第6.9話 救いの少年
小学三年の頃、私は彼と出会った。
当時の私は周りから『お金持ち』という理由で嫌われていた。主に靴を破損させられたり、給食の班ではぶかれたりと。
最初は苦痛で苦痛で仕方なかった。胸に何本もの釘を叩き込まれたように痛くて、辛くて。
でも日に日にその習慣が身体に馴染慣れてきて、深刻な気持ちは解消とは言えないが、前に比べればそれほど思い詰めるものでもなくなっていた。
だから私は「このまま生きていこう」そう、自分に言い聞かせながら毎日を過ごしていたのを懸命に覚えている。
だが、そんな希望もない決心に固めた気持ちをきっぱり晴らしてくれた少年が私の前に現れた。
それは放課後に、校庭の砂場で一人遊んでいた頃だったか。
「キャハハ! なにその髪! きたなーい」
「んねんね! きたないから動かないで?」
いつも嫌がらせをしてくる女子二人に、私は頭上から砂を振りかけられた。
「⋯⋯」
ケラケラ嘲笑う憎たらしい笑い声を聞きながら、顔を屈め黙りこくる。
「なに、泣いちゃった? それはごめーん」
「もー泣かせちゃダメだよ〜まぁでもこいつならいいっしょ。どうせ守る奴なんていないし」
「そうね」
「早く立ち去ってくれないかな」とだけ思い、じっと身体を固め、頭から流れ落ちてくる砂を黙々と眺める。
すると、片方が徐に口を開いた。
「ねぇ、なんでもいいから言って? 反応ないとつまんないんだけど⋯⋯?」
飽き飽きそうに言い、私の顔を覗き込むようにしてしゃがみこむ。
「反応ないとつまらない」て言われても⋯⋯と怪訝に思い詰めていると、彼女は砂を手に取り、再び私の頭に砂を流した。
「ほら、なんか言ったらどお——」
自信に満ち溢れた言い方をして、じわじわと頭に砂を垂れ流す。
次第に苛つきと悔しさが心中を埋め尽くし、我慢の限界で彼女の右手を振り払って。
「⋯⋯ッ!」
「きゃ!」
左手いっぱいに溜めた砂を彼女の腹立たしい顔に向けて振りかけた。
「あ、あぁ⋯⋯」
横にいたもう一人は愕然として佇む。
掛けてやった方は顔についた砂を拭いで、ペッペと口の中の砂を吐き、狂気に満ちた眼差しを向けてきた。
「何かしら?」
気にせず声を掛ける。
「あんた、何したかわかってるの?」
「今さっきあなた達がやってきたことをそのまま返しただけだけど?」
私がそう言うと、彼女はふんっと鼻で笑い、拭っていた手を止めた。
「まだいじめ足りなかったようね⋯⋯」
「やれるもんならやってみなさいよ」
尽かさず言ったところで、彼女はわー! っと勢いよく拳を作り走り込んできた。
彼女の手が後数センチ程度であたりそうなところで、遠くの方から弱々しい叫び声が聞こえた。
「ま、待て! はぁはぁ⋯⋯君たち!」
こちらに走り向かってくる一人の男の子。
「誰よ、あんた」
男の子に対し、彼女はくいっと視線を向け不審そうに尋ねる。
「ぼ、僕のことはどうでもいい! で、で、でもそこにいる砂まみれの女の子に手は出しちゃダメだよ!」
彼女の問いに男の子は答えず、私を庇うようなことを言い放ち、ぴたりと横で足を止めた。
その返答に、彼女はふんっと失笑して、再び拳を固め腕を翳す。
「何、こいつを殴ったところであんたに何かあるの? 別にないでしょ?」
「⋯⋯な、なくない⋯⋯」
「は?」
「だから、なくない⋯⋯!」
徐々に声量が大きくなるにつれ、校庭に男の子の声が響き渡る。
「じゃあ何、こいつを守ってどうなるか言ってみなさいよ?」
「⋯⋯」
「ほら、何も言えないじゃない」
「⋯⋯うるさい」
「ん、なに」
「うるさいって言ってるんだ! これ以上口開いたら『先生にこのこと全部言うぞ!』」
「⋯⋯ッう」
そう男の子が強気で言うと、彼女の固めていた拳が微かに緩んだ。
幼稚らしい理由ではあるが、どうやら彼女には効いたらしい。
「も、もうここらへんにしとこうよ?」
黙り突っ立ってたもう一人が、彼女の肩に手を置いて震え気味に呟く。
「そ、そうね⋯⋯」
対して、彼女もうんと頷き諦めたようで、二人はそのまま学校の門を抜けた。
「大丈夫? そんなに砂被って⋯⋯」
校庭の砂場で二人になると、男の子は心配そうな表情を浮かべて、私の頭に乗っかった砂を払ってくれた。
「ありがとう、ね」
「いやいやこのくらい⋯⋯」
お礼を言うと、少し照れくさそうに男の子は首を振った。
頭の砂が取れたようで、男の子は手を下げて、尋ねてくる。
「きみ、名前は?」
「結愛⋯⋯あなたは?」
「律紀って名前だよ。よろしくね、結愛さん」
「こちらこそ」
ペコリと小さく頭を下げながら、ぱんぱん服を払って立ち上がると、律紀は不思議そうに小首を傾げ聞いてきた。
「それよりなんで砂かけられたの? 喧嘩?」
「まぁそんなところよ」
「そっかぁ。あ、でも君も砂かけたでしょ?」
「あっちが最初にやってきたんだからやり返して何が悪いの?」
私がさらりと答えると、律紀はぷくっと口に空気を溜めて、眉間に小さなしわを寄せた。
「だめだよ! それじゃあ結愛さんもあの人たちと同等じゃん!」
「同等? どう言うこと?」
「だって砂をかけられたから砂をかけ返す、結局結愛さんも相手が嫌がることしちゃってるもん!」
「⋯⋯仕方ないじゃない。腹立ったんだから」
「でも同じことしちゃダメだよ! 腹が立っても手は出しちゃだめ!」
「わ、わかったわよ⋯⋯」
家族にでさえ、こんなに人から叱られることなんて今までなかった。
何故律紀はこんなにも私を叱るの? 何故庇うようなことをしたの? 何故私を嫌わないの? なんで、なんで⋯⋯。
生まれてきて一度も味わったことのない気持ち。重苦しくて、でもどこかほっと安心できて。
「あな、律紀は、私と友達になってくれる?」
「急に私何言ってんだろ」と内心焦っていると、律紀は一瞬んーと斜め上らへんに視線を向け悩んでからのっそり返答した。
「まぁ、僕でいいならだけど⋯⋯」
どこか照れ臭混じりに言い、赤らめたほっぺを指で浅く掻く。
へへと微笑する律紀の顔を見ながら、さらに質問を畳み掛けた。
「じゃあ、さ⋯⋯ずっと私のそばにいてくれるってこと?」
「うーん、まぁ友達だからね」
変わらず律紀は躊躇なく答える。
『友達』という言葉が、今の私にとってどのくらい響き、幸いな言葉か。それを律紀は知らないのが悔しいのを堪えながら、今一番聞いてみたかったことを口にする。
「それじゃあ、また私がいけないことしそうになったら——」
じわじわ喉仏から広がっていく熱を感じながら、冷めさせるかのようにごくりと少量の唾を飲み込み、声を振り絞り言葉を続ける。
「律紀は私を止めて、守ってくれる?」
言い切ると、先ほどまでの恥じらいかで真っ赤に染め上げられていた律紀の頬は、首根と同じ色着に変わり、暖かな笑顔を浮かべて。
「もちろん!」
とだけ言葉を発した。
「ほんと⋯⋯?」
薄ら目を細めて訝しみながら聞いてみても、迷う暇もなくずばっと律紀は返答してきた。
「うん! 友達だったら当然だよ」
「友達⋯⋯」
「って言っても、僕友達いないんだけどね⋯⋯」
「⋯⋯何よ、それ」
小馬鹿そうな言いっぷりに、くすっと鼻から息が漏れて、つい失笑してしまう。
釣られてなのか、律紀も続けてあははと笑った。
「あ、そろそろ帰らなくちゃ」
数秒後、ふっと何かに気づいた様子で律紀が口を開いた。
「そうね、もう遅い時間ね」
「じゃあ僕帰るね」
「⋯⋯わかったわ」
「ばいばい結愛さん! また学校で!」
「うん、また⋯⋯」
ぽそりと頷いては呟き、校門へ走り向かっていく律紀の後ろ姿を見送るかように眺める。
すると、律紀は足を止めずに、ひょいっとこちらに上半身だけを曲げて、大雑把に手を振り翳した。
対して、見てて無視は流石にと思い、仕方ないとばかりに肩幅らへんで小さく手を振りかえす。
そしてあっという間に律紀は門を抜け、去っていった。
夕日色に染め上げられた校庭の砂場で一人、ふっと腕を下ろして、今日のことを忘れないよう胸に刻みこんで、その日は終わった。
それからのこと、律紀と出会ったその日から私達は毎日のように学校が終わった後、頻繁に遊ぶようになった。
公園でブランコや滑り台といった遊具での遊び。二人だけなのにかくれんぼや鬼ごっこと。いろんな場所に行っていろんなことをしてはしゃぎ、遊んだ。
毎日が楽しくて、幸せで⋯⋯。律紀と出会ってからいろんなことを知り、またいろんな感情や気持ちを覚えた。
だがそのせいでもあるのか、当時の私はその日その日に満足しすぎたのだろう、『楽しい時間はすぐになくなる』ということを知らず、それは突然訪れた。
「一旦この地を去って、他のとこに一時的に引っ越しするぞ」
急遽、父が夕食時に母と私に告げた。
母は特に思うことのなさそうに食事を続けていたが、私はすぐさま否定した。
けど、最終的に。
「わかった⋯⋯」
と、頷くことしかできなかった。
家族を養ってる人の言うことは従わないといけない。そうしなければ私はただ飢え死にするだけ⋯⋯だから父の言うことに嫌々賛成せざるおえなかった。
父のその話を告げられたから約三ヶ月後に、我が家は引っ越しすることが決まった。
残りの三ヶ月、律紀に引っ越しすることを伝えた方が良いのか否かで悩みに悩みながら学校に通い続ける。
そして、あっという間に引っ越しの前日へと突入してしまった。
「もーこんな時間か」
公園の中央に佇む時計台を見て律紀は呟いた。
「そうね⋯⋯もう五時」
すっと時計台に目をやり時刻を確認する。
先ほど遊んでいたブランコのキィキィ鉄が擦れる音に交えながら、律紀が不満足そうな声音で喋った。
「あーあぁ。いっつも結愛さんと遊ぶと時間経つの早いー。もっと遊びたいけど門限あるからなぁ〜」
「門限は守らないと。暗くなったら知らない人に連れ去られちゃうよ?」
「そーだけど、遊び足りないよな〜」
拗ねたように言い、足元の石ころを軽く蹴り飛ばす律紀。
「でも私結構疲れるのだけれど? 律紀体力ありすぎなのよ」
「いや、僕そんなに体力ないよ? 結愛さんがなさすぎるだけじゃない?」
「え⋯⋯そうかな」
と、疑問に思いつつ、腑抜けた溜息が口から漏れた。
数秒沈黙の間があり、ふっとそろそろ『例の事情』を伝えなければと、ベンチに座りながら私は徐に口を開き始める。
「ね、ねぇ律紀⋯⋯」
「ん?」
何気なさそうに小首を傾げる律紀に、不安からなのか、どうしても視線を逸らしてしまい、一瞬言葉を見失ってしまった。
言わなければいけない、引っ越しすることを。それは決心してるし、しっかりけじめもつけている。
薄暗い道を彷徨っていた私に唯一手を差し伸べてくれて、救ってくれた律紀だからこそ、伝えなくてはいけない。
「その⋯⋯」
けど。わからなかった。
どういう表情をすればいいのか、どう話しかければいいのか、どう⋯⋯律紀を傷つけずに伝えられるかが。
それに「律紀なら心配してくれる」、そう心の片隅で思ってしまう自分がいる。
自意識過剰だと言うことは重々自覚している。でもこの際それでもいい。だから、この苦しい気持ちをまた律紀に救ってほしい⋯⋯という願望のような気持ちもどこかにあった。
「えっと⋯⋯だから⋯⋯」
でも——。
「⋯⋯やっぱなんでもない。かえりましょっか」
無理だった。
律紀に伝えることも⋯⋯また律紀が私を救ってくれることも⋯⋯。
「え、あ、うん」
困惑そうに律紀は頷いた。
「じゃあ、先に帰るわね。さようなら⋯⋯律紀」
「わ、わかった。またね」
それ以上言葉をかけることもなく、そのまま私は走って公園を去った。
これが正しい選択だったのか、悔いはないのか。そう思い詰めながら、律紀と出会った町から何も言えずに離れた。
それから二週間ほど経ち、引っ越しが終わって、新しい学校にも転校することになった。
前いた学校とは違い、転校先の学校はみんな人付き合いがよくすぐに友達もでき、前よりかは学校生活が物凄く楽で楽しく感じた。
だが、どんなに楽しくとも、やはり律紀の事だけは中学に上がっても忘れられなかった。
今でも怒っているのだろうか。そういう不安がいつも心の片隅に必ずある。
自ら生んでしまった罪悪感で固められた負の感情。無理矢理消し去ろうとも、それは難題であり不可能に近かった。
もう私自身ではどうしようもできない⋯⋯いつしかそんなふうに諦めきって、気づけば中学を卒業し、高校に入学していた。
同じ中学だった人はあまりいなく、また一からの始まり。
特に人間関係のトラブルや問題はなく、中学にいた頃を度々思い出されるくらい充実した高校生活を送っていた。
そして入学して数週間ほどだろうか。
「めんどくさいな〜音楽の授業」
「そうだね」
廊下を友人である春奈と歩いていると、春奈が横で小言を口に出し、それに相槌をする。
「それよりさ〜結愛好きな人いた〜? この学校に」
にんまりと妙なことを問いかけてくる春奈。
対し、一回悩む素振りをして適当に答える。
「んーいないかな」
「え〜嘘つけ〜。結愛もうモテモテじゃん」
「本当にいないよー」
「またそうやって意地はって〜きゃわいいでちゅね〜結愛ちゃん〜」
「いや、ほんとにいないって——」
その時だった。
向かいから歩いてきた人と肩がぶつかってしまった。
「あ、すいません」
「いえいえ、こちらこそすいません」
即座に謝ると、相手の男の人もぺこりと謝り返してきた。
ぱっと見冴えない容姿をしているが、根は優しそうな人。
どこか親近感があるような、ないような⋯⋯。
「あ、あのどうかしました?」
「⋯⋯へ」
ついまじまじ見つめてしまい、変な声を漏らす。
すると、男の人は不思議とくすっと笑った。
そこで私は男の人をまた見ては目を丸め、持っていた音楽バッグを落としてしまった。
「ん?」
「あ、あなた⋯⋯」
今の笑い方といい、ぼさついた髪といい、覇気のない声といい⋯⋯まさかこの男の人。
「な、なんですか?」
「いえ、ごめんなさい⋯⋯そろそろ行きましょ⋯⋯」
「っふぇ⋯⋯?」
強引に春奈の腕を引き、おちあバッグもとって、すみやかにその場から離れ、廊下を駆けた。
今の人、絶対にそう。
見間違いじゃない。あの男の人⋯⋯律紀だ。
「ゆ、結愛? どうかした?」
「⋯⋯あ、ごめん」
春奈の腕を引っ張ってたことすら忘れてしまい、すぐさま手を離す。
「ま、まさか! あの人、結愛が好きな人だったり⁉︎」
「⋯⋯違うよ」
ごめん春奈。今はそんな女子トークなんかできるほどの気力なんかない。
今はあの人が律紀か律紀じゃないのかが気になる。この目で確かめないとまたあの頃を思い出しちゃう⋯⋯。
過去に起きたことを起こさないよにと、私は放課後に彼の教室に行き、教卓に置かれた名簿に目を通した。
そしてそこには確かに。
『楪律紀』
と記されていた。
名字も名前も、過去に出会った彼と全く同じ。素朴な容姿も、あの地味で根暗そうな声も⋯⋯。
一生会えないと思ってた彼と、数十年ぶりに再開することができた。
それだけで、私は胸いっぱいになり、名簿に書かれた律紀の名前を撫でるようになぞりながら、ポロポロと涙を流していた。
こんな奇跡のようなことがあるんだ、と思い感じて。
翌日から私は律紀の様子を伺い始めた。何度か顔合わせ話かけてみるも、律紀は私を結愛だと気づかず、昔のような振る舞いもしてはこなかった。
「結愛だとということを公言しよう」と思ったが、結局勇気が出ず、あっというまに高校二年に上がり、少しでもそばに居ようと、律紀の入っている『新聞部』へと私は入部した。
あの時、あの頃は言えなかった。
不安だらけで。
でもだからこそ二度と後悔しないよう、次こそは言おう⋯⋯そう、私は思いながら、小春ちゃんのいる教室へと向かった。
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