第31・5話

 奥村クンが階段から落ちた――。


 その連絡を受けた時、将成の頭は真っ白になった。


 その日将成は例の如く定期健診のため病院に来ていた。

 健診項目から、その日は時間内に学校に寄ることは難しいだろうと踏んでいたので少しだけ気が落ちていた。

 全ての健診項目が終わり家に帰宅しようと荷物をまとめていた頃、携帯に電話が掛かる。

(……誰だよ……佐央里?)

 珍しいこともあるものだ。まさか彼女から電話が掛かってくるなんて。将成は不思議がりつつも出ないというのも変なので3コールあたりで電話に出た。

「……もしもし? お前、今日俺が病院だって知ってて連絡して、」


『どう、どうしよう』


 画面越しの佐央里の声はいつものような調子ではないことに不安を覚える。動悸が早くなるのを感じつつも将成は冷静に彼女に問う。何がそんなにも彼女を不安にさせているのかを知らなければならないと将成は思ったのだ。

「佐央里、ゆっくりでいいから。何があった?」


『わ、私を、庇って……奥村クンが、階段から……落ちた――』


 彼女の声が、妙に鮮明に聞こえた。

 不意に出た驚きの声は、吐息となって消えた。

 何も聞こえなかったのだから間違いない。

 はやる鼓動を抑えながら将成は行く予定の無かった学校へと急いだ。


 学校に着き保健室へと直行する。

 保健室に入ると佐央里が涙で目元を腫らしながらベッドに横たわる海音を見ていた。海音は静かに眠っていた。額のガーゼが痛々しく、頬にも小さな痣があった。階段から落ちた、というのは本当らしい。

「……将成……」

「どうしてこうなってるんだ。もう美里先生みたいなことは起こさないって約束しただろ‼」

「ち、違うの、違うのよ……」

 佐央里の涙が止めどなく溢れる。将成は彼女を泣かせているという自覚はあれど、そこに申し訳なさは微塵も感じていなかった。無慈悲だというひともいるかもしれないが、それには理由がある。


「もう嫌なんだよ……大事なひとが、傷つくのを見るのは……!」


 理由、それは前例にある。

 将成と佐央里の恩師であり、今眠っている海音の母親。

 奥村美里の死。

 それが彼らの暗黙の了解。

 佐央里はただごめんなさいと謝り泣くばかりであった。


 海音が起き、今回のことは不問としてくれと懇願されたことで将成は佐央里を責めることを止めた。将成はやるせない気持ちになりながらも、海音がいいと言うので堪えた。

 意識も正常なので帰宅してもいいということになった。保健室から出て廊下を数歩進んでから、将成が心配そうに海音の顔を覗き込んだ。

「……本当にどうもないか?」

「大丈夫だよ。ちょっと痛いけど……。になってるんじゃないかな」

 海音はガーゼのあてられた額部分をさする。

「病院とか行かなくても、」

「だから大丈夫だよ。意識もちゃんとしてるし。心配しすぎはよくないよ、天川くん」

「でも……」

 将成は大変申し訳なさそうな表情をして海音を見る。海音は「もう」と呆れた表情をしつつ、将成の頬を自分の両手で優しく叩いた。ぺちん、と可愛らしい音が渇いた廊下に小さく響く。将成は思わず「え」と声を漏らした。

「僕が大丈夫って言ってるんだから大丈夫なんだよ! おっけー?」

「お、おっけー……。……ごめん。パニくってた。本当に大丈夫なんだな」

「うん。本当に大丈夫。心配してくれてありがとう、天川くん」

 海音は将成に微笑んだ。

 将成も釣られて微笑んだ。

 夕日が窓に反射して、廊下にふたり分の影を伸ばした。

「……そういえば、明日のホームルームから文化祭のこと少しずつ決めてくらしいよ」

「文化祭! うわー、今年も出られるのか~。楽しみだな、奥村!」

「う、うん」

 急に笑顔を取り戻した将成に安堵しつつ、文化祭には苦い思いでしかない海音はなんとも微妙な感情になりながらも楽し気に話す彼を見て、自然と微笑んだのだった。

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