第9・5話

 将成が心臓病の検査結果に引っ掛かり入院を強いられてから五日が経過した。現在時刻は夕方の四時を回ったところだ。明日からは学期末テストが始まる。今頃海音は家で勉強でもしているのだろうか。将成はベッドに寝転びながら考えていた。

「……つまらないなあ……」

 検査項目で引っ掛かった箇所は、将成が再度確認しても特に危険と繋がってるとは思わなかった。けれど、医者――の卵――である健に言わせればどれかひとつでも引っ掛かってしまえば入院行なのだという。全くって過保護だとしか言いようがない。

 少しだけ気分転換に病室を出て散歩でもしよう。入院生活に慣れているとはいえ、ここでずぅっとじっとしていても体が固まってしまう。それは時間の無駄でしかない。将成は体を伸ばし、ベッドから出て、病室を出た。次の検査まであと一時間ほど時間がある。今日は体調もすこぶるいいので外にでも出てみようか。将成はそう決めると廊下を駆け出した。

 瞬間、近くにいた看護師たちに叱られたことは――言うまでもないだろう。


 夕方だからと思ってカーディガンを羽織ってきたが、これは間違いだった。病室内がエアコンで涼しかったから羽織っていたけれど、外は暑過ぎた。カーディガンを脱ぎ、検査着の状態になる。

「あー……割と涼しいか……?」

 気分的には涼しい。うん。将成は自己完結して中庭にある花壇の淵に座る。風が少しだけ出ていて物理的にも涼しいと感じた。やはり外に出るといい気分転換になる。将成は自然と笑顔になっていた。

 ふと、座った反対側に小学生くらいの可愛い女の子が花壇の中の花を眺めているのが視界に入った。親らしき人物も見当たらない、迷子だろうか? 将成は数秒間考えた末、少女に話し掛けることにした。


「……おーい、君。こんなところでどうした? 迷子かな?」

 将成は微笑みながら少女に話し掛ける。少女は首をかしげて将成のことを見た。良かった、恐がられているわけではないことを確信すると将成はほっとした。しかし、何秒間か見つめたあと少女は将成から視線を外した。「あれ?」と将成は頬を右の人差し指で小さく掻いた。

「……えと、この花が好きなの?」

 少女が見つめていた花のことを聞いてみる。少女は少し考えた素振りをしたあと、ふるふると首を振った。

「かいくんが好きなの」

?」

 うん、と少女が頷く。将成は少女と同じ目線まで腰を下ろして次の言葉を待つ。

「かいくんがね、このお花をね、みおの誕生日にくれたの。好きなお花なんだって」

「へえ~。可愛いお花だね」

「うん」

 みおちゃんという少女は少しだけ微笑んだ。すごく可愛らしい笑顔だった。将成は、自分にもし妹がいたならばこんな子がいいなと本気で思った。

 ここで本題に入る。みおちゃんはどうしてこんなところにいるのか。迷子なのか、しくはこの病院に入院している小児病棟の子供なのか。もしそうなら今頃看護師たちが探し回っているかもしれない。将成は優しくみおちゃんに問い掛けた。

「ねえ、みおちゃん。みおちゃんはどうしてここにいたの?」

「……パパが怪我して今日から入院するから、ママとそのお話してるの」

 なるほど。つまり、みおちゃんの父親がなんらかの理由で入院するほどの怪我を負い、退院までの話し合いでもしているのだろう。そこに自分がいてはいけないと子供ながらに彼女は思ったのだろうか。

「かいくんもお話聞かないとだから、と思ってお外出たら」

「ここにいた、と」

「うん」

「そっかあ。でももうそろそろ戻った方がいいかな。ママとかいくんが心配してるだろうし」

 将成がそう言うとみおちゃんは項垂うなだれてしまった。

「パパのお部屋、分かんなくなっちゃった」

(やっぱりか)

 想像していた通りの答えが聞けて、将成は安心した。強がっていても子供は子供。ちゃんと分からないことは分からないと言えて偉いと感心した。

「じゃあ、お兄さんがパパのところに連れて行ってあげるよ」

「場所、分かるの?」

「お兄さん、ここの生活長いから。割と何でも知ってるんだよ?」

 自慢することではないけれどね、と心の中で呟く。

「ちなみにパパはどんな怪我をしたのかな」

「足の骨、折った? ひねった? ってママが」

「ていうことは整形外科病棟かな。よし、パパの場所がなんとなくわかったぞ! みおちゃん、行こうか」

 将成はみおちゃんとはぐれないようにと手を差し出す。みおちゃんはおずおずとではあるが将成の手を取った。そうして目的の整形外科病棟へと向かおうとしたその時――。


「……!」


 と、聞き覚えのある声が将成の耳を刺激した。

 いるはずのない、今一番会いたいと思っていた人物が目の前にいることに、将成は一瞬固まってしまった。声の主である海音を見て、無意識にみおちゃんの手を強く握ってしまった。「いっ……」というみおちゃんの声で将成は現実に意識を戻した。

「あ……ごめん……」

「天川くん……? どうして……美魚と?」

「みおちゃんがパパの病室に戻れないって言ってたから連れて行こうと思って……。そっか。みおちゃんの言ってた『かいくん』って、奥村のことだったか」

「うん、かいくん」

「天川くんはどうして」

「……この話、長くなると思うし、お母さんも心配してるだろうから先に戻ろう?」

「分かった。美魚、行こう」

「うん」

 みおちゃん――こと美魚は海音から差し出された左手を見て彼の手を取った。こうして見ると、海音がちゃんとお兄ちゃんをしているという光景がとても微笑ましいものに見えて将成は内心嬉しく思った。


 美魚を無事に奥村夫妻のもとへ送り届けると、将成は海音のあることに気が付いた。少し考えたあと、ひとこと奥村夫妻に断りを入れて海音の手を取った。

「すみません、息子さんをお借りしてもいいですか?」

「え?」

 向かう先は自分の病室。誰にも見られることのない密室。そこに今行かなければならない理由が将成の中にはあった。

「ちょ、ちょっと。痛いよ!」

「うん。ごめん」

「ごめんじゃなくて……。ていうかここどこ」

「ん? ここは俺の病室。個室だから安心していいよ。じゃあ、ここに座って」

「……なんで?」

 海音は「帰りたいんだけど」と言いつつ、渋々将成に勧められた椅子に座る。将成は座ったことを確認すると、海音の前に立膝を付いて彼の手を優しく包むように握った。海音は本当に何をされているのか分からないといった表情をしていた。

「もう大丈夫だよ。ここには、奥村の恐いものなんて何もないよ。だから……

 その言葉を聞いた瞬間、海音の呼吸が浅くなる。

 父親の部屋を訪れた時、海音の手がわずかに震えていたのを将成は見逃さなかった。それは緊張からなる震えで、あの空間にいることが苦痛なのだと一瞬で察した。これはあの夫妻が悪いわけじゃないということは将成には理解できていた。だから、これは海音の心の問題だと思ったのだ。

 どんな事情であれ、あのままあの場所に居れば、海音の心が壊れてしまうのではないかと将成は思っていた。だからこの場所に連れてきたのだ。

 海音は息を整えようと、必死に浅い呼吸をどうにか止めようと俯きながら呼吸をしている。これ以上酷くなるようなら健を呼ぼうかと将成は考えていた。海音の手をさすりながら「治まれ」と願う。

 数分間の、短くも長い戦いだった。

「……奥村?」

 海音が急に静かになったので、将成は彼に声を掛けた。ぐらり、と海音の体が傾く。こうなることはなんとなく予想していたので、将成はすぐに彼の体を支えることに成功した。海音は気を失っており、そして彼の目尻から、一筋の涙が流れた。


「――……入院してる俺より、病人みたいな顔色、するんじゃないよ」


 この呟きが今の海音に聞こえているかどうかは定かではない。

 時刻は、夕方五時を過ぎようとしていた。

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