第4話 歴史はシュメールに始まる

「そもそも、シュメール人は紀元前四〇〇〇年頃にはすでにメソポタミア地方南部にいたことはわかっていますが、それ以外のことはよくわかっていないのです」


と、河村先生は言う。


 あ~あ、退屈だなぁ。よくわかっていないことをどうやって覚えろというのだろうと思いながら、ユキは欠伸あくびをかみ殺す。


 二年生になって二度目の世界史の授業。黒板の左上には河村先生の右上がりのクセのある大きめの字で「歴史はシュメールに始まる」と書いてある。その下には例の「肥沃な三日月地帯」周辺の略図が描かれている。青チョークで斜めに描かれた二本の線がチグリス川とユーフラテス川。川の上流・中流・下流に対応して略図の右横にアッシリア地方・アッカド地方・シュメール地方と書かれている。


「メソポタミアにはそれまで誰も住んでいなかったわけではなくて、ウバイド人と呼ばれる人々がウバイド文化を営んでいたんですが」


 ここで息を継いで、河村先生は少し早口になる。


「一説には、メソポタミアの東方から来たシュメール人が、そのウバイド人を追い出して、『シュメール文明』と呼ばれる高度な文明を築いたとされています。この地域は当時、世界の最先進地域だったのです。シュメール人が画期的だったのは、まず人類史上初めて文字、くさび形文字を作ったことです。これは、物の売買に必要だったんですね。『誰に・誰から』──『何を』──『売った・買った』といった記録に使われたのです」


 ユキには河村先生の声がまるで子守歌のように聞こえてくる。


「粘土板に書かれた文字は後世に残るでしょ。すると後世に残すために、物の売買の記録だけじゃなくて、人の歴史が記録される──あ、ちなみに歴史が記録に残るから、文字が発明されるまでが『先史時代』、それ以降を『有史時代』と呼びます──さらに、文字を使って文学も書かれます。代表的なものは『ギルガメシュ叙事詩』、これは『旧約聖書』のノアの箱船の話の原型だと言われています。シュメール人たちは歴史や神話だけじゃなく、さまざまな文章を残しました。『学校時代』という前二〇〇〇年頃に書かれた学園小説の元祖みたいな作品まであるのよ。当時の学校は、先生がやたらと生徒をムチで打ったようなんだけどね」


 と、そこまで言うと、河村先生は教壇上からつかつかとユキの方へ歩み寄り、頭を軽く小突いた。


「『なぜお前は許可無くして居眠りをしたか? 先生は私を鞭で打った』とかね。よかったわね、あなた。シュメールの学校ならムチで打たれてるわよ。山口さん、でしたっけ? あなた、前回の授業でも居眠りしてたわね?」


 しまった、バレてたのか。周囲の子たちが笑いをかみ殺してるのがわかる。ユキは赤い頬をさらに赤くした。さすがに恥ずかしい。


 でも、ユキはまさか正直に「先生の授業が退屈だから眠くなってしまうんです」と言うわけにもいかず、口では、


「すみません」


と恐縮したそぶりで謝るしかない。


「……こうしてシュメール人は裕福になっていったんだけど、その富を狙う外敵からの侵略にも悩まされることになりました」


 河村先生は教壇へ戻り、黒板に描かれた略図を指しながら続ける。


「メソポタミア南部、シュメール地方はこの通り開けた平原だから、攻められやすく守りにくい地勢なんです。ここには敵と戦うのに便利な山や森はありません。そこで、都市の周りに堀や壁を作って敵を防ぐ方法が考えられました。青銅製の武器も使用され、そういう武器を持たない異民族との戦いには威力を発揮しました」


 ああ、戦争か。人類は農業を始めて裕福になったら、戦争を始めたんだっけ。そう、富の奪い合い。


「もっとも戦争は異民族とだけじゃなくて、シュメール人の都市国家同士でも起こっています。こういった戦争を指揮するために『王』と呼ばれる人が登場したとも言われています」


 ユキは思う。それにしても、シュメール人のバイタリティは敬服に値する、と。


 都市を造り、文字を作り、用水路を作って灌漑かんがい農耕を始めた。農業生産力を上げるために青銅器のすきや暦を作り、都市を守るためには城壁や堀を作る。まるで、♪「しばしも休まずつち打つ響き」、だ。授業中に呑気のんきに居眠りしているユキとは大違いだ。


「今ひとつまとまりの悪かったシュメール人に対して、メソポタミア中部にいたアッカド人にはサルゴン一世という強力な王が現われました。前二三三四年、そのアッカド帝国のサルゴン一世によって、メソポタミア南部にあったシュメール人の都市国家は征服されてしまいます」


 ありゃりゃ、負けちゃったのかよ。ダメじゃん、シュメール人。というか、前二三三四年って、四三〇〇年以上昔でも正確な年代がわかるんだ。すごいなぁ、文字があるおかげだよね、とユキはややもすると眠くなりそうな頭の中で、あれこれと考えを巡らせている。


「けれど、アッカド帝国の支配は長くは続きませんでした。メソポタミア南部にシュメール人最初の統一国家であるウル第三王朝が興ります。このウル第三王朝を建国したウル・ナンム王は前二一一二年に即位したと考えられていますが、『ウル・ナンム法典』を制定したことで有名です。この法典は後のハンムラビ法典につながる世界最古の成文法とされ、シュメール語で書かれています」


 ──ちなみに、このウル・ナンム王、メソポタミアの覇権を握った後、盛んに建築事業を行なった。支配者というものはかの秦の始皇帝のように権力を握ると、やたら大きな建物を造りたくなるものらしい。ウル・ナンム王の場合は、ウルのジックラトと呼ばれる巨大な神殿を造営したと言われている。この建物は天体観測に使われたとか、洪水の時の避難所に使われたとか、用途には様々な説がある。また、『旧約聖書』のバベルの塔の元ネタになっているという話もある。


「ウル第三王朝は最盛期にはイラン高原から地中海沿岸まで支配下に置いたとされていますが、長くは続きませんでした。滅亡の原因ははっきり特定されていませんが、一説では当時、農地の土壌が塩化して生産力が半分以下にガタ落ちしたことが原因とも言われています。前二〇〇四年、最後の王イビ・シン王の時代にウルは陥落。王ははるか東方へ連行され、これをもってウル第三王朝は滅亡しました。それ以降、シュメール人は歴史の表舞台から姿を消し、二度と姿を現すことはありませんでした」


 教師歴一〇年あまりの河村先生は手馴れたもので前四〇〇〇年から前二〇〇〇年にわたる二千年間のシュメール人の歴史を授業の前半二〇分でさっさと片づけると、後半は古バビロニア王国の話に移った。


「ウル第三王朝の次に興ったのは、バビロン第一王朝、すなわち古バビロニア王国です」


 ちょっと待って。第三王朝の次が第一王朝? まったくもう、紛らわしいったらありゃしない。


 で、古バビロニア王国はアナトリア(現在のトルコ)にあったヒッタイト王国に攻め滅ぼされて、THE END。そのヒッタイトも、

「……強盛を誇ったヒッタイトも、前一二世紀初頭には系統不明の『海の民』の襲来によって滅亡しました」

と、あっという間に滅んでしまった。諸行無常だ。


 これで前四〇〇〇年から前一二〇〇年まで、約三〇〇〇年分のメソポタミアを中心とした歴史をわずか一時間で講義するという力技だ。なんだか、登場人物が次から次に入れ替わっていく劇を見せられているようだ。終わった後であらすじを訊かれても、上手く答えられないだろう。


 と、そこで授業終了のチャイムが鳴った。


 ユキは、書いてある内容が途中で途切れている上に、そのページが自分のよだれでしわしわになっているノートを見た。

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