第5話 2025年8月

 イクサ🔫  1発

 8月1日

 春田の会社がハッキングに遭った。朝霧は丸亀に飛んだ。春田はハルタ工業って会社を立ち上げた。

 レーロルって車が勝手に動いてしまったようだ。レーロルは危機を察知するとクラクションが鳴り、勝手に停まる。ウィンカーも勝手に点灯するのだ。

 工場は丸亀城のすぐ近くにある。丸亀駅からは徒歩10分だ。内堀から天守へ向け4層に重ねられた総高約60mの石垣は、『扇の勾配』と称される。三の丸広場の月見櫓跡からの飯野山を望む絶景は素晴らしい。

 午前11時、朝霧は工場にやって来た。

「誰かに恨まれたとか?覚えはありませんか?」

 応接室で朝霧は城を眺めながら、春田に尋ねた。

「もしかしたら、愛媛の連中の仕業かも知れん」

 今や県外に製品を流出することは出来なくなった。レーロルは香川県内でしか手に入らなくなった。愛媛は自動車工場に核ミサイルが落とされたせいで生産がストップしていた。

 木下國義きのしたくによしって宇和島の怖いもの知らずが北朝鮮で槍を振り回して、多くの人間を血祭りに上げたのだ。

 日本国外務省は北朝鮮の核実験・ミサイル発射実験に対する制裁措置の一環として、日本国民の北朝鮮へ渡航を自粛するよう求めている。 しかし、北朝鮮側は外貨獲得のために日本人を含む多くの諸外国人観光客を広く受け入れており、日本語を話すガイドも存在している。また、日本人向けに北朝鮮旅行を専門に取り扱う旅行社も存在する。

 武器とか持ち込みできないので、現地の森で木で槍を作り31人を殺した。

「ともかく、ハッカーを見つけ出して血祭りにあげてほしい」

「警察に相談するのではダメなんですか?」

 春田は首を横に振った。

「我慢の限界です」

 春田は朝霧に5万を支払った。断るわけにはいかなかった。  

「ハルさんの依頼なら断るわけにはいきませんね」


 午後1時、朝霧は丸亀駅近くの軽食屋に入った。鬼頭が待っていた。彼は別件があったので遅れて四国にやって来た。朝霧はミートソースパスタ、鬼頭はカレーライスを頼んだ。

「それにしても暑いなぁ……」

 朝霧は夏が大嫌いだ。冷房がほどよく効いている。

「夏ですからねぇ」

 鬼頭は上はアロハシャツ、下は麻ズボンと涼しそうなファッションをしている。

「ホシはフェイスブックやツイッターを使ってコンピューターを攻撃したのかな……」

 鬼頭が食事の前に頼んだカフェオレを飲んで言った。 

「そんなことが出来るのか?」

「出来ないことはありませんよ。どこかでパスワードが漏れたんでしょうね。きっと稚拙なパスワードだったんだろうな?」

「なるほどな」

「直接聞き出したことも考えられるな。例えば、社長だと嘘をついてパスワードを教えないと、権力を使ってクビにするとでも脅す」

「しかし、次から次へとよく思いつくな?」

 朝霧は感心していた。そりゃそうだ、鬼頭はハッカーをしていたことがあるんだから。

「いや、それほどでも〜。廃棄されたパソコンから盗まれたってこともあるな。例えば中古ショップの店員がやったとか。1番いい廃棄方法は水没させちまうことですよ」

 鬼頭は友人、蹴上光太郎けあげこうたろうの家でパソコンのパスワードと暗証番号を手に入れたことがある。鬼頭も蹴上もゲームクリエイターを目指していてクリエイター養成学校に通っていた。鬼頭はクリエイターになったが、蹴上は無職だった。蹴上が寝静まったのを確かめて総当たり法を用いた。パスワードである可能性のある語群を全て試すのだ。

 蹴上のログオンパスワードは8桁だった。

 蹴上は鬼滅の刃の大ファンだった。KAMADOTA ……NG。KIMETUNO……NG。KIBUTUZI……OK。

 蹴上のパソコンには様々なゲームがダウンロードされた。チェスや麻雀、カジノゲームなど。 

 ビールを飲みながらゲームで遊んだ。

 さらにすごいことが分かった。鬼頭は一時期、ゲーム会社『ラグナロク』でプランナーとして働いていたが、何者かが鬼頭になりすまして、『社長を殺す』とか『会社を爆破する』など犯行予告を会社のホームページに送っていたのだ。海外ではなりすまし犯のことをナマズと呼んだりしてる。ナマズの正体は蹴上だったのだ。

 鬼頭は目を覚ました蹴上の胸ぐらを掴んで、『俺に何の恨みがあるんだ!?』と脅した。

『何のことだ?』と、目をギョロッとさせながらおののいていた。

『おまえが俺になりすましていたんだな!?』

『人のパソコン勝手に見やがって!』

『おまえのせいでクビになっちまったじゃねーか!どうしてくれるんだよ!?』

『僕もあの会社目指していたんだ、君がいなくなれば採用される可能性も出てくるだろ?』

「鬼頭、ボ〜っとしてるが大丈夫か?」

 朝霧の声がしたので鬼頭は回想をやめた。

「きっと暑さのせいですよ」

 上戸彩に似たウェイターが注文していたメニューをおぼんに載せて現れた。

「お待ちどうさまです」🍛🍝

 鬼頭はカレーを食べながら考えた。

 ひと昔前の金融機関ではトークンと呼ばれるパスワード発生機を利用者に配布する方法を使っていた。これであれば、使い捨てパスワードをいちいちその場で作る手間がかからず、正確なパスワードが作れる。スマホやケータイにインストールして使うソフトウエアタイプもあった。 

 辞書攻撃された可能性もある。

 辞書攻撃の辞書とは、文字通りの辞書(この場合、主に英語の)で、これに載っている単語を、パスワード等を知るために、片っ端から入力して行き、対象のコンピュータが、どのような反応を示すかを調べ、件のコンピュータに施されたパスワードを知る事ができる。なお辞書と言っても大抵はコンピュータプログラムで利用し易いよう、単語のみが羅列してあるファイルである。


 この、一見すると自転車などに使うダイヤル錠を外すのに、0000 - 9999の全ての組み合わせを試すような非常に不毛な手法は、簡単なプログラムによって自動化するのも容易なため、ウェブページ改竄を目的とした技術程度の低いクラッカーが、サーバへ侵入する時などに良く試す方法の一つである。これは時間は確実に掛かるが、完全に失敗するという事が、比較的少ない。


 ブルートフォースアタック(総当たり法)では、辞書そのものを使うよりも更に時間は掛かるが、より確実に結果がでる可能性が高い。同様の手法で、書庫ファイルに施されたパスワードを調べるソフトウェアも存在する。

 

 ロギングって呼ばれる方法もある。押されたキーを全て記録しておくソフトを作るやり方で、発想としては極めて単純だ。押されたキーを全て覚えているわけだから、銀行の口座番号、暗証番号、クレジットカード番号、愛人の名前など押したものは全てダダ漏れになる。この手のソフトウェアを作成することはとても簡単で、朝霧でさえ1ヶ月もあれば作れるようになる。


 総当たり法への対策は長くて複雑で推測しにくいパスワードをコロコロ変えつつ使ったり、何回もパスワード入力を間違えたら、そのIDをロックして使えないようにする。

 辞書攻撃への対策は意味のある言葉、自分にまつわる情報をパスワードにしない。

 ロギングへの対策は共用のパソコンで重要な情報を取り扱わない、ソフトウェアキーボードを使うなどといったことが必要だ。

 

 夜は坂出さかいでの瀬戸大橋を臨む宿に泊まった。坂出はかつては塩業で栄えた。

 展望風呂からは市内の夜景が一望出来る。露天風呂はヌメリ気のあるアルカリ泉だ。夕食は会席料理で、海の幸を堪能した。

 朝霧には壮大な計画があった。全国のインスタントラーメンを食べ尽くすってことだ。東北の中華そば、西日本のちゃんぽん、北海道のダブルラーメン、沖縄の沖縄そば、九州の玉ちゃんぽん。あ〜腹が減ってきた。

 最近、アメリカでモスマンって怪人が現れたらしい。そいつはポルターガイストを起こすって話だ。

 

 8月5日

 朝霧は丸亀駅前の猪熊弦一郎いのくまげんいちろう現代美術館にやって来た。ゲートプラザ前には巨大なオブジェがある。

 そこで、明石全登あかしてるずみって男と遭遇した。備前国保木城主の明石行雄(景親)の子として誕生。生年を知る確実な史料は存在しないが、小川博毅は永禄12年(1569年)前後に保木城で生まれた可能性が高いとする。備前明石氏(美作明石氏)は赤松氏の末裔(守護大名赤松円心の次男・赤松貞範の子孫)であり、銅山経営者、技術統率者の側面を持つ一族である。


 行雄は、天神山城主の浦上宗景の家臣であったが、天正3年(1575年)9月の浦上氏滅亡の際には宇喜多直家に呼応して寝返り、以後、宇喜多家に帰属することになった。行雄は弟の景行と共に、直家とその子の宇喜多秀家に仕えて天正16年(1588年)に諸大夫(従五位下)、4万石の知行までになった。行雄の嫡子・全登も行雄が存命中の文禄5年(1597年)4月以前にその跡を継いで、和気郡(現備前市吉永町)大俣城(大股城)の城主・家老となったが、領国経営には携わっていない。


 慶長4年(1599年)、お家騒動(宇喜多騒動)が起こって、家宰(執政)の長船綱直が殺害されると、関与した4人の重臣(戸川達安・宇喜多詮家(坂崎直盛)・岡貞綱・花房正成)が出奔したため、全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切った。当初、3万3,110石の知行だったが、秀家の岳父である太閤・豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、併せて10万石取りとなった。


 慶長5年(1600年)、徳川家康と対立していた石田三成が挙兵すると、全登は宇喜多秀家に従って出陣し、石田方の西軍に与すると7月から8月にかけて伏見城を攻略(伏見城の戦い)。9月14日の杭瀬川の戦いでは、中村一栄をまず撃ち破って前哨戦を勝利し、9月15日の関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢1万7,000のうちの8,000名を率いて先鋒を務めた。宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したが、小早川秀秋の裏切りをきっかけとして敗戦。全登は、斬り死にしようとした主君・秀家を諫めて大坂城へ退くように進言し、殿軍を務めた。西軍敗走の際に黒田長政に遭遇したという記述がある。


 戦後、岡山城に退くが、城は既に荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔。


 宇喜多氏が没落し浪人となった全登は、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田如水の下で庇護されたといわれている。中でも、如水の弟で熱心なキリシタンであった黒田直之が全登を匿ったとされている。如水の死後、息子の黒田長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩の田中忠政を頼ったとされている。ただしこの時期の消息については諸説ある。


 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が起こると信仰上の問題で豊臣方として参陣した。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、まず道明寺の戦いに参加。後藤基次が突出して戦死し敗れたが、全登隊は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、政宗と相茂の同士討ちを起している。この戦いで全登は負傷した。天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に全登は300余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。


 その後の消息は不明である。『徳川実紀』『土屋知貞私記』『石川家中留書』など徳川方の複数の家伝が全登はこの戦いで討ち取られたとし、『大坂御陣覚書』『大坂記』は水野勝成家臣の汀三右衛門が首を獲ったとし、『石川家中留書』では石川忠総がその手で討ち取り、全登が豊臣秀頼から賜った吉光の短刀も分捕ったとする。このように幾つかの史料は戦死説をとるが、それ以上に落ち延びたとする伝承も多く、『大村家譜』『山本豊久私記』など幾つかは嫡子内記と共に九州に、また『戸川家譜』『武家事紀』には南蛮に逃亡したのであろうと取沙汰したと書かれたものもあるほどで、諸説あって判然としない。もし南蛮へ渡ったとすればイエズス会文書などで特筆されるはずだが、全登の消息は記されていない事から南蛮逃亡説は空想の産物であろうとされている。

 

 朝霧は明石の住んでるアパートにやって来た。

 様々な武器が置かれてあった。百雷銃ひゃくらいじゅうって火を点けると鉄砲に似た音がする非殺傷兵器や、鎌槍という塀に槍を立てかけ鎌の部分に足をかけて登る面白いアイテムなどを見て朝霧は目を丸くした。

 明石は主君の宇喜多直家を討とうとしたが失敗したそうだ。突如、地震が発生。地面に穴が開き、その穴に落ちた明石は2025年にタイムスリップしたそうだ。

 

 8月7日

 左近さこんというハンドルネームのハッカーが小豆島に住んでいることが明らかになった。

 朝霧は午後1時の船で島にやって来た。

 朝霧はひまわり畑を眺めていた。蝉がミンミン、ジィジィやかましく鳴いている。

 小豆島は瀬戸内海に浮かぶ島々の中では2番目の大きさを誇り、温暖であることから雨が少なくオリーブ栽培に適している。

 小豆島について文献に見える最古の記録は『古事記』の国産みの段で、伊邪那岐命と伊邪那美命のまぐわいにより小豆島あずきひめが生まれたと記述されている。

 小豆島は古代から吉備国児島郡に属し、吉備国が分割された後も備前国に属すなど、中世までは本州側の行政区画に組み込まれていた。平安時代初期からは皇室の御料地となるが、1347年(貞和3年)にはそれまで南朝に呼応して島を支配していた飽浦信胤が細川師氏に攻められて倒されて以後、島は細川氏領となり皇室領は解体された。またこの細川氏は讃岐国守護であり、この時から政治的な支配者という側面では本州側の手を離れ、四国側に移っている。


 実質的にはこの時(1347年(貞和3年))から小豆島は讃岐国へと所属が変わっているが、書簡などに見られる名称に讃岐国あるいは讃州という呼称は定着せず、依然として備前国という呼称が用いられていた。このような状態は江戸時代の1689年(元禄2年)の文書まで見られたが、以降、宝永年間からはようやく讃岐国あるいは讃州という呼称が定着し、備前国という表示は行われなくなった。


 小豆島は大阪以西における海上交通の要衝地であるため、1585年(天正13年)に豊臣秀吉の蔵入地(直轄領、後の天領)になって以降、その重要性から時の中央政権が直接領有する時代が続いた。


 大坂の陣後、江戸幕府が大坂城を再建するにあたって新しい石垣を造営するために西国の諸大名は幕府の許可を得て小豆島の各地に石丁場を設置した。記録で知られるところでは福岡藩黒田家、熊本藩加藤家、小倉藩(後に熊本藩)細川家、竹田藩中川家、安濃津藩藤堂家、松江藩堀尾家、柳川藩田中家、佐賀藩鍋島家、広島藩浅野家の石丁場が知られている。石丁場は公儀普請の際に当時の島の代官であった小堀政一(没後は大坂町奉行・大坂舟奉行に権限を移管)の許可を得て初めて石を切りだせることになっていたが、良質な石を得られる場所は貴重であったために諸大名はいつ生じるかも分からない公儀普請に備えて石丁場を保持し続けた。石丁場を持っていた大名が改易になると新領主がその石丁場を継承することもあったが、そうした大名が現れなかった石丁場では公儀の許可を得た商人による請負に転換され、そうした場所では限定的ながら商用に用いることも許されることになった。


 朝霧は道の駅にやって来た。おばさん店員が「最近、島内で恐ろしい事件があったの。若い男性が惨殺されたんだけど、腕がもぎとられいたの。彼は鉄筋コンクリート造りの建物の中で殺されたんだけど、壁に大きな穴が開いていたのよ」

「鬼の所業じゃないですか?」

 香川には手洗い鬼って妖怪が棲んでいたって噂だ。『絵本百物語』本文によればダイダラボッチの一種とされ、四国の海で3里もの距離の山々を跨ぎ、海で手を洗う巨人だという。また同書の挿絵中の文章では手洗鬼が手を洗う場所を、讃岐(現・香川県)の高松から丸亀へ続く湾としている。これらの記述と現在の地図と比較すれば、手洗鬼は瀬戸大橋の距離よりも大きな巨人ということになる。


 妖怪探訪家・村上健司の調査では『絵本百物語』以外に手洗鬼の伝承は確認されていないが、手洗鬼の地とされる香川県では、巨人のオジョモ(化け物の意)が飯野山と青野山をまたいで瀬戸内海の水を飲んだという伝説があり、飯野山の山頂にはそのオジョモのものとされる足跡が残っている。また飯野山と二子山を孫太郎という巨人が跨いだという伝説もある。


 朝霧は午後3時、寒霞渓かんかけいにやって来た。星ヶ城と美しの原高原の間、範囲は東西7キロメートル、南北4キロメートルに及ぶ大渓谷で、そこに約1300万年前の火山活動により堆積した疑灰角礫岩などが、度重なる地殻変動と風雨による侵食により、断崖や奇岩群を形成している。 『日本書紀』にも記述がある奇勝で、元々は鍵掛(鉤掛)、神懸、神駆などの字が当てられてカンカケの名で呼ばれてきた。これはガンカケ、ガッカケなどとともに崩れた崖や絶壁などを指す語であるが、これを元に明治初期の儒学者、藤沢南岳が寒霞渓と命名した。


 当地は、大正12年(1923年)3月7日に「神懸山(寒霞渓)」として国の名勝に指定され、また1934年の瀬戸内海国立公園設置の契機となった、大渓谷と海を一望できる景勝地である。ほか、日本三大渓谷美、日本三大奇勝や日本百景、「21世紀に残したい日本の自然100選」等に選ばれている。新緑や特に紅葉の季節は多くの観光客で賑わう。

 朝霧は崖の上にやって来た。崖下を覗くとゾワゾワと鳥肌が立った。宝箱が置かれてあったので開けた。金色に輝く飴玉が7個入っていた。  

 朝霧は丁度喉が痛かったので舐めた。不思議と頭が冴えてきた。ハッカーの正体の顔が脳裏に現れ、彼のいる場所も明らかになった。

 

 左近は朝霧が島に到着する2時間前に、モーターボートで島を脱出していた。

 ポリモルフィックコードを使っているから、そう簡単にはサイバー捜査隊の人間も辿り着けないはずだ。

 ポリモルフィックコードとは、本来のアルゴリズムを保ったまま変化していくコード(プログラム)である。この技法はコンピュータウイルス、シェルコード、ワームが自身の存在を隠すために使われる。


 アンチウイルスソフトウェアや侵入検知システムの多くは、ファイルやコンピュータネットワーク上のパケットを調べ、悪意あるコードがないか調べる。これにおける検出方法はもっぱらパターンマッチであるため、ポリモルフィック手法によりコードを絶えず変化させることで、検出を難しくすることができる。


 ポリモルフィックコードを実現する手段としてよく使われるのは暗号である。しかし、コード全体を暗号化してしまうと実行不可能となるので、それはできない。したがって、一部のコードは暗号化せずに残しておく。アンチウイルスソフトウェアは、その暗号化されない一部分をターゲットとして探索する。


 悪意あるプログラマは、暗号化できない復号エンジン部をウイルスやワームが伝播するたびに書き換えることでセキュリティソフトウェアから逃れようとする。また、アンチウイルスソフトウェア側もマルウェアを確実に検出するため、復号エンジン部の突然変異によっても変化しないパターンを見つけ出そうとする。


 左近は周囲約9kmの南北に細長い、女木島めきじまにやって来た。桃太郎が鬼退治の為に上陸した島、鬼ヶ島としても知られる。女木港そばにはモアイ像がそびえ立っている。島の中央には鷲ヶ峰の中腹には人工の洞窟、鬼ヶ島大洞窟があった。洞窟は迷路のように入り組んでいる。オォォォォッ……と獣の咆哮が聞こえた。鬼でも棲んでるんじゃないか?と、左近はビクビクした。

 奥まったところに宝箱が置かれてある。ドキドキしながら箱を開けたらタコがニュルニュルニュルと出てきたので肝が冷えた。誰かがイタズラしたのだろう。🐙

 左近は奇妙な気配を感じた。

 

 塩飽しわく諸島の本島に志摩傑しますぐるは来ていた。塩飽諸島は瀬戸内海国立公園の中にある。備讃海域に28の島々(粟島あわしま・広島・高見島・佐柳島さなぎじまなど)が点在する。塩飽諸島には広島の他、佐柳島に長崎港というのが存在する。

 志摩はテンプターのOBで、立花を殺した真犯人だ。立花が優秀過ぎて、志摩は必要なくなった。志摩は酒に酔って朝遅れて来たり、標的をみすみす逃してしまったりお粗末だった。

 テンプターを辞めてからは酒屋の後継者になったがコロナで没落、空虚になり立花を恨むようになった。

   

 8月26日午後9時

 警視庁捜査一課の世羅創馬せらそうまは花火を見上げていた。🎆両国大橋から枝垂れ柳が見えた。感染を考慮してか、今年もシークレット花火だ。

 世羅は今年で42歳だ。本厄だ。世羅は未だ巡査部長だ。警察学校の同期、たきなんて群馬県の太田署で署長をしている。

 事件は深川にある住宅街で起きた。

 被害者の蹴上光太郎は8月24日夜に会社で仕事を終えた後、25日未明までの間に車庫付近で殺害されたとみられている。車庫と社屋に向かう通路には数メートルにわたり、大量の血痕が残されていた。


 発見時、蹴上はスーツ姿であった。首や腹には複数の刺し傷があり、死因は首を切られたことによる出血死であった。抵抗した痕もあった。


 また、事件の前年には北海道旅行中の札幌市内でバイクに乗った2人組に銃撃され、同行していた男性が死亡するという事件が起きている。


 周囲の防犯カメラには、会社のフェンスを乗り越え敷地内を歩き回る不審な人物が映っていた。不審な人物はスマホを持ち、ナップサックを背負い、ヘッドホンを身につけていた。

 

 同日、午後11時。  

 朝霧は列車を降りてホームを歩いていた。ヘッドホンからは数年前に流行った、LiSAの『紅蓮華』が流れている。

 久喜駅の西口ロータリーに出た。

 久喜駅西口は提灯祭り通りを中心に古くからの商店が多くあったが、久喜幸手新道周辺にイトーヨーカドー久喜店ほか、埼玉県道3号さいたま栗橋線周辺にアリオ鷲宮など商業施設が多くなり、さらに後継者不足により年々数を減らしていった。それに対し、居酒屋やコンビニエンスストアなどのチェーン店は数を増している。西口駅前広場付近はクッキープラザ(久喜駅桧家ビル)やマンションが立地する。毎年7月12日と7月18日には提灯祭りが開催され、市内外から観客が多く訪れる。


 アパートに向かって歩き出す。蹴上(左近)は深川にあるシステム会社で働いていた。これは飴を舐めていたときに分かったことだが、蹴上は快楽的ハッカーだ。春田に個人的な恨みはなかった。世間を騒がせる、これこそが蹴上の狙いだったのだ。

 蹴上はシラットを習っているらしく、なかなか強かった。

 拳法、武器術を含む武術であり、型や組手を通じて稽古を行う。インドネシアでは地域によって500以上の流派があり、技術的にもかなりの違いがあるという。


 シラットには「稲穂の教え」(イルム・パディ)という基本思想があり、鍛練を積むに従って礼節や他人への思いやりを身に付け、心豊かに生きる事を理想としている。また、「崇高な精神と品格を備える」、「同胞を尊敬し、友愛と平和を守る」、「常に前向きに考え行動し、創造性と力強さを持つ」、「真実、公正、正義を守り、試練や誘惑に立ち向かう」「常に自身の言動に責任を取る」という「5つの誓い」が存在する。シラットを行う者は「プシラット」と呼ばれる。


 シラットにはインドネシア式やマレーシア式のものなど様々な種類があるが、インドネシアの西ジャワのプンチャック・シラット(インドネシア語 Pencak Silat)が有名であり、その他にも精神性に重きを置いたシラット、警察や軍隊向けの軍用シラット、軍用シラットを一般民間人向けに改良したローコンバットなどが有名である。

 欧米の国々では人気がある。ブルース・リーの弟子であるダン・イノサントが学んでいた事でも知られ、後にリーが開いたジークンドーにもシラットが取り入れられている。日本では未だにマイナーではあるが、1996年に日本プンチャック・シラット協会が発足し、インドネシアから師範も来日している。現在は段位制度を設けており、帯の色で分けられている。

 

 伝統的には弟子は入門する際、師にナイフと白い布を贈るという。ナイフは覚悟と師への畏敬の念を意味し、白い布は命を落とした際に自らを包むためのものである。


 シラットには「ジュルス」という型のようなものがある。ジュルスは民族衣装に身を包み、ガムランの調べに乗って演じられる。素手で行うものもあれば、扇や「クリス」という短剣を持って演じることもある。音楽に合わせてジュルスを演じることを「スニ」と呼ぶ。インドネシアには民族舞踊の中にジュルスが含まれていることも多く、イベントなどでは大人数で演武が行われる。


 また、マレーシアでは結婚式の際に新郎新婦の前で若者がコンパン(マレーシアの太鼓の一種)に合わせてジュルスを演じる「ウエディング・シラット」というパフォーマンスが行われる。このような武術と音楽や舞踊との関係はインドやタイにも見られ、東南アジア武術の特徴の一つとなっている。


 基本型に基づいた「オララガ」(olah raga)という組み手も存在する。武道、スポーツとして親しむ向きもあり、多くの競技人口が存在する。国際プンチャック・シラット連盟はシラット競技の普及を進めており、将来のオリンピック種目採用を目指している。


 シラットには精神修行という一面もある。呼吸法や瞑想などの修行を通じて精神統一を行うことで集中力を養い、「インパワー」(気の力)の習得を目指す。気を養う呼吸法や、呼吸法を使って感覚を養う法などの練功法も存在するという。土着のアニミズムやシャーマニズムと関連があるが、イスラム文化圏ではイスラム教とのつながりもあるという。


 多くの流派で共通して使われる武器には棒や棍棒のほか、竹や鉄で作られた竿、先端が三叉に分かれた「カバン」というナイフの一種、女性が髪に刺して持ち歩く護身用のナイフ「カランビット」、「サビット」という鎌、毒を塗って使うダガーの一種「クリス」、「テダン」と呼ばれる剣がある。


 初心者や年配者向けの簡化太極拳のような基本型が存在するほか、実戦を重視した護身術的な要素の強いものもある。

 

 蹴上はサビットで襲いかかってきた。朝霧は足払いをかけて、蹴上のバランスを崩し、奴の落としたサビットで首を掻き切った。

 イクサ🔫2発

 

 朝霧は明日の朝食はパンにしようと決めていた。コンビニの灯りが見えてきた。

 伊草の袈裟坊が立ちはだかった。

 法師のように袈裟を纏っていることからこの名で呼ばれたといい、周辺の河童たちは毎年袈裟坊に人間の腸を中元として献上したという。埼玉県川島にある落合橋付近を夜遅く通ると呼び止められ、振り向くと大男が道に立ちふさがり、車を挽いて行くと後ろに吊下るなどして悪戯をした。

 袈裟坊は香川での殺戮を思い出した。

 人肉はたまらなく美味かった。

「オマエノニクモクワセロ」

 朝霧はイクサのトリガーを絞った。1発目は左足に着弾した。膝を破壊され、悶絶してる袈裟坊の頭にイクサの銃口を押し当て再度、トリガーを絞る。

 くぐもった銃声がした。

 イクサ🔫0発

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