残り47日(11月12日)


晩秋の風に震えながら、私は腕時計を見た。19時少し前、か。着くのが早かったか。

渋谷の街は一足早くクリスマスの色に染まっていた。行き交う若者たちの中、中年の私は明らかに浮いている。

向こうから、学ラン姿の少年の視線を感じた。ここ数日は、彼……小峰君が私の警護についている。


私の警護担当が、見るからに強面の毛利刑事や赤木刑事でなくなったのは理由があるようだった。

先週末、「グレゴリオ」の一員である深道光が逮捕された。恐らくは、彼は「グレゴリオ」における攻撃要員であったのだろうと、白田は話していた。

もう、3回彼らは失敗したらしい。しばらくは手出しできないだろうというのが、彼の見立てだった。

小峰君も大柄だが、さすがにあの2人よりは荒事に長けているとは思えない。警戒レベルが多少下がったのは、疑いなかった。


とはいえ、油断はしないようにと、念を押されてもいた。

極力人と会わないようにとも言われていたが、それを破ったのには理由がある。



「待ちましたか?」



小走りで、改札から赤いコートの女性が走ってきた。


「それほどでも」


彼女……丸井遥は微笑んだ。


「良かった。では、行きましょうか」


女性とのデートなんて、何年ぶりだろうか。妻の明美が独身だった頃だから、もう12年も女性とこうやって1対1で会ってないことになる。

それは私の貞操観念が固かったからではない。最初の5年は、明美の嫉妬深さによるもの。そして彼女との関係が冷えてからは、平穏が壊れるのを恐れる私の臆病さによるものだ。


では、何故遥さんとこうやって会っているのか。それは、丸井についての話をするためだ。


*


「私と話したい?」


昨日の昼休み、私は唐突な彼女からの電話に戸惑った。一瞬、彼女が「グレゴリオ」と関係があるのではとの考えも頭をよぎった。余程、私も人間不信になっているらしい。


『はい。兄の遺品を手にした時、水元さんの表情が変わったのに気付きました。何か、兄の死について、事情を知っているんじゃないですか』


私の鼓動が早くなった。こんなに勘が鋭い女性だったのか?


私は数秒考え、「知らないと言えば、嘘になります」と返した。誤魔化すことはできたはずだが、何故か口から出たのは違う言葉だった。


『やっぱり……兄が死んだのは、本当に病気なんでしょうか』


「……というと?」


『私が来た時、既に兄は亡くなっていました。ただ、その傍らにフリスクの空ケースが転がっていたのが、どうにも引っ掛かったんです。何か薬を飲んだんじゃないか、って』


「でも、脳内出血と」


『……ええ。薬の成分が検出されたということもなく、警察は自然死と判断しました。でも、兄はミントが苦手だったんです。フリスクなんて、まず食べない』


「AD」の錠剤が、フリスクのケースに入っていたのだ。私は直感した。


「なぜ私を?確かに、丸井の遺品について思うところはあった。ただ、それだけで私に話を聞くなんて」


『あなたが、一番信用できそうに思ったからです。兄の友人は少なかったですが、あなたのことだけは、珍しく良く言ってましたから』


「……そうなのですか」


正直、意外だった。丸井は軽薄で、誰に対しても舐めた態度を取る男だと思っていた。俺たちとも、利害関係だけで繋がっていると思っていたが……


『ええ。兄は人の悪口ばかり言う人でしたけど、あなたのことは『人のいい奴だ』と褒めてました。兄なりに、ですけど』


「丸井なりに、ですか」


『ええ。それに……10年前、私と出会った時のことは覚えてますか?』


「……詳しくは」


何かあっただろうか。遥さんに会った事実しか覚えていない。確か、酔っていた記憶はあるが。


フフ、と笑い声が聞こえた。


『ならいいんです。でも、あなたはあの2人とは違う。だからこそ、兄の死について何か知ってるのなら、教えてほしいんです』


……参った。部外者に、「リターナー」のことは話すなと念を押されている。さっきシラを切らなかったのを、私は後悔した。


「……少し、時間を下さい」


『分かりました。後日でも構いませんが。人に聞かれると不都合な話、なんですよね』


「ええ」


私は辺りを見渡した。確かに、人は大勢いる。万一がない、とは言えない。


『なら、私の店でお話ししませんか』


「店、ですか」


『渋谷でハーブティーの専門店をやっているんです。そこなら、誰も来ないと思います』


*


そして、私はここにいる。久々に女性とこうやって肩を並べて歩いているせいか、正直妙に緊張している。私もまだ枯れてなかったかと、内心苦笑した。


「店で待ち合わせじゃ、ダメだったんですか」


「今日は定休日なんです。それと、茶葉の商談があったので」


「輸入品が多そうですからね。渋谷だと、プロの方もお客に来られるんですか」


「はい。マニアック過ぎて、普通のお客様には敷居が高くなってしまっているかもしれませんが」


遥さんが笑う。丸井とは、随分タイプの違う人間のようだ。ルックスはかなり整っているが、この歳まで独身というのは何かあったのだろうか。

気にはなるが、そこに立ち入るほど私は浅慮ではない。


白田には、事前に彼女の話はした。意外にも、彼は「多少なら話してもいい」という。

彼女が好き勝手に動き回り、「グレゴリオ」の目に止まるのを防ぐためだと、白田は話した。

事実をある程度明かし、警察に任せるよう言えば、それ以上は動くまい。それが白田の見立てだった。


私たちは松涛方面に向かう。円山町のラブホ街に入りはしないかと不安だったが、さすがにそれはなかった。あそこは小峰君には、入りづらい場所だ。

Bunkamuraを左に曲がり、松涛の高級住宅街に入りかかった所に、それはあった。かわいらしい洋風の小さな店舗には、「マリアージュ」との看板がかかっている。


カチャリ、と遥さんが鍵を開ける。草と果実の混ざった複雑な匂いが、ブワッと私に流れ込んだ。


「……これは」


「驚きましたか?120種類ぐらい、取り揃えているんです」


茶葉が詰められた硝子瓶が、ずらっと棚を埋めている。それは壮観とすら言えた。

ハーブティーと言えば、精々カモミールやラベンダーぐらいしか知らない。こんなに種類があるとは、思いもしなかった。


「何か、飲まれますか」


「じゃあ、何かお薦めのものを」


「分かりました」と、遥さんは奥へと消えていく。


窓の外を見ると、小峰君の姿が見えた。寒い中大変だろうと手招きしたが、首を振って拒絶された。確かに、彼の説明をするとなると、それは白田が認めた範囲を越えている。


数分後、白磁のポットとスコーンを乗せた盆を持って、彼女が戻ってきた。


「どうぞこちらのテーブルへ」


コポコポコポ、とティーカップにお茶が注がれる。爽やかな草の香りがした。少し酸っぱい感じもする。


「これは?」


「レモングラスです。お仕事帰りで大変でしょうから、リフレッシュ効果のあるものにしました」


口にすると、素朴だが優しい甘味と、レモンの酸味が広がった。なるほど、少し心が落ち着く。


「いいですね。後で買って帰りましょうか」


「フフフ、ご贔屓にしていただければ」


静かな時間が流れる。このままこうしていられれば良かったが、そうもいかない。


「……丸井の話ですね」


「……はい。兄は、殺されたんでしょうか」


私は小さく頷く。


「その可能性が高いと思っています。ただ、これについては警察が動いている。遥さんは、彼らから連絡があるまでは普段通りにしていて下さい」


「あの……外にいる男の子は」


「……!気付いてましたか」


「はい。水元さんが何も言いませんでしたから、敢えて触れませんでしたけど」


正直、驚いた。小峰君の尾行は、自然だったはずだ。私にとっては、言われなければ分からない程度だ。


「良く分かりましたね」


「……はい。少し前から、妙に勘が鋭くなったんです。実は、あなたに連絡しようと思ったのは、それもあります」


胸騒ぎがする。そう言えば、竹下君も似たようなことを言っていた。彼の方は、もっと具体的な「記憶」があるようだったが。



……まさか、彼女も「リターナー」だというのか?



軽く頭を振る。万一そうなら、話がややこしくなってくる。そもそも、なぜ彼女が私を頼ってきたかも、いまいち腹落ちしない。


「どうしました?」


「あ、いや、何も」


私は冷静になるため、ハーブティーを口にした。どこまで言うべきか?


「……実は、お兄さんに会わないかと誘われていました。私と彼の、2人だけで。

そして、会う約束をする前に死んでしまった。だから、何かあったんじゃないかとは思ってました」


嘘は一言も言っていない。遥さんの声のトーンが、少し下がった。


「兄は、何と」


「『儲け話がある』、と。きっと、何かそれでトラブルに巻き込まれていたんじゃないかと」


「投資の話、ですか」


私は頷いた。


「ただ、ここから先は警察の領域です。彼らに、任せた方がいい」


「……分かりました」


まだ疑われているようだが、これ以上言うのは不味い気がした。

私が席を立とうとすると、「待って下さい」と呼び止められた。手には紙袋を持っている。


「これ、お土産です」


覗き込むと、ハーブティーの小瓶が3つと、パッケージに入ったクッキーが入っていた。


「いえいえ、お気遣いなく」


「お忙しい中、仕事帰りで寄っていただいたお礼です」


これは断りにくい。私は苦笑して、「なら、せっかくなので」と受け取った。


「ありがとうございます。これからも、贔屓にしていただければ」


遥さんは微笑んだ。彼女の目が少し熱っぽく見えるのは、私が愚かだからか?

どうにも、愛情のない夫婦生活が続いていて、私も少しおかしくなっているらしい。


「いえ、是非寄らせて頂きます。何かありましたら、連絡下さい」


これはただの社交辞令だ。きっともう、彼女に会うことはない。




その時は、そう思っていた。




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