残り73日(10月17日)
雨の中、クラウンは圏央道を北へと向かっていく。
いささか退屈な風景に耐えきれず、私は眠気覚ましにカーステレオのスイッチを入れた。
♪イヤリングを外して 綺麗じゃなくなっても
♪まだ私のことを 見失ってしまわないでね……
中島みゆきの湿っぽい歌声が聴こえる。決して明るくなれる曲ではないが、今の私の心情には合ってはいた。
向かう先に何が待ち構えているのかは分からない。ただ、何かを捨てねばならないことだけは、どうも間違いなさそうだった。
♪もしもあした私たちが 何もかもをなくして
♪ただの心しか持たない 痩せた猫になっても……
何もかもをなくす、か。私は苦笑した。そうならなければいいが、嫌な予感は消えない。
金なら、多少は払う覚悟はある。ただ、「アイ」のこれまでの言動からして、おそらく狙いは金ではない。それに、金狙いなら柳沢の方がはるかに多く持っている。
なら、エバーグリーン自由ケ丘に関する瑕疵の暴露か?「アイ」が何をしてくるか分からないのは、先週痛感した。ただ、瑕疵があると現時点で訴えても、その証拠はもはやない。
何より、10年は無事に過ぎているのだ。私一人が騒いだところで、頭がおかしいと見なされてクビを飛ばされるだけだろう。
とすれば、「アイ」が求めるものは何か。……皆目見当がつかなかった。
とにかく、あと1時間足らずで「アイ」に会える。そこで奴に、真意を問い質す。
無味乾燥であっても、一応は平穏な日々を、壊させはしない。私はハンドルを僅かに強く握った。
*
「カフェ・ドゥ・ポワロ」は、圏央道の鶴ヶ島インターを降りて数分の、住宅街にあった。
カフェというよりは、小洒落たケーキ屋のような佇まいだ。駐車場はほぼ満車だったが、幸い1台分だけ空いていた。
クラウンを停め、私はカフェの入口へと向かう。こんな悪天の中だというのに、店は中年女性客でなかなかに繁盛していた。
「いらっしゃいませ、お一人ですか」
若い女性が、私を出迎えた。奥のカウンターには、マスターとおぼしき白髪の男性がネルでコーヒーを淹れている。なかなか本格的なカフェではあるようだ。
「水元です」
女性の表情が、不意に引き締まった。そして奥のマスターに何事かを告げる。マスターは手を止め、こちらに向かってきた。
「いらっしゃいませ。話は聞いております。どうぞ、こちらへ」
マスターは奥の部屋に私を案内した。通された部屋は白一色で、窓すらない。客用の個室にしては、酷く閉塞感がある。
2分ほどして、マスターがコーヒーカップ2つとシフォンケーキを持ってきた。
「……頼んでないですが」
「こちらはサービスですよ。横浜からですか、遠方はるばるどうもありがとうございます」
「いえ、圏央道ができて、大分来やすく……」
……おかしい。私は横浜から来たと、一言も告げてない。「アイ」がマスターに言伝てしたのだろうか。
マスターは静かに笑っている。あるいはまさか、この男が?
「失礼、私は『アイ』ではないのですよ」
マスターは私の心を読んでいるかのように言うと、胸元から名刺を取り出した。「カフェ・ドゥ・ポワロ 白田兵次郎」とある。
「『アイ』の知り合い、ですか」
「上司の上司、ですかな。今日は彼女は来ません」
「え」
コーヒーを一口飲むと、白田と名乗るその男は切り出した。
「『アイ』は今日都合が悪いものでしてね。それに、彼女本人からより、私が話した方が恐らく納得されるでしょう」
そうだ。元々のメールには「私の代理」とあった。とすると、元々この男が私と話す予定だったことになる。
「どういうことですか?そもそも、あなた方は……」
白田は腕時計をチラリと見た。
「それを話す前に、一つ面白いものをご覧に入れましょうか。水元さん、競馬はやられますかな」
「いえ、全く」
白田はスマートフォンを私に見せた。テレビ局の動画サイトのようだ。
「これから秋華賞、G1レースがスタートします。その1着から5着まで、全て当ててみせましょう」
「え?」
そんなことが可能なのか?確か、1着から3着まで順番に当てる馬券すら、相当当てるのが難しいと聞く。5着まで当てるとなれば、それは天文学的確率だ。
白田は目を閉じると淀みなく喋り始めた。
「1着はアカイトリノムスメ、2着はファインルージュ。以下、アンドヴァラナウト、エイシンヒテン、スライリー。1番人気のソダシは4コーナーで失速し、確か……10着でしたかな」
動画では、ちょうどファンファーレが鳴った所だった。スタートが切られ、真っ白い馬が2番手の位置を走る。実況の口振りから、これがソダシらしい。
ソダシは快調に飛ばし、先頭に迫る。ところが……
「あっ……!?」
白田の言う通り、最終コーナーで手応えが怪しくなり急失速していく。それを横目に外から突き抜けた馬が、身体半分抜けた所がゴールだった。
「どうです?私の『記憶力』も、さほど衰えてはいないようだ」
白田がフフッと笑う。……「記憶力」?
ゴール後の掲示板を確認する。順位は、白田の言った通りだった。そして、ソダシの順位は……10着。完璧な「予想」だった。しかも、ソダシの負け方も当てている。
競馬には詳しくない私でも、これがいかに異常かはすぐに分かった。
「そんな、馬鹿な」
「しかし、当ててみせた。これにはあるタネがある」
「タネ?」
「ええ。それより、コーヒーを冷めないうちに。グアテマラをベースにブラジルをブレンドした、当店自慢の一杯です」
信じられない思いで、私はコーヒーを口にする。深みのある苦味が、口に広がった。
「さて、私に訊きたいことは山ほどあるでしょうが……なぜ秋華賞を当ててみせたか、それはこれから説明することを、理解してもらいやすいからです」
「何ですか、それは」
背筋に冷たいものが流れる。目の前で柔和な微笑みを浮かべるこの男が、得体の知れない鵺か何かに見えた。
「水元さん、SF小説は読まれますか」
「いえ、全く」
「その1ジャンルに『巻き戻り』があります。未来の記憶を持ったまま、過去に戻った主人公が、その知識を使って出世したりするというストーリーですな。
小説なら『リプレイ』、漫画なら『未来の想い出』や『代紋TAKE2』辺りですが……まあそれはいいでしょう。そしてここからが重要ですが」
白田はもう一度、コーヒーを口にする。
「私も『巻き戻った』一人なのですよ。そして、この世界には私のような人間が、実は少なからず存在する」
……
…………は???
何を言っている?そんな、非現実的なことが……
ここで、私はさっき白田が見せた「予想」を思い出した。……そうだ。あれはその結果を「事前に知っていないとできない」。白田も、「記憶力」と言っていた。
……白田がなぜ、あんなことをしたのか、私はようやく理解した。そして、そこから導きだされる結論は。
「……まさか、『アイ』もその一人だと?」
「察しが早くて助かりますな」
そんな、馬鹿げたことが。しかし妙に腑に落ちた。後々エバーグリーン自由ケ丘の耐震構造の瑕疵が発覚したとすれば、それを知っている「巻き戻り」がいても不思議ではない。
……とすれば?私の顔面は蒼白になった。
「……ちょっと待って下さい!?まさか、エバーグリーン自由ケ丘に、今後何かが起きると??」
「やっとここに来られた意味を理解されたようですな」
白田の表情から、笑みが消えた。
「エバーグリーン自由ケ丘は、2021年12月29日に倒壊します。原因は、前日の震度5の地震と、それに伴い劣化していた構造材が崩れたこと。『我々』は、それを知っている。
そして、それを止めねばならない。413人の犠牲者を救い、さらなる惨劇を生まないためにも」
「……あなたは、何者だ。そもそも、『我々』とは?先週の少年も、あなたの差し金とでも?」
フフ、と微かな笑いが白田から漏れた。
「勘の鋭い御仁は嫌いじゃない。そう、我々は未来において、治安維持を担って『いた』のですよ。私はとっくに退官していましたがね。
そして、そのうち何人かは『巻き戻り』、別の形で秩序の再構築に向かっているのです。滅びの未来を防ぐために」
「何を言いたいか、さっぱり分かりません」
「まあ、平たく言えば、ですな。我々は警察ですよ。未来の、ね。
そして、重大犯罪とそのトリガーとなる事象を未然に防ぐのが役割です。警察組織にも、既に我々の存在は認知されている」
冗談のような、信じがたい告白だ。だが、いちいち筋は通る。「アイ」が私に内部告発を勧めたのも、そういうことか。ただ、分からないことはまだ山ほどある。
「そんな、現実離れした話が……第一、それを私に教えて何になると?」
「あなたに我々の協力者になって頂きたい。エバーグリーン自由ケ丘の倒壊を未然に防ぐか、最悪死者が出ない形で倒壊させるか。どちらかを実現して頂きたい。
我々は、あれが三友地所主導の手抜き工事で起きたことしか知らない。当の三友地所の責任者であるあなたなら、惨劇を回避できると判断しているのですよ」
「私にそんな力などない!第一、証拠など……」
「全て隠蔽、抹消されているのでしょう?倒壊した後の事後調査でようやく判明したことです。そして、あなたの遺書が決定打になった」
……遺書??
背中を伝う汗の量が、増えた。こんな、10月にしては寒い日なのに。
「一体、それは」
「倒壊したその日、あなたは遺書を残して自殺するのですよ。『倒壊の原因の全ては、私にある』と残して」
「え!!?」
強烈な違和感が、私を襲った。……確かに、エバーグリーン自由ケ丘のことはずっと心の片隅にあった。ただ、「原因の全てが自分にある」などと、私は決して書かない。
あれは、私と丸井、大仏、そして柳沢の4人による、共同犯行だ。自分だけ死ぬということは、私は決してしないだろう。
「どうかなさいましたかな?いささか、衝撃的な話ではありますが」
白田も私の異変に気付いたようだ。私は、気を落ち着かせるために、冷めかかったコーヒーを一気に流し込む。
「本当に、私一人の責任であると、『私が書いた』のですか」
「……と認識しておりますがな。おかしな点が?」
私は頷いた。
「……共犯がいます。彼らの名を出して死ぬならともかく、1人で全部背負って死ぬことは、ないはずです」
「共犯の名は」
私は白田に丸井たちのことを告げた。彼の目が鋭くなる。
「……なるほど。これはそんなに単純なヤマでもないらしい。……そうなると、いよいよあなたに協力してもらう必要がありそうですな」
「協力って、どうやって」
白田もまた、コーヒーを飲み干した。
「エバーグリーン自由ケ丘の瑕疵を見付け証明するには、内部告発ではまず足りない。それが可能な、外部者の青年がいます。
水曜日に、その彼と会って頂きたい。コーディネートは、こちらで行います。それと平行して、先ほど仰った3人の調査も始めさせて頂きます。説得などお願いするかもしれませんが、よろしいですかな?」
私は頷いた。納得できない点は多々あるが、白田が嘘をついているようには思えない。ならば、彼の提案に乗るより他ない。
ただ、分からないことがある。エバーグリーン自由ケ丘の倒壊を防がねばならないのはともかく、「警察」が出張る意味は何なのだろうか。
「一つ、訊いていいですか」
「どうぞ」
「先ほど仰った、『さらなる惨劇』とは」
白田が深い溜め息をついた。
「エバーグリーン自由ケ丘倒壊事故による犠牲者は、413人。その関係者の1人が、復讐として三友地所の本社が入居する『三友グランドタワー』を超小型核により爆破したのですよ。
その犠牲者は6238人。核が十全に爆発していたなら、桁は確実に1つ、あるいは2つ違ったでしょうな。そしてその犯人こそ、あなたが水曜日に会う人物です」
「え?」
「我々の使命は、凶悪、重大事件を防ぐことにある。そして、場合によっては犯人の動機となる事件や事故を防ぐ必要もあるのですよ。
今回は、その典型ですな。彼も『巻き戻り』……『リターナー』だが、幸い『まだ』善良だ。ならば、彼と協力しない手はない」
「誰なんですか、その人物は」
白田が、私の目をじっと見た。
「東京大学理科一類、竹下俊太郎。我々の最重要監視対象ですな」
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