第9話
教室にエアコンの冷房が付き始めた頃、僕はふと、この空間がいつもとは違うことに気が付いた。
それはただの気のせいかもしれない。
でも、そうじゃないのかもしれない。
そんなことを、窓の外を眺めながら思っていた。
今まで天川くんが二日連続で教室に来なかったことなどあっただろうか。いや、少なくとも僕の記憶では無い。だから、少しだけ違和感を持った。担任からは特に彼についての連絡が無かったので気にも留めていなかったけれど、この間見てしまった彼の傷を思い出す度に僕の心はざわついて仕方がなかった。
とはいえ、僕は天川くんの連絡先を知らない。連絡を取ろうにも、相手の携帯番号すら知らないのだ。ああ、こんなことなら聞いておけばよかったと思う。聞く機会なんて幾らでもあったのだ。
天川くんが教室に来なくなって、ついに五日が経とうとしていた。明日から学期末テストが始まるというのに。彼はこれ以上単位を落として大丈夫なのだろうかと、僕はそれだけが心配でならなかった。
心配、するべきは自分のこともである。
家までの帰路の道中、僕は未だに提出できていない進路希望調査表を眺めていた。
以前――高校二年生の頃に――、同じような進路希望調査表を記入して提出した時、どうして大学に進学したいのかを問われて答えられなかったことを思い出す。三者面談に父さんが来られなくて代わりにお母さんが来てくれたけれど、どうしてなのかと聞かれてハッキリと答えられなかった。進学校というわけでもないので、就職でも良かったのだ。けれど僕は頑なに大学に行きたいと言った。理由も言わずに、自分の考えもハッキリとせずに。
苦い記憶を思い出してしまった。今年はもう有耶無耶にはできないし逃げられない。自分の進路について考えることが段々億劫になってきたので何か別のことを考えようと頭をふるふると横に振った。
ピロリン、携帯にメッセージが一件入る。誰だろうと画面のロックを解除して確認すると送信者はお母さんからだった。
〈お父さんが事故に遭って、大学病院に今います。海音くんは今どこにいますか?〉
「……え……?」
父さんが、事故?
僕の頭の中は一瞬にして『あの日』へと引きずられていく。
そこから大学病院までのことはあまり憶えていない。ただ無我夢中で走っていた。自分の体力のことも、手に持っていた進路希望調査表のことも忘れていた。
大学病院に着き、お母さんに聞いていた病室へと急ぐ。
「――父さんっ‼」
僕はそこが病院だということを忘れて、大声で父さんのことを呼んでしまった。呼び終わった瞬間、僕は急激に顔が熱くなるのを感じた。ベッドの上に寝ている父さんと既に見舞いに来ていたお母さんと美魚が一斉に「静かに!」と口元に人差し指を当てた。僕は「ごめんなさい」と素直に謝るほかなかった。
「いや~、面目ない」
「何が『面目ない』ですか。交番前にいた子供を自転車から守ろうとして自分から転びに行くなんて」
「……どういうこと?」
……曰く、事故になりそうな場面を目撃したのでそれを回避しようとした結果、右足を捻挫したのだそう。父さんの歳を考えれば、僕たちにとっての捻挫程度の怪我でも治すのには時間を要する、まあまあな大怪我だ。
父さんの職業は警察官だ。正義感の強い交番勤務の警官だから、子供を自転車から守ったのだろう。とても、父さんらしい理由だと思った。
「……とりあえず、よかった」
「……心配かけてしまったな。ごめんな、海音」
「…………う、ん……」
父さんにぎこちない態度を取ってしまった。僕はその場に居られないと感じてしまい、少しだけ
ふと、美魚がいないことに気付く。いつの間に部屋を出たのだろう。美魚はまだ小学校に上がったばかりの六歳だ。初めて来たであろう大きな病院で、もしかしたら迷子になって今頃不安で泣いているかもしれない。僕はひとこと父さんとお母さんに断って、美魚を探しに病室を出た。
「美魚ー? どこにいったんだ、美魚ー」
今度は声量に配慮しながら、病院の廊下を歩いて探す。もうこの病棟にはいないのだろうか。美魚は携帯を持っていないから、連絡を取ることも難しい。道行く看護師や先生に写真を見せて情報を聞いてみるも、廊下で見掛けたひとはいなかった。
「本当にどこに……。…………あれって……?」
たまたま、本当に、たまたまだった。
僕は院内放送を掛けてもらおうと放送室を目指して病棟同士を繋ぐ廊下を歩いていた。その廊下にはとても大きな窓があり、外が綺麗に見える場所があった。夕方ということもあり、夕焼けが廊下に差し込む。綺麗だなと感じながら外を数秒ほど眺めていたとき、外の花壇付近に美魚がいたような気がした。僕はとりあえず美魚かもしれないと判断して花壇に向かった。
そこで、今一番会いたいと思っていた彼に出会うだなんて、この時は思いもしなかったけれど。
この時、どうして彼がこの病院にいたのか。
僕はこの病院という空間で出会って初めて腑に落ちたのだ。
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