第2話 空白の一九万年
「そう、親戚っていえば」
と、男子がまた新しい話題を切り出した。
「数万年前の地球には、三種類の人類がいた、って知ってる?」
「あ、それ知ってる。私たち現生人類ホモ・サピエンスとネアンデルタール人でしょ?」
さすがに「世界史は興味がない」と公言してはばからないユキでも、この二つの名前はすぐに出てくる。
でも、男子は容赦ない。
「はい、もうあと一種類は?」
「ええ~と、何だっけ?」
マジでわからん……。
「デニソワ人さ。これで三種類」
右手の三本の指を立てた男子の声が少々得意げに聞こえる。
デニソワ人とは、二〇〇八年にロシアのデニソワ洞窟で発見された新種の人類である。教科書というのは最新の発見や学説はすぐには反映されないものなので、ユキたちの使っている教科書には載っていない。
「それで昔はさ、ネアンデルタール人のことは旧人、ホモ・サピエンスのことは新人と呼ばれて、同じホモ属に属するといっても全く別種の人類だと考えられていたんだよ。もちろん、両者が結婚して、子どもを作ることはできない、ってね」
「それって、つまり、子どもを作ることが出来ないほど、お互いに生物的には離れた存在だと考えられていたということだよね」
「そうだよ。ところが、二一世紀に入って、ネアンデルタール人の骨からDNAが抽出された。そうすると、驚くべきことがわかったんだ」
「へえ、どんな?」
たいして興味はなくても、話の流れからいって、ユキはこう言わざるを得ない展開だ。
商店街の歩道の上を、ユキたちはノロノロと西にあるお城の方角へ向かって喋りながら歩いて行く。周囲の人から見れば高校生同士のほほえましい光景なのかも知れないが、話題はネアンデルタール人のDNAだ。それにそもそも、周囲に人影はほとんど見えない。
男子は
「ネアンデルタール人のDNAにはホモ・サピエンスのDNAが含まれ、ホモ・サピエンスのDNAにもまた、ネアンデルタール人のDNAが含まれていたんだよ。ヨーロッパ人には、ネアンデルタール人のDNAが平均して一~二%含まれている。最近では、高度な統計とコンピューターモデルを使って、お互いのDNAがいつの時点で相手に入ったのかもピンポイントで特定できるんだって」
──二〇一〇年五月七日付『サイエンス』誌に、アフリカのネグロイドを除く現生人類ホモ・サピエンスの核遺伝子には絶滅したネアンデルタール人特有の遺伝子が一~四%混入しているとの研究結果が発表された。このことは、ホモ・サピエンスの直系祖先が出アフリカした直後、すなわち 約一二万〜約五万年前の中東地域にすでに居住していたネアンデルタール人と接触して混血し、その後ユーラシアからアメリカまで世界中に拡がったホモ・サピエンスは約三万年前に絶滅したとされるネアンデルタール人の血を数%受け継いでいることを示している。
「要するに、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は、何万年もの間、共生してきたんだよ」
この話を聞いたユキは、ちょっとは好奇心を刺激された。
「そっかぁ、私の遺伝子の中にもネアンデルタール人やデニソワ人の遺伝子が少しは入っているのかな……でも、どうしてホモ・サピエンス以外の人類は滅んでしまったのかなぁ?」
「いろいろな説があるんだけど、その中で有力な説は、ネアンデルタール人やデニソワ人は言語能力が未発達で、仲間との協力が思うように出来なかったからだって。だから、ホモ・サピエンスとの生存競争に敗れてしまい、絶滅することになったっていうんだよ。あと、繁殖力──子供を作る能力──がホモ・サピエンスに比べて劣っていたので、数で負けて絶滅したっていう説もあるよ」
「なんだか、かわいそうね」
「でもさ、逆に
「ふ~ん、そうするとネアンデルタール人やデニソワ人も私たちの親戚なんだ。そう考えると、人類の歴史ってすごいね……そうそう、あのさぁ、私、今日の授業を聴いてて疑問に思ったことがあって……」
「えっ、山口さん、ずっと寝ていたわけじゃないんだ」
さもビックリしたように言う男子に対して、ユキは全力で否定する。
「そ、そんなこと、ないよっ! あのさ、人類の歴史って、猿人の出現からだと七〇〇万年、現生人類ホモ・サピエンスの出現からだけでも二〇万年は経ってるって、言われているんでしょ?」
「現在は、そう言われているよね」
「だったらさぁ、おかしいと思わない? 人類は最近一万年の間に定住して農耕を営み文明を築いた。でも、私たちの祖先は二〇万年前から能力的には今の私たちと同じだったはずじゃない? じゃあなぜ、もっと早く農耕を始めなかったのかな、って」
「まったく山口さんって、なかなかユニークなことを考えつくんだね」
男子が笑いながら言った。
「あ、今、ちょっと馬鹿にしたでしょ?」
と、ユキはちょっと大げさにふくれっ面をした。
男子はあわてて手を振って弁解する。
「あ、あ、そんな、馬鹿になんかしてないよ」
そこでユキは、日頃から心の片隅で暖めていた疑問を口にしてみた。
「もしかして、この一九万年の間にも人類は──もしかしたら何度も──文明が興っては滅亡してを繰り返してるんじゃないか、とか思わない?」
男子は一瞬の沈黙の後、声を出して笑った。
「えっ?……ははははは」
これにはユキもムッとするより、さすがに気恥ずかしくなってたずねた。
「そんなにおかしな疑問かなぁ?」
これには男子も悪いと思ったようだ。
「あ、ゴメンね。でも、そのことについては一応、科学的に説明ができるんだよ」
「へ~え、どんなふうに?」
「気候の問題さ」
「気候?」
ユキは、自分の疑問と「気候」という言葉が頭の中で
まるでその気持ちを見透かしたかのように、男子は丁寧に説明をしだした。
「あのさ、山口さん、氷河期って知ってるでしょ?」
「うん、言葉としてなら」
「約四九〇〇万年続いた地球史上最後の氷河期が、やっと一万年前に終わったんだよ」
「四九〇〇万年~?!」
さすがにそこまでは知らなかった。全くユキには想像もつかない長い時間だ。そうか、人類が出現するよりずっと前から、地球は氷河期だったわけか。とすると、人類は氷河期の産物?
「地球の気候は、つい最近になって安定していただけで、過去にはもう無茶苦茶変動しまくっていたことがあるんだってさ」
「それって、
「うん、それもあるけど、もっと激しい感じ。過去には、氷河期なのに突然ある年、現代と同じくらいの気温まで上昇し、さらに翌年には元通りに下がる、といったくらい激しい変動をしていたらしいよ」
「すごいね。そんなに大きく変動するのなら『地球温暖化を止めよう』なんてスローガンも無意味だよね」
「そう言っちゃうと語弊があるかも知れないけど、実は地球の気候は人類の予測不可能なくらい変化しまくってるから、『地球にあるべき本来の気候』なんてものは存在しないんだよ」
この時、以前なら四月の夕方にしては生暖かい風がユキの頬を撫でた。
男子の前髪が風に吹かれて二筋立ち上がった。まるで昆虫か何かの触覚のようだ。
春という言葉は残っても、季節としての春はこの国から消えつつある。近年は桜の花も一斉に咲かなくなったので、一昨年から気象協会も桜の開花予想を取りやめていた。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
(世の中に桜というものがなかったならば、春を過ごす
人の心はどんなにかのどかなものでありましょう)
と平安朝の歌人は
実際、現在の温暖化がどこまでいくのかはわからないが、過去の気候変動を見ると、気温の上昇には上限があり、逆に下降した場合には
そして、そもそも地球は長期的に見ると少しずつ寒冷化している。
もし人類の活動によって、来たるべき氷河期が遅らされているとするならば、それは良いことなのだろうか、それとも悪いことなのだろうか?
少なくとも、ここ一万年、気候は「例外的に」温暖なまま安定していた時代だったが、これがいつまでも続くものではないことは確実だ。そしてたぶん、人間が何かする/しないは関係なく、地球の気候はまたいつか大きく変動する時が来るだろう。
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