る。必死に心を殺して、なるべく正しくあろうと振る舞う私を、
怒りに呪われたように、組んだ両手を頭上へ振り上げ叫ぶ。
「その脳天ッ、杭ごとかち割ってや」
眼前に巨大な塊が立ちはだかった。
杭の群れでは無い。だが矢張り灰色をしたそれは、天井から逆さ吊りの姿勢で生え、左の棍棒を薙ごうとする大男の上体だった。
砂漠で深海魚を見たような強烈な違和感に、堪らず大男に釘付けになる。
「
最弱の魔法が何でこんな所に。
大男の棍棒に左半身を捉えられ、キャビネット群を破壊し壁を破ると、隣の部屋へ打ち落とされた。
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