龍のぼる坂に幸せの橋
三月十八日
「じゃあ行ってきます。帰りにジャム、買ってくればいいんだよね?」
そう声をかけると、隆一くんはろくにこっちを振り向きもせずひらひら手を振ってみせた。一昨日その薬指の先にべったりとついた青の油絵具が、少し薄れた色になって揺れていた。
大きめの窓のおかげで安い家賃のわりには陽当たりがよくて、晴れた日は電灯をつけなくても明るいこの部屋を、ぼくも隆一くんもおおいに気に入っている。とくに隆一くんは窓際が落ち着くと言って日がな一日そこにいることもしばしばだ。
隆一くんとはお互いが大学二年生のころに知り合った。当時、ぼくは二番目の兄が通う美術大学へ学祭をひやかしに来ていて、その広大な敷地内をうろついているうちに、おそらく中庭だろう静まりかえった場所に迷い込んだのだ。そこへ声をかけてきたのが、大きなキャンバスを抱えた男子学生——与野井隆一くんだった。
『ここに屋台はないけど。』
彼は長髪を雑にくくって、足にはゴム草履をつっかけた姿で立っていた。ぶっきらぼうなその物言いの奥に、どこかあたたかい色があるような、そんな気がしたのを覚えている。
ずいぶん履き古した靴にかかとを押し込み、ドアノブに手をかけたとき、窓辺でキャンバスと向き合っていた隆一くんが「ああ」とつぶやき、指を差しながらずんずんとこっちに歩いてきた。
「やっぱり豆腐も買っといて。」
「明日でいいって言ってたじゃん。」
「麻婆豆腐作ってやるからさあ。」
隆一くんは気まぐれに夕飯を作ってくれることがある。それがまた器用な彼らしくとてもおいしいのだった。わかったよと言うと彼は満足そうに頷いて、また部屋の奥へ戻っていった。
行ってきます、ともう一度言ってドアを開けると、すぐ足元になにかが落ちていた。あれっと思い拾い上げてみるとそれは小さな帽子で、内側にひらがなで『ほりの るみ』と書いてある。落とし主はと見渡すまでもなく、二つ結びの女の子があわてた様子でこちらに駆け寄ってこようとしていた。
「はい、……ルミちゃん。かわいい名前だね。」
その子は、手渡した帽子を戸惑ったような顔でおそるおそる受け取り、視線を焦らせながらもそっと上目遣いにぼくを見た。そういえばもう近所の小学校で卒業式をやるような時期だったかとふと考えたとき、心細げな声がお礼の言葉を言った。
「あ、ありがとうございます、与野井さん。」
一瞬、どうして隆一くんの苗字を呼んだのかと不思議に思って、けれどすぐに彼女の視線の向く先を振り返ってみて表札に気づいた。ぼくは与野井じゃないよ、なんてわざわざ言うのもおかしい気がして、うん、どういたしまして、と応える。
腕にはめた時計へ視線を移すともう結構いい時間になっていた。それじゃあねと最後に軽く手を振って、ぼくはアルバイト先の古本屋に急いだ。少しいいことをしたように気分は弾んでいた。
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