第29話

 夢を見ていた。悪夢だった。

 この時期、必ずといってもいいほど見る、悪夢だ。


 中学一年の夏休み。僕の母が死んだ。

 事故死だった。

 事故は、内容にすれば単純なものだった。

 受け持っていた院内学級生の一人と口論になり、その子が道路へ飛び出したことによるもので、その子を庇う形で母はトラックに轢かれて死んでしまった。

 鈍い音と悲鳴、そして一面に広がる赤色。

 僕は今でも鮮明に憶えている。


 けれど、これは真実とは少し異なる。


 あの時、忘れ物を届けに行った。

 母さんを見つけて声を掛けた。そのタイミングが悪かったのだ。


 僕があの時、母さんに声を掛けなければ、

 きっとあの事故は防げたのだ。

 僕があの時、母さんに声を掛けなければ、

 きっと母さんは死なずに済んだのだ。


 葬式場に親戚が集まっている。

 僕は父さんの隣でただ立っていることしかできなかった。

 空っぽだった。


 どこかでひそひそ話が聞こえてくる。


 ――「可哀想に」

 ――「まだ中学に上がったばかりの子供がいるのに死んでしまうなんて」

 ――「他人の子供を庇って死ぬなんて」

 ――「仕事柄の影響もあったのでしょう? さすが偽善者ね」


 母さんの、陰口だった。


 どうしてそんなこと言うんだ。

 母さんは立派だった。

 母さんは子供を守ったんだ。

 それのどこがいけないんだ。

 それのどこが偽善なんだ。

 僕は、母さんが誇らしいよ。


 誇らしいと、思いたいよ。


 僕はその場にいられなくなった。

 気持ち悪くて、気持ち悪くて、立っていられなくなった。


 僕は不登校になった。

 ひとの言葉が信じられなくなった。

 外に出ることが怖くなった。

 友達に、声を掛けてしまったら、という恐怖が僕の脳から離れない。


 怖い。怖い。怖いんだよ。


 だから僕は父さんにお願いして、通っていた中学を辞めた。

 辞めて違う中学へ入り直した。

 そこからは、まるで別人のようだったと、自分でも思う。

 勉強に没頭した。

 何もかも忘れるために、勉強だけに没頭した。

 友達なんていらない。

 必要ない。

 勉強だけが僕の救いになるくらいに、勉強に没頭した。


 いつしか、僕がしていることが母さんと同じことだと気が付いた。

 誰かのために勉強をしている。この場合の誰か、は僕自身だったが、それでも母さんとの唯一の繋がりを見つけたような気がした。

 その瞬間、心が軽くなった、ような気がした。


 そうして高校に進学する。

 友達を作る気はない。これだけは変わらない。

 一年生の頃は無事に終わったと言っても過言ではない。

 二年生になって、少しずつ変わっていった。


 天川くんに出会って、僕の計画は狂い始めた。


 あの時、天川くんは言った。

 もう六年も前の話だというのに。

 母親が実母でないひとだと聞いて、彼は、


『それでも大切な思い出じゃんか』


 と、母さんのことを気にしてくれた。


 天川くんは、母さんのことを、大切に思ってくれていた。

 母さんのことを、忘れないでいてくれた。

 母さんとの繋がりを、思い出と言ってくれた。


 それだけで、僕の心は揺らいだ。揺らいでしまった。


 思えばこの時から僕は、


 彼に恋をしてしまっていたのかもしれない。


 次に悪夢から覚めた時、近くに天川くんがいてくれたらいいな。

 僕は君が微笑んで、「おはよう」と言ってくれればそれでいいんだ。

 そうしてくれれば僕は、また頑張れる気がするから。


 だから夢よ、早く覚めてくれ。


「おはよう」と彼に、伝えたいんだ。


 雨の音が遠くで聞こえる。

 もうすぐ意識が浮上する、そんなだった。

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