第15話
大学へ行くこと、そして三者面談のことをお母さんに伝えようと覚悟を決めたその日の夜、僕はひとり部屋で悶々と悩んでいた。
覚悟を決めたというのは聞こえが良すぎる。決めたはずなのに、僕の足取りは重くなかなか前に進むことが出来なかった。
(どうしよう……!)
伝えるにしてもどうやって。普通に話せるだろうか。仮にも家族だから大丈夫かもしれないが、普通には話せないかもしれない。
お母さんを不快にさせてしまったらどうしよう、という気持ちが前に行き過ぎて、どうしようもない気持ちに駆られる。
ピコンッ、とまるで時を見計らったような、助け船の音が聞こえた。僕はメッセージを開き内容を確認する。宛先は天川くんだった。
〈こんばんわ。今日病院来てた? なんか奥村に似た子見掛けたんだけど……。見間違いだったらごめん!〉
〈こんばんわ。今日は父さんのお見舞いで病院に行ってた。多分、それ僕〉
〈やっぱりか! 話しかけようと思ったんだけど兄ちゃんに遮られちゃってさ。お父さんの容態はどう? 順調そう?〉
〈うん。上手くいけば来週には退院だって〉
〈そっか! それは良かったな!〉
彼とのやり取りは楽しい。僕の欲しい言葉を一番にくれる。不安でいっぱいの、ざわついている騒がしい心の中を、優しく治めてくれる。
(聞いてみても、いいかな)
こんなことを相談するのもどうかしている。でも、きっと天川くんはこんな相談でも聞いてくれるだろう。
甘えてみてもいいのかな、そう、僕の中の悪魔が囁いた。
〈天川くん、あの、ちょっといいかな〉
僕がそうメッセージを送るとすぐに既読が付き、返信を待っていると急に電話が掛かって来た。焦って一度僕はその電話を切ってしまった。
「あ。」
画面に映し出された着信履歴を見て背筋がぞっとした。どうしよう、今ので嫌われてしまったかもしれない。そう思っていた時、再び天川くんから電話が掛かってくる。次はちゃんと出る、という気持ちで通話ボタンを押した。
「こ、こんばんわ」
『ごめん、忙しかった⁉』
第一声がそれ? 逆に僕は申し訳なくなった。さっきのは完全に僕が悪かったのに、天川くんに謝らせてしまった。ああ、心苦しいよ、天川くん。
「大丈夫! 僕が手違いで、切っちゃったんだ。ごめん……」
『そっか。なんか、急に電話にしてごめん』
さっきから双方ともに謝り続けている。そのことに少し可笑しさを感じて、僕は思わず笑ってしまった。その声が聞こえたのか電話越しに『ん?』と聞こえた。
「ああ、こっちの話だから。大丈夫」
『……それで? ちょっといいって、何の話?』
「あ、うん。あの……今から、お母さんに三者面談のこと言おうと思うんだ、けど。……天川くんだったら、健さんにどうやって聞いたりするのかなって」
少しだけ話の筋がずれたような気がするが、彼に聞きたい事柄は大体合っているはずだ。僕は内心ドキドキしながら天川くんの答えを待った。
『……んー兄ちゃんにぃ? 忙しいから行けねえって断られたばっかだしな~』
「え」
『まあ、でもそうだな。……大丈夫だよ。前にも言っただろ? 奥村のご両親は、絶対に奥村のことを否定しない。もし忙しくても、うちの忙しいとは違ってちゃんと時間を作ってくれるよ。』
――だから大丈夫。
彼の『大丈夫』を聞きたくて、僕は連絡をしたのかもしれない。
彼の『大丈夫』は僕にとっての魔法だ。
「……ありがとう、天川くん」
僕たちはその後少しだけ話し込み、そうして切りのいいところで電話を切る。
ひとつ、深呼吸をして、僕は部屋を出た。
リビングに入るとお風呂から上がったばかりのお母さんと美魚が髪を乾かしていた。この親子の時間を邪魔したくないが、僕もそうは言っていられない事情がある。お母さんが僕の存在に気付いたので、僕はお母さんに「ちょっといいですか?」と声を掛けた。美魚はテレビを見に行き、僕とお母さんはリビングの机に向かい合った。
僕は三者面談の紙を机の上に出した。端から見ればこれはきっと、離婚を切り出す夫婦のようだと思う人もいるかもしれない光景だろう。天川くんならきっとそう突っ込んで、笑いに変えてくれるかもしれないが、そんな彼はこの場にはいない。
「……夏休み明けに、三者面談があって、父さんが来られなさそうだからお母さんに来てもらいたいんだけど、いいですか?」
「ええ。大丈夫よ。……あ、この日の二時なら予定が空いているから、そこにしましょうか」
お母さんは紙に名前をサインする。こんなにも早く解決するだなんて、想像もしていなかった。僕はいったい、何に怯えていたのだろう。
馬鹿みたいだ。
僕の中で何かがすとんと落ちた、そんな気がした。
「はい。……あの、お母さん」
「はい?」
「ありがとう」
僕はお母さんに初めて笑ってお礼を言うことが出来た。お母さんはそんな僕の表情が大層珍しいのかパチパチと数回、目を瞬かせた。
「……前に、父さんが三者面談に来られなかった時、お母さんに来てもらったことがあったよね。その時ははっきりとは答えられなかったけど、僕、将来のことちゃんと考えてるんだ」
「……」
「僕は母さんと同じ院内学級の教諭になりたいんだ。勉強してるのも、そのためで。あの時は理由も言わずに、頑なに大学に行きたいって言って、困らせてごめんなさい。有耶無耶にしてごめんなさい」
僕は一年前のあの日のことをやっと謝ることが出来た。きっと優しいお母さんは、謝ることではないと思っているかもしれないけれど、僕の中でのわだかまりがまたひとつ無くなった気がする。
「……じゃあ、美里さんの為にも、頑張って夢を叶えなきゃね」
「……うん……!」
僕の中で何かが吹っ切れたのは、天川くんのおかげだ。
休み明け、彼に沢山お礼をしたいな。
外で鈴虫の声を聞いた。彼のような優しく爽やかな風と音を感じた夏の夜だった。
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