28.ばけもののブルース
何でこんな所に。でも見間違いじゃない。肌身離さず持ち歩いてるスマホにぶら下がってるんだ毎日見てる。
でも何で、ネイルハンマーの中なんかに入ってるんだ。なら街に現れた四つの彫刻とは本当に、文字化け作家の作品? つまり文字化け作家の正体とは、今この場所にいる、魔法使い?
「ここから離れよう」
現れた小石をブレザーのポケットに押し込みながらテーブルを下り、裁さんへ振り返った。
雨で冷え切った外気が、割った窓から垂れ込める。吐いた息が白く失せるまでの数瞬に、考えを纏めた。
裁さんは魔法使いじゃない。殺す勢いで自分を攻撃する奴なんているものか。私を魔術師だと分かっているんだから、害を与えるなら私にだろう。
まだ
「館内の様子を見て来るから、裁さんは今の内に逃げて。取り合えず建物が頑丈だから、学校に向かったらいいよ」
すっかり私の血で汚れてしまった裁さんは、乱れた髪も直さずただ見開かれた目で、じっと凝視して来るも目が合わない。ショックで放心状態になってしまった?
「裁さん?」
少し語気を強めて呼びかけた。
すると裁さんははっとして、漸く視線が合うと口を開く。何か言おうとしているが、掠れた声しか漏らさない。
辺りを見渡しながら、足早に裁さんへ近付いた。明かりが落ちて薄暗い店内は、血の油分がぎらぎらとてかっているだけで生気が無い。
人の気配がしないが、魔法使いはどこだ? ネイルハンマーを壊されたから逃げた?
それにネイルハンマーが街に現れた四つの彫刻の一つなら、鉄村が異変に気付く筈だ。なのに連絡の一つも来ない。スマホの通知設定なら裁さんに学校の状況を教えて貰った際ONにしたのに。何かあったに違いない。早く地下展示室に行かないと。
まずは裁さんを立ち上がらせようと、彼女の腕へ右手を伸ばした。
すると呆然としていた裁さんは、こちらへ首を回しながら目を見張る。
「ひっ!?」
短い悲鳴を上げ、私の手を払い落とした。空っぽの店内に乾いた音が響き、今度は私が放心しそうになる。
……何で? この状況じゃなくて、私が怖いのか? ネイルハンマーならもう壊したのに。
払い落とされた音が尾を引いて消える中、どう反応すればいいのか分からなくて、強張った顔を向ける裁さんを見つめた。
ふと気付く。今朝、女性とぶよぶよマンの仲裁に入った際。あの時私に怯えた女性と今の裁さんは、同じ表情をしている。
すると裁さんは我に返って、今度は良心に押し潰されそうな顔になった。
「い、いえ、すみません、つい……」
裁さんはそこまで言って目を逸らすと、制服にかかった私の血を拭うように、震える手で制服を
……ああ。
その仕草で、漸く分かった。
血の色と言えば赤。だがそれは、全ての生物に当てはまる訳では無い。とは言えやっぱり、血と言えば赤だろう。
そんな当たり前の事が抜け落ちていた。私はそういう、人間なら当然持ち合わせている思い込みを、いつの間にか失っていた。いやそもそも最初から、身に付いていなかったのだ。私の血の色とは生まれた時から、それは鮮やかなビビットオレンジだから。だから今の裁さんは、オレンジジュースを被ったような姿になっている。
この色になった原因は父方の祖父。だが今は祖父を恨んでいる場合じゃないし、その経緯を裁さんに話している時間も無い。だから裁さんが怖いのは、そんな色の血を流している私なんだ。そんな奇怪な姿でありながら、当然のように手を差し伸べて来た私が恐ろしいんだ。
緊張で高ぶっていた気持ちが、どこかで冷めて、寂しくなっていく。
そりゃあそうだよな。幾ら見慣れた先輩でも、こんな血の色の奴、気持ち悪いよな。たとえ命の恩人であろうとも、そもそも人間と思えないんだから。
床が持ち上がった。窓際や壁際と言った縁を残すように天井まで膨れ上がると、爆弾でも仕掛けられたように砕け散る。
衝撃を纏って降り注ぐ床材とテーブルセットにぎょっとするもよろめく足を踏ん張らせ、裁さんに右腕を伸ばした。襟首を掴んで背へ引き寄せると、地下に続く大穴となった床の底から何か現れる。
水中に落とされたように息が止まった。
恐怖と嫌悪感に粟立って、見たくもないのに固定された目に飛び込んで来るのは。
天井を掠めそうな大きな身体。厚みが私の胴に迫る、古木のような六本の脚。それよりは一回り細い、
感情を持ち合わせているのか分からない目に捉えられ、恐怖で呼吸を取り戻す。
それは紛れも無く、鉄村が運んで来たコガネムシの彫刻だった。
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