05.ヒーロー合格?


 その隙に棘を引っ込めていた男は、左手の歩道へ跳んだ。大通りに面して立つ十二階建て雑居ビルへ風呂敷状に身を広げると、吸い込まれるように窓に貼り付く。そのまま重力に引きり落されるかと思いきや、緩みかけた身体は高速で波打ち、マジックマッシュルームで毛虫のようになりながら窓の上を駆け出した。


 いやもう我慢してたけれど、ビジュアルと言い動きがキモ過ぎる。ぶよぶよマンって呼ぶぞ。奴の進行方向は……。三分置きに電車がやって来る、あの巨大な駅?


 いやそこでもし何かあったら道路破壊以上にまずい!


 思わず両手で頭上に持ち上げていたアスファルト塊を、元の場所にめ込んでから男を追う。


 加速しながらビルの窓を行く男は、キノコの隙間から私を見たのだろう。走る身体から触手のような腕が一本伸びて、丁度ちょうど男を遮る格好になっていたビルの看板を引き千切った。そいつを躊躇ためらい無く、車道の真ん中を走る私へ投げる。


 ふと考えがぎった。このまま、男を捕まえる事を最優先として街の被害を拡大させるのと、街への被害を抑える余り奴を逃がしてしまうのは、どちらが問われる責任が重いだろう。


 そりゃあ逃がす方がまずい。道路に穴が開き、ビルにも被害が出た以上、何らかの成果を上げないと世間が許さない。正義の味方と言ったって、違法魔術という厄介なものも生んだ魔術師だ。世間体には常に細心の注意を払うものだし、これ以上恥を晒すような真似は魔術師同士でも厳しい目を向けられる。


 でも私は世間体以前に、間違っている事は許せない。そもそも私がこの件に首を突っ込んだ理由は、女性に手を上げる輩を許せなかったからだし、大体私より先にあの男に気付いていた人なんて幾らでもいたのに、どいつもこいつも見て見ぬ振りをして、通り過ぎてったからだ。チラシ配りの女性という困っている人も、確かにその目に映ってたのに。


 そんな身勝手な腰抜け共を、一般人イッパンジンという、あたかも無害なカテゴリにくくり上げて守らなきゃいけないこの苛立ちが、お前に分かるか。キノコ野郎。車道からお前を追ってたのも、お前の攻撃対象である私が歩道に入って、歩行者に被害が及ぶのを防ぐ為だ。違法魔術使用者を追っている真っ最中だと言うのにこの配慮。魔術師の鑑だろう? そうまでして守ろうとしてる奴らとは、見過ごしはする上に警察は呼ばず、助けに入った私は無断撮影し続けているような、お前以上のクソッタレ共だけどなあ!


「いい加減にしろよお前ら!」


 って言えたらどれだけ楽か!


 眼前に迫る看板を蹴り返す。蹴りを浴びた看板はV字に潰れ、先の左ストレートを優に超える速度で豪雨を切り裂き男に直撃した。靴底に貼り付くガムのようにべったりと窓に貼り付いていた男の身体は、嘘みたいに綺麗にがれ落ちる。


 私は男の真下にいる通行人と野次馬が喚くより速く、男の落下点へ到達した。濡れて纏わり付く髪を掻き上げたい欲求をこらえ、空を見上げる。蹴り返した看板と男の影が、広がりながら歩道へ迫った。このまま落とすまいと、先に落下して来る看板を掴んで男を駅方向へぶん殴る。高架線へ吹き飛ばされて行く男を追おうと、用済みになった看板を足元に置きつつ跳んだ。


 やっと反応が追い付いた野次馬と通行人が、金切り声を上げる。だがもう、遥か遠ざかった私には聞こえない。


 空を疾走する紙屑のようになった男は、剥がれていくキノコを撒き散らす全身から触手を伸ばした。今、まさに走り去ろうとする電車の最後尾車両に貼り付いて逃れるべく、引きれる程全ての触手を伸張させる。


 キィキィと金属的な男の鳴き声が、自身の鼓膜さえ裂くような叫喚を上げた。記録に挑むアスリートのようには決して見えない、ただ生存を賭けた、本能的で後ろ汚い咆哮。


 ……いや、生物としてなら、百点満点の絶叫か。


 だって生き物って自分が快適に生きていけるなら、それでいいんだから。


 先の跳躍でっくに男の背後に迫っていた私は、男の背に、左の足裏を押し付ける。踏み付けられた男はその感触からか、私への恐怖からか、あれだけ命懸けのように伸ばしていた触手を、呆気無く縮こませた。


 たったそれだけの光景が、酷く虚しく、目に焼き付く。


 男はくうを掻く無数の触手を引き連れ、誰もいなくなった線路上に叩き付けられた。雨水が絡んで黒ずんだバラストが打ち上がるも、線路からは落下しない。本当なら蹴り飛ばしてやりたい所をこらえ、スタンプのように男の背を押すだけに左足の力を加減してある。


 だらりと触手を広げ、萎れたゴムボールのように伸びた男は、その身をやっと、人の形に戻した。戻したも何も、これは違法魔術の副作用に過ぎないので、男が任意でやっている訳では無いのだが。肉体的か精神的に弱らせれば、早く治まる事が多い。蹴ったり殴ったりしていたのはその為だ。


 大立ち回りに押し退けられていた雨の匂いと音が、漸く意識に戻って来る。化け物みたいな男をボコボコにして高架線上に立っておきながら、髪や顎から滴る雨水が鬱陶しいなんて一般人イッパンジンみたいな事を考えつつ、男の背から左足を上げた。


 左手で男のジャージの襟首を掴む。そのまま男の顔をこちらに向かせると、目の高さが合うよう持ち上げた。男は微かに意識が残っているようで、締まりの無い顔でこちらを見ている。


 その間抜け面を、じいっと、見た。


 ここならこいつを思い切りぶん殴っても、誰にも見つからなかったりするんだろうか。


 いや、確かに野次馬や通行人の視界からは逃れたけれど、辺りはビル群だ。誰が見下ろしているか分からない。……でもここが路地裏だったなら、本当に分からないんだろうな。


 冷え切った目をする私に、男は怯えるように呻いた。恐怖心が意識を覚醒させたのか、ぼうっとしていた目に力が宿って、鈍臭く泳ぎ出す。


 殴られると思ってるんだろう。確かに本当ならそうしたいし、お前の貧相な脳味噌では想像出来ないような、惨たらしい仕打ちだって用意出来る。お前の相手をした所為でずぶ濡れになったこの不快感だけで、一体何本骨を折ってやれるか。加減しているだけで、我慢しているだけで、この通り私とはお前を、容易に殺せてしまうんだから。


 まあ、そんな事は出来ないんだけれど。


 魔術師だからとかじゃなくて、人として。


 それは殴り甲斐のある顔で泣き出す男に、負け惜しみみたく、歯を覗かせて苦笑した。


 私の願いは、今日も救えていない友人を苦しめる魔法使いへの、復讐だってのに。


「……命は平等らしいぜ。最高だろ?」



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