第4話 2025年7月

 2025年7月1日

 陽射しがきつい。朝霧はレイバンのサングラスをかけた。室戸は温暖な気候でアコウの木など珍しい植物が咲いている。岸壁には荒波が打ち寄せる。

 室戸岬には鬼頭も来ていた。立花は別件の仕事があるのでここにはいない。

 室戸岬の断崖には白亜の灯台が聳え立っている。

 11月1日に近い日曜には灯台祭りが開かれる。

 展望台から碧い海原を眺めた。

 磐梯は美しい女とイチャイチャしてる。

「君はシャガールの絵よりキレイだな」

 マルク・シャガール(1887年7月7日 - 1985年3月28日)は、20世紀のロシア(現ベラルーシ)出身のフランスの画家。

 1887年7月7日、帝政ロシア領ヴィテブスクにて、父ザハール、母フェイガ・イタの元に9人兄弟の長男、モイシェ・セガルとして生まれた。後にパリでマルクと名乗るようになる。故郷ヴィテブスクは人口65000人の半分以上をユダヤ人が占めている町(シュテットル)で、シャガール自身もユダヤ系(東欧系ユダヤ人)である。生涯、妻ベラ(ベラ・ローゼンフェルト)を一途に敬愛していたこと、ベラへの愛や結婚をテーマとした作品を多く製作していることから別名「愛の画家」と呼ばれる。


 1900年、4年制の公立学校に入学した。なお、この頃の同級生は彫刻家、画家のオシップ・ザッキンで、共に芸術家を目指した。


 1907年、当時の首都サンクトペテルブルクのニコライ・リョーリフが学長を務める美術学校に入るが、同校のアカデミックな教育に満足しなかったシャガールはやがて1909年にレオン・バクストのズヴァンツェヴァ美術学校で学ぶことになる。バクストは当時のロシア・バレエ団の衣装デザインなどを担当していた人物である。


 シャガールは1910年パリに赴き、5年間の滞在の後、故郷へ戻る。この最初のパリ時代の作品にはキュビスムの影響が見られる。1915年に母が病死。同年にベラと結婚。10月革命(1917年)後のロシアでしばらく生活するが、1922年、故郷に見切りをつけ、ベルリンを経由して1923年にはふたたびパリへ戻る。ロシア時代のシャガールはロシア・アヴァンギャルドに参加して構成主義の影響の濃い作品、デザイン的作品を制作したが、出国後の作品は「愛」の方への傾斜が認められる。1941年、第二次世界大戦の勃発を受け、ナチスの迫害を避けてアメリカへ亡命した。なお、同郷人で最初の妻ベラ・ローゼンフェルトは1944年にアメリカで病死した。


 1947年にパリへ戻ったシャガールは、1950年から南フランスに永住することを決意し、フランス国籍を取得している。1951年、彫刻制作を始める。1952年、当時60歳代のシャガールはユダヤ人女性ヴァランティーヌ・ブロツキーと再婚した。1960年、エラスムス賞受賞。同年、当時のフランス共和国文化大臣でシャガールとも親交のあったアンドレ・マルローはオペラ座の天井画をシャガールに依頼。これは1964年に完成している。1966年、シャガールは17点の連作『聖書のメッセージ』をフランス国家に寄贈した。マルローはこの連作を含むシャガールの作品を展示するための国立美術館の建設を推進し、ニース市が土地を提供する形で、1973年、86歳の誕生日に、ニース市に「マルク・シャガール聖書のメッセージ国立美術館」(現国立マルク・シャガール美術館)が開館した。1966年から20年近く暮らした、ニースに近いサン=ポール=ド=ヴァンスの墓地に眠る。「マーグ財団美術館」に大作がある。


 毒舌家としても知られ、同時代の画家や芸術運動にはシニカルな態度を示していた。特にピカソに対しては極めて辛辣な評価を下している。 シュルレアリスムに共感を持てず、自分のことを「シュルレアリストと呼ばないで欲しい」と語っている。アポリネールは彼の作風を“シュルナチュラリスム(超自然主義)”と呼んだ。


「もうっ、口がうまいんだから〜」

 展望台を出て、廃校水族館にやって来た。

 旧校舎の教室に設置した水槽や旧手洗い場、および25mプールに魚介類が展示されている。

 🐟🐠🐡🦈

 展示されている50種、1000匹以上の海の生き物は、地元漁師の定置網にかかったり、職員が自ら釣ったりしたものが大半である。25mプールではシュモクザメをはじめとしたサメやエイが、大型の円形水槽ではサバなどが飼われているほか、元の教室内にはゴンズイ、ミノカサゴ、ウツボ、ウミガメなどが飼育されている。

 生態展示のほかに、深海魚やミンククジラの標本も展示されている。

「こいつは面白い」

 鬼頭は少年みたいなキラキラした瞳で水槽の中を覗いてる。

「シュモクザメって頭部が左右に張り出して、その先端に目と鼻孔があるだろ?鐘や鉦を打ち鳴らす丁字形の撞木しゅもくのような頭の形をしているから撞木鮫っていうんだ」

 朝霧は魚について詳しい。

「さかなくんに弟子入りしたらいいじゃないですか?」

「面白いことを言うな?」


 水族館のあとは乱礁らんしょう遊歩道にやって来た。太平洋の荒波に侵食された奇岩や岩礁が屹立してる。弘法大師ゆかりの史跡が点在してる。

 ハマユウやハマアザミが風に揺れている。

 遊歩道をしばらく歩くと2つの洞窟が見えてきた。御厨人窟みくろど神明窟しんめいくつ、弘法大師が悟りを開いた洞窟で、ここから見える空と海に感動して空海と名乗った。

 磐梯と腕を汲んでいる美女が足を止めた。彼女の正体は沙織だったのだ。


 コルトガバメントとイクサで武装した朝霧は、行く手を阻む磐梯を威圧的な態度で射殺した。

 彼は正義感の強いいい教師だと、亡骸を見下ろして朝霧は思った。

 🔫イクサ 残り5発

 朝霧や沙織は温浴プールでリラックスした。

 海洋深層水を利用したプールで、アウフグース(熱波とアロマの香りを楽しむサウナ)にも入った。

 ぬるま湯に浸かりながら朝霧は夜空を眺めた。

 北半球では、夏の夜空で目立つのは、天の川を隔てて向かい合うこと座とわし座、その間にあるはくちょう座である。それぞれに含まれる一等星であるベガ・アルタイル・デネブを結んだものを夏の大三角という。このベガを織女、アルタイルを牽牛として両者を夫婦と見なし、年に一度だけ出会える、という伝説が七夕のいわれである。


 南の空ではさそり座が姿を現す。これは冬のオリオン座と入れ替えに出入りすることで有名である。


 数日後、立花は同僚たちの葬儀のため防護車で墓地を訪れるが、遠隔装置による重機関銃と小型ミサイルで立花の乗った車両が襲われ、惨殺される。


 7月10日

 ラジカセでTUBEの『あ〜夏休み』を聴いた。あまりにも暑かったので14時頃、冷水シャワーを浴びた。

 アパートには芽衣子が来ていた。

 朝霧は彼女と交わった。沙織に申し訳ないと朝霧は思った。

 沙織の本職は女医だ。有給を取れるときだけ仕事に協力してくれてる。標的の情報収集は沙織の得意分野だ。

 バスタオルで髪を拭いて、リビングに戻る。

 ソファで芽衣子はアプリ版のバイオハザードで遊んでる。

 朝霧は冷蔵庫からコンビニで買った紙パックの麦茶を出して、コップに注いで飲んだ。

 芽衣子の隣りに座った。

「シャンプーのいい匂い」

「辺見さん、立花は何で殺されたのかな?」

 芽衣子はしばらく考えてから、「藤原さんの遺族の仕業かな?」と言った。

 藤原?朝霧の本当の名前は藤原武蔵だ。藤原瑞鳳ふじわらずいほうは宮本武蔵の大ファンで、息子を立派にさせたくて『武蔵』と名づけた。

「私が昔、刑事だったって話は前にしたよね?」

「はい」

「私は5年前、栃木県にある東武署の刑事課にいた。先輩に藤原瑞鳳って人がいた。どことなく仲村トオルに似た人でね?藤原さんは捜査のイロハを教えてくれた。私はとても尊敬していた。けど、藤原さんは飛龍ひりゅう会に捜査情報を流していた」

 飛龍会は東京都港区赤坂に総本部を置く博徒系指定暴力団である。勢力範囲は1都1道1府15県、構成員は2,600人で準構成員等を含めると約4,200人。豊後組および桂馬会とともに公安委員会から主要暴力団として位置づけられている。米政府より、薬物や武器の密輸・人身売買等の犯罪に関与する国際犯罪組織と認定されている。

「5年前の7月、オリオン通りで東武署と飛龍会との間で銃撃戦が展開された。藤原さんは飛龍会のボス、豪田ごうだの盾になって死んだ。撃ったのは私よ……」

 朝霧は冥界で瑞鳳を見かけた。バスに乗り込むところだった。追いかけたが追いつかなかった。

 親父がヤクザに情報を流していたなんて……朝霧は打ちひしがれていた。親父はケガしていた野良犬の手当をしたり、道に迷った老婆に道案内したり優しかった。何らかの事情があったのだろう。

「藤原って刑事は何故、情報を流していたんですか?」

「そこまでは分からない」

 芽衣子と刺し違えて冥界に堕ちて、親父と会えば理由が分かるかも知れない……などと朝霧は考えていた。が、沙織と離れ離れになるのは嫌だ。


 7月15日

 フィリピンの美女が何者かに絞殺された。

 偶然、朝霧は現場となった大平山おおひらさんの麓にある廃墟近くにいた。

 太平山の中でも見晴らしの良い謙信平けんしんだいらに山本有三が執筆した「路傍の石」の石碑があり、春桜の季節には花見を楽しむことが出来る(謙信平は上杉謙信が騎馬隊をここで練習させたことにちなむ史跡である)。太平山では太平山だんごとダシ入りのたまごやき、焼き鳥が名物で花見をしながら食べることも楽しみの一つである。たまごやきと焼き鳥は太平山神社にニワトリを奉納する風習があり、これを参拝者に振る舞ったこと、だんごも五穀豊穣を願って奉納していたものが由来である。


 花見の時期には茶席も催されている。眺めの良い場所からは、晴れていれば東京スカイツリーや西新宿高層ビル群、富士山を眺めることもでき、地上が霧になると霧の上から島のように付近の山々がみえることから「陸の松島」とも言われている。日本夜景遺産に認定されている。


 六月には「あじさい坂」といわれる太平山神社に向かう階段状の参道にあじさいが咲く。このあじさいは、およそ2,500株あり、ライオンズクラブが1974年(昭和49年)に植え始めたのが始まりである。中腹には太平山神社(頂上に富士浅間神社、太平山城跡がある)があり、年末年始には初詣客で賑わい、商売の神様が祭られているので商売の人は良く訪れる。また、女の神様なのでカップルでいくと別れるという噂がある。太平山の麓に大中寺があり、そこには「根無し藤」「油坂」などの七不思議伝説がある。大中寺は、栃木市を通過する大平町ぶどう団地のみち(グレープロード)沿いから入ったところにある。

 日が暮れると夜空を吸血鬼が飛んでいる。アスワングというフィリピンの怪物で、子供の血を好み、家屋の屋根に乗って隙間から長い舌を伸ばし、住人の血を吸った。

 朝霧はイクサでアスワングを撃ったが全く当たらなかった。アスワングは素早い動きで攻撃を回避した。5発もあったのに残り2発だ。イライラする!

 朝霧は大中寺にやって来た。ゴ〜ン♪ゴ〜ン♪鐘の音が夕闇に寂しく響く。

 伝承によれば、1154年(久寿元年)、真言宗寺院として創建されたという。1489年(延徳元年)、在地豪族の小山成長が快庵妙慶を開山に招いて再興。このときが実質的な創建とみなされる。天翁院(小山市)の中興開山でもある培芝正悦ばいししょうえつが大中寺2世となった。


 天文から弘治の頃(16世紀半ば)、5世海庵尖智の時、後継を巡って無学宗棼(「棼」《ふん》は「林」の下に「分」)と快叟良慶の間に争いがあり、寺は2つに分裂。小山高朝によって、下都賀郡榎本村(栃木市大平町榎本)に新たな大中寺が建立され、無学宗棼はそちらへ移った。山田の大中寺は荒廃するが、1562年(永禄5年)、快叟の弟子の天嶺呑補が再興した。また、快叟が上杉謙信の叔父にあたることから、謙信によって伽藍が整備された。


 1591年(天正19年)、当寺は徳川家康により、曹洞宗の関八州僧録職に任命され、1612年(慶長17年)には下総の總寧寺(千葉県市川市)、武蔵野龍穏寺(埼玉県入間郡越生町)と共に天下大僧録(関三刹)の一となる。天下大僧録とは、寺院の本末制度とは別に、末寺数の多い日本各地の曹洞宗寺院を傘下において管理させる寺院として上記3箇寺を指定したものである。3箇寺は月番で曹洞宗の事務を取り仕切り、大本山永平寺の住職はこれら3箇寺の住職経験者から選任された。


『雨月物語』には稚児への愛執から鬼に変じた僧が登場する「青頭巾」などという話がある。

 梵鐘の陰からアスワングが現れて、朝霧に飛びかかり長い舌を出して血をチューチュー吸った。

 朝霧は既に死んでいる為、そう簡単には死なない。

「カズ!大丈夫!?」

 沙織が駆けつけた。朝霧の名前は和義だ。沙織はいきなり朝霧に接吻してきた。こんなときに何を考えてるんだ!?と、朝霧は思ったがみるみるうちに疲労感が消えた。吸われた血が戻った?沙織は患者の命を助けると、キスをすることにより回復や蘇生をすることが出来る。

 そのとき、ウィーン♪ウィーン♪と緊急地震速報が鳴り出した。が、朝霧や沙織のスマホは何ともない。実は草葉の陰から鬼頭がワザと鳴らしていたのだ。キョロキョロするアスワング目がけ、鬼頭は銃口にサイレンサーを装着した銃で撃った。

 死にはしないがアスワングの動きは封じられている。朝霧はイクサのトリガーを絞った。アスワングは後頭部を撃たれて死んだ。

 🔫イクサ 残り1発


「ビックリさせてすみません」

 鬼頭は地震速報が作戦の一部だということを説明した。

「ふざけるなよ!?」

 朝霧は今にも殴りかかりそうな勢いだ。

 栃木駅近くにあるラーメン屋で夕食にした。朝霧は醤油ラーメン、鬼頭は味噌ラーメン、沙織は塩ラーメンだ。

 沙織は武勇伝を話した。彼女は東武病院で働いている。院長の増上寺ぞうじょうじは金の亡者だ。今まで手術で助けた人間は10人。さきほど、朝霧に『回復』を使ったので魔法は残り9回使える。

 洞本僕どうもとぼくって変わった名前の俳優の胃癌を治したり、かつての協力者、春田雅紀の脳腫瘍を治したらしい。

「春田は今、どこにいるんだ?」

 朝霧は沙織に尋ねた。

「丸亀に引っ越したらしいよ」

 ラーメンは大してうまくなかった。

 

 午後10時、朝霧一矢あさぎりいちやって男が栃木署に出頭した。朝霧はアパートで缶ビールを飲みながらニュースを見ていた。

 朝霧は一矢なんて知らない。茶髪のチャラチャラした奴だ。

 そういえば、マスクを誰もしていないが何でだろう?藤原から朝霧になってこっちの世界に戻ってまだ日が浅く、知らないことも多い。疑問に思って朝霧は沙織に尋ねた。

「マスクはコロナにはあまり効果がないことが分かったの。デルタとかはマスクとか必要だったけど、オメガはマスクをすることで感染率が高くなるんだって。おかげでカラオケ屋さんが巻き返したってニュースでやってた」

「そうなんだ」

「ニュースみないとダメだよ」

 朝霧は母親や弟の安否が心配だった。

 母親の藤原有希江ふじわらうきえは弁当屋でパートをしていて、弟の藤原衛二ふじわらえいじは朝霧が生きていたときは中学3年生だった。

 朝霧は実家に電話してみたが、誰も出なかった。

 何としても芽衣子の暴挙を食い止めなければ!

 朝霧は沙織に、自分の正体が藤原武蔵であることや、藤原瑞鳳の誤ち、芽衣子によって瑞鳳が射殺されたこと、立花が瑞鳳の遺族によって殺されたかも知れないこと、芽衣子が藤原一族の命を狙っている可能性があることなどを説明した。

「えっ、それじゃあカズは幽霊なの?」

「そういうことになる。実家は大田原にある、送ってってくれないか?」

 さすがに飲酒運転は恐ろしい。

「明日、仕事なんだ」

「分かったよ」  

 今日はもう疲れたし、明日にすることにした。

 鬼頭に協力を頼もうと思ったが、やめた。彼は浮気したって理由で恋人を殺めるような短絡的な人間だ。信用してはダメだ。

 風呂に入浴剤を入れてリラックスした。涼感タイプのグリーン色の入浴剤だ。

 

 7月16日

 朝霧は6時55分久喜駅発の宇都宮線に乗り込んだ。小金井駅に7時30分に到着、黒磯行き7時41分の列車に乗り込む。8時40分に西那須野駅に到着。

 朝食がまだだったのでキヨスクを探したが、取り壊されていた。幽霊だから食わなくてもちょっとしたことじゃ死なないが、腹がグーグー鳴っている。 

 カッコウがしきりにカッコー、カッコーと鳴いている。

 大田原には那須与一なすのよいち伝説が残されている。

 幼い頃から弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し父の資隆を驚嘆させたという地元の伝承がある。また、治承4年(1180年)、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、資隆が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説がある。その他与一が開基とする寺社がいくつか存在している。『平家物語』に記される、扇の的を射抜く話が非常に有名である。


 また扇の的を射た功名で得たと伝えられている荘園のうち1つの備中荏原荘がある。この伝承が事実であるかどうかは不明であるが、少なくとも鎌倉時代中期の段階で那須氏の一族(荏原那須氏・備中那須氏)がこの地域を支配していたことを示す記録が残されている。


 弓の腕を上げようと修行を積み過ぎた為、左右で腕の長さが変わってしまったと伝えられている。


 源氏方に扇の的を差し出した平家方の玉虫御前(鬼山御前)は、平家の落人が逃れたとされる肥後国五家荘の手前に移り住んだという伝承がある。五家荘の伝承によると平家一族の追討にきた那須与一の嫡男の小太郎を先に進ませないよう引き留めているうちに、小太郎と玉虫御前は同地で幸せに暮らすようになったという。玉虫御前の故郷である熊本県御船町には源平合戦後に玉虫御前が平家の菩提を弔うため建立した玉虫寺の跡(玉虫寺跡)が残っている。

 

 芽衣子を殺したくはない。朝霧が『テンプター』に入ったのは大山風おおやまかぜを殺す為だ。大山は津田と共謀して、朝霧を、いや、藤原武蔵をいじめていた。顔がキモいと嘲笑ったり、プールの時間のときに溺れさせたり、鬼みたいな奴だった。

 大山は『テンプター』から加須かぞ市にある化学薬品工場に派遣されていた。だが、芽衣子の話では無断で会社を辞めたらしい。

 芽衣子は大山への復讐が済んでからにしたい。

 ショルダーホルスターにコルトガバメント、リュックの中にはイクサを入れてある。

 朝霧はよく父親と腕相撲した。だが、1度も勝てたことはない。蘇ったから勝負しようと思っていたのに。朝霧の脳裏に沙織が浮かんだ。彼女なら親父を蘇生出来るんじゃないか?

 

 大田原は栃木県の北東部に位置。東京から北に約150キロメートル、県庁所在地の宇都宮市からは車で約1時間。東西に長い形状を呈しており、市境の東側は県境として茨城県及び福島県と接している。県東部には八溝山地が茨城県との県境に沿って延びるが、中央部-西部にかけては那須野が原扇状地の扇端付近にあたる平地が広がる。一方河川では、市東部を南北に縦断する那珂川、市南部を東西に横断する箒川がある。大田原市街を流れる伏流河川・蛇尾川は、市南部の福原地区付近で箒川に注ぎ、さらに箒川は佐良土の箒橋付近で那珂川へ注いでいる。


 市西端部の野崎地区にはJR宇都宮線が通じており、野崎駅が設置されている。道路網では国道400号、国道461号が、大田原市街の中心で交差し東西南北へ延びる。その他黒羽市街、湯津上市街を縦断し那須烏山市方面へ通じる国道294号は、市内を那珂川に沿って延び、野崎地区には国道4号が南北に縦断する。


 野崎地区は、距離的には、最寄りの大田原市役所本庁舎よりも、那須塩原市役所西那須野支所の方が近い。

 藤原邸は西那須野駅からほど近い。那須疏水第三分水路(深川堀)を歩いていると、偶然にも衛二が向こうからやって来た。

 随分と大きくなったものだ。

「あの〜藤原衛二君ですよね?」

「はい、そうですけど」

「東武警察署の朝霧って言います」

「もしかして、父のことで?父が大変迷惑かけました」

「いいや、謝らなくてもいい。俺、最近記憶があやふやでさ?君のお父さんは一体何故、あんなことを?」

「母が難病になったんです」

 衛二の説明では有希江はエーラス・ダンロス症候群って病だった。皮膚、関節、血管など全身的な結合組織の脆弱性に基づく遺伝性疾患である。その原因と症状から、6つの主病型(古典型、関節型、血管型、後側彎型、多発関節弛緩型、皮膚脆弱型)に分類されており、全病型を合わせた推定頻度は約1/5,000人とされている。さらに、最近、難治性疾患克服研究事業研究班において見出し、疾患概念を確立した「D4ST1欠損に基づくEDS(DDEDS)」を含め、新たな病型が発見されている。


原因は、コラーゲン分子又はコラーゲン成熟過程に関与する酵素の遺伝子変異に基づく。古典型はV型コラーゲン(COL5A1、COL5A2)遺伝子変異により、血管型EDSはIII型コラーゲン(COL3A1)遺伝子変異より、後側彎型EDSはコラーゲン修飾酵素リジルヒドロキシラーゼ(PLOD)遺伝子変異により、多発関節弛緩型EDSはI型コラーゲン(COL1A1、COL1A2)遺伝子変異により、皮膚脆弱型はプロコラーゲンI N-プロテイナーゼ(ADAMTS2)遺伝子変異により、DDEDSはCHST14遺伝子変異により発症する。しかし、それぞれの遺伝子変異がどのような機序で多系統の合併症を引き起こすのか、治療につながる詳細な病態は不明である。


 症状は、古典型においては、皮膚の脆弱性(容易に裂ける、萎縮性瘢痕を来す)、関節の脆弱性(柔軟、脱臼しやすい)、血管の脆弱性(内出血しやすい)、心臓弁の逸脱・逆流、上行大動脈拡張を呈する。関節型EDSにおいては、関節の脆弱性が中心(脱臼・亜脱臼、慢性疼痛)である。血管型EDSにおいては、動脈解離・瘤・破裂、腸管破裂、子宮破裂といった重篤な合併症を呈するとともに、小関節の弛緩、特徴的顔貌、皮下静脈の透見などの身体的特徴がある。DDEDSでは、進行性結合組織脆弱性(皮膚過伸展・脆弱性、全身関節弛緩・慢性脱臼・変形、巨大皮下血腫、心臓弁の逸脱・逆流、難治性便秘、膀胱拡張、眼合併症など)及び発生異常(顔貌の特徴、先天性多発関節拘縮など)を伴う特徴的な症状を呈する。


 治療法は、古典型EDSにおける皮膚、関節のトラブルに対しては、激しい運動を控えることやサポーターを装着するなどの予防が有用である。皮膚裂傷に対しては、慎重な縫合を要する。関節型EDSにおいては、関節を保護するリハビリテーションや補装具の使用、また疼痛緩和のための鎮痛薬の投与を行う。血管型EDSの動脈病変については、定期的な画像検査・発症時の慎重な評価と治療を行う(できる限り保存的に、進行性の場合には血管内治療を考慮)。最近、β遮断薬セリプロロールの動脈病変予防効果が期待されている。腸管破裂の発症時には、迅速な手術が必要である。DDEDSにおいては、定期的な骨格系(側彎、脱臼)の評価、心臓血管の評価、泌尿器系、眼科の評価、必要に応じた整腸剤・緩下剤内服などが考慮される。


 予後は患者は、小児期・若年成人期から生涯にわたり、進行性の結合組織脆弱性関連症状(皮膚・関節・血管・内臓の脆弱性、疼痛など)を有し、QOLの低下を伴う。古典型EDSでは、反復性皮膚裂傷、全身関節脱臼、疼痛によりQOLが低下する。関節型EDSでは、時に進行性の全身関節弛緩による運動機能障害、反復性脱臼、難治性疼痛、自律神経失調症、過敏性腸炎症状、慢性呼吸不全により、著しいQOLの低下を伴う(車椅子、寝たきり)。血管型EDSでは、動脈解離・瘤・破裂を中心に、腸破裂、妊娠中の子宮破裂など臓器破裂による若年成人死亡の危険性が高い。欧米の大規模調査では、20歳までに25%が、40歳までに80%が生命に関わる重大な合併症を生じ、死亡年齢の中央値は48歳である。DDEDSでは、進行性全身骨格変形による運動機能障害・反復性巨大皮下血腫により著しいQOLの低下を伴う。

「介護はそれはそれは大変でした。金もメチャクチャかかって、メチャクチャ貧乏だった」

「それでお母さんは?」

「亡くなりました」

 待てど暮せど刺客は現れなかった。

「それにしても、刑事さん山崎賢人に似てますね?」

「よく言われます」

「もういいですか?用事あるんで」

 

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