世界史の教科書には宇宙人も超古代文明も載っていない
喜多里夫
第1話 クラスメイトの男子
今日は二年生に進級して、はじめての世界史の授業。
「……というわけで、一万年ほど前に最後の氷期が終わると地球は温暖化し、自然環境は大きく変化しました。中緯度では落葉広葉樹林が広がる一方で絶滅する大型動物もいて、人類は新しい環境への適応を迫られたのです。そのような中で人類は世界各地で農業を始めました。なかでも重要だったのは、約九〇〇〇年前、西アジアのいわゆる『肥沃な三日月地帯』で、麦の栽培と山羊・羊・豚・牛などの飼育が始まったことです。これが後に古代文明へと繋がっていくわけですね」
と、世界史担当の河村絵里先生が、人類の出現から最終氷期の終わりまでの数百万年に及ぶ長い先史時代の歴史をわずか五〇分弱で早口に概観し終えた途端に、
♪ピ~ンポ~ン、パ~ンポ~ン
と、ちょっと間抜けな感じにすら聞こえる授業終了のチャイムが鳴った。
ナイスタイミング!
と、山口ユキは自分の頬をわざと軽くつねりながら思う。
いけない、いけない。もう少しで熟睡モードだった。
「起立っ! 礼っ!」
いつもならキリッとしているはずの室長の号令も、今のユキの頭には、なんともボンヤリと響く。心なしかよろよろと立ち上がって、言われるまま礼をする。第三者が見たら、礼というより軽く会釈をしただけにしか見えないだろう。
五限目の世界史の授業は眠い。ダメだ、こりゃ。
「さっきは眠そうだったね」
左横の席の男子が声をかけてくる。
「完全に船を漕いでいるのがわかったよ」
船を漕ぐ、なんて最近の高校生はまず使わない古風な言い回しだが、要するに居眠りをしていたということだ。
「もう~」
と、ユキは頬を心なしか膨らませてみせる。同じクラスになったばかりの、まだ顔と名前も一致しないような男子に、授業中の居眠りを指摘されて面白いはずがない。
「世界史は嫌いなの?」
と、その男子。
「う~ん、そんなに嫌いというわけじゃないけど、今日の範囲はあまり興味ない」
「どうして?」
どうして?と言われても困るんだけどな、と思いながらユキは答える。
「特に今日なんかさ、教科書の一番初めの何万年も昔の人類の起源の話でしょ。そんな昔の話が私と何の関係があるのって思うし、そもそもそんな昔の話、どうして真実だと証明できるの、とも思うのよ」
と言いながらユキは世界史の教科書とノートを机の中に片付け、六限目の数学の教科書とノートを取り出す。
後ろの席の男子は、もうそれ以上話しかけてこなかった。
放課後、空が真っ赤に染まり、太陽が大きく傾いて西の山脈に沈もうとしている頃、ユキは、高校の正門から一人、自転車で外へ出た。
ここは三重県亀島市。
学校からユキの家までは自転車を漕いでおよそ一五分。正門を出たユキは、学校の前の道をまっすぐ西へと向かう。
ユキの通っている亀島高校は、ここ亀島市では唯一の県立高校だ。
ユキはその亀島高校、通称亀高、普通科の二年生になったばかり。
いかにも地方の高校にありそうな、白い半袖のブラウスと長めのチェックのスカートの制服を、野暮ったいと思われるくらいきちんと着こなしている。
近年の温暖化の影響で、四月でも最高気温が二五℃を超える夏日が多くなったため、ユキももう半袖を着ている。
ポニテの頭にうっすらリンゴ色の頬。ふっくらとした丸顔に二重のくりくりした目。かわいらしいと言えばかわいらしいが、とりたてて美人というほどもないような女の子。
高校の西隣は小学校。ユキの自転車はその前を順調に飛ばしていく。
小学校を過ぎると道沿いに東西に延びる商店街。
ここは亀島市では昔からある一番大きな商店街だったのだが、二一世紀のこのご時勢、御多分に洩れず完全に寂れていて、ユキの視野に入る道路沿いの店も何軒かシャッターが下りたままだ。おそらく永久に。
二年前、リニア新幹線の新駅が市のはずれの山の麓にできたのだが、その恩恵はこの商店街には全く及んでいないようだった。
暗くなってきたが、何軒かの食料品関係の店──八百屋や肉屋、パン屋などは開いている。街灯はついているものの、人通りはまばらだ。
この商店街に一軒だけ、まるで採算を度外視して開けているような本屋がある。
「あ、そうだ。今日は発売日だったっけ」
ユキは目当ての月刊誌を買おうとして、店の前に自転車を止めると、店内に入ろうとした。
あっ。いた。
左横の席の男子。店の出入り口の近くの雑誌コーナーで何か立ち読みしている。向こうもこっちに気づいたらしい。
「あ、山口さん」
あ、見つかった。いや、別に悪いことをしているわけじゃないからいいんだけど。というか、相手は自分の名前を覚えているのに、自分は相手の名前が何だったか、よくわからない。嫌な気分だ。
ユキは軽く会釈だけすると、そそくさと雑誌の棚へ行き、棚にあった目当ての雑誌を掴むと、さっさとレジで精算して店を出ようとした。
ところが、その男子も急いで今まで立ち読みしていた雑誌を置いて、まるでユキを追いかけるように店の外へ出てきた。
「ねえ、今、帰り?」
初めて同じクラスになったのに、結構なれなれしく話しかけてくる。
「山口さん、さっき五限目が終わった後」
「え~、何だっけ?」
「何万年も昔のことが、真実かどうか証明できるのか?て言っていたよね」
「う、うん」
うわっ、本人も忘れかけていたことを覚えている。もしかしてこの人、私に気があるのかも?
気のせいか、くすっ、とその男子に笑われたような気がした。
男子は徒歩で、ユキは自転車を押しながらノロノロと商店街を並んで西へ向かう。
「それが意外とわかるんだよ」
「へえ、どうやって?」
「遺伝子だよ、遺伝子」
「どういうこと?」
「人間一人一人の遺伝子を解析すれば、人類の歴史もわかるんだよ」
「そうなの?」
「そういうものなんだよ。でね、人類の遺伝子ってね、意外と多様性がないって、知ってた?」
「えっ、ううん」
ユキはまさか下校途中に名前もまだよく知らないようなクラスメイトの男子から、遺伝子の話をされるとは思ってもみなかった。
「アフリカの同じ山にいるゴリラ二頭の遺伝子よりも、アフリカ中部と南米の南端にいる人間の遺伝子を比べた方が差異は少ないんだって」
「それって、どういうことなの?」
「つまり、人類はもともとすごく少ない人口から世界に拡がっていったということさ」
「少ないって、どれくらい?」
「それが、数千人規模だって。夫婦にしたら、せいぜい千組とか二千組ていった感じかな」
「え~っ、そんなに少なかったの?」
「そう。信じられる?」
「信じられない。まるで絶滅危惧種じゃない」
「その通りだね」
男子は笑った。どうもユキの「絶滅危惧種」という言葉がツボにはまったようだ。
「人類がたった数千人規模の集団だったとすると、それこそ、疫病とか飢饉とか、何かの原因ですぐに全滅しかねない数だよ。そして、そこまで数が減った原因は火山の巨大噴火なんだって」
──今から約七万五〇〇〇年前から七万年ほど前に、インドネシアのスマトラ島にあるトバ火山が大噴火を起こして、地球の気候の寒冷化を引き起こし、その後の人類の進化に大きな影響を与えたという(トバ事変)。このトバ・カタストロフ(破局)理論によれば、大気中に巻き上げられた大量の火山灰が日光を遮断して「火山の冬」を引き起こし、地球の気温を平均五℃も低下させたそうだ。そして、この噴火による地球の寒冷化現象は数千年続いたとされる。
その結果、この時期まで生存していた人類の別の種族(ホモ・エレクトス)は絶滅したと考えられる。トバ事変の後まで生き残ったホモ属は、ネアンデルタール人と現生人類ホモ・サピエンスのみである。その現生人類もトバ事変の気候変動によって総人口が一〇〇〇人から一万人程度にまで激減し、その結果、人類の遺伝的多様性は失われた。現在、人類の総人口は七〇億人以上にも達するが、遺伝学的に見て、個体数のわりに遺伝的特徴が均質である。その理由は、トバ事変のボトルネック効果による影響であるとされる。
ユキは正直に感嘆の声を上げた。
「すごいなあ。人類って、本当に少ない人数から発展してきたんだね」
「ロマンがあるよね……て、言い方はダメなのかな。なにせ滅亡の危機だったんだから」
「あ~、ということはさぁ」
「なに?」
「私たち、先祖をさかのぼっていったら、みんな親戚だってこと?」
「まあ、そう言えるかもね」
「それって、すごくない?」
「だよね。この町の人、みんな親戚!」
「あなたも私もみんな親戚!」
二人は互いの顔を見て笑い合った。たまにすれ違う通行人が、
「この高校生たち、いったい何の話をしているのだろう?」
とでも言いたそうな、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます