第8・5話

 ソファに眠る将成を見た海音は思わず固まった。

 彼の胸に刻まれた傷が、白いカッターシャツの胸元から透けて見える。痛々しい、古傷が目の端に映る度に海音の気持ちがざわついていく。まるで見てはいけないものを見てしまったかのような罪悪感が海音の目に映った。


「――ただいまあ。……? 将成?」


 帰るまでに帰ってこないと聞いていた人物が帰宅した。将成の兄、健である。海音とは先日倒れた際に送ってもらった時以来二回目の再会であるが、今の海音は罪悪感に襲われていたので、すぐにでもこの場から逃げ出したいという気持ちでいっぱいだった。しかし、逃げ出すことは出来ない。逃げ場がないのだ。

「将成? ……お? 知らない靴があると思ったら、奥村くんだったか」

「お、お邪魔しています……お兄さん」

 健でいいよ、と健が海音に笑う。

「……ったく。お客さん招いた本人が寝るって、無礼にもほどがあるだろ。なあ?」

「え、いや、はい。そうです、ね」

 健が気持ち良さそうに眠っている将成の両頬を思い切り引っ張った。起きてしまうのではないかと若干海音は不安になったが、当の本人は起きることはなかった。

「……起きない……」

「アホだな。」

 将成を起こすことを諦めると、健は自分の部屋へと向かって行った。

 海音はこのタイミングだと思った。急いで自分の荷物をスクールバッグの中へ片付けて玄関まで行く。靴を履き終わるところで「もう帰るのかい?」と健に呼び止められる。恐る恐る振り向くと将成と同じ顔が笑って海音を見ていた。

「あ、はい。天川……いえ、将成くんも起きそうにないので、今日は失礼しようと」

「ま、そうだよね。ごめんねうちの愚弟が」

「いえっ……。用事は、終わっていたので大丈夫です」

「……」

「……? あの、まだ何か……?」

 健は何か考えたのち、少しだけ申し訳なさそうな表情をした。そして「いいや」と言うとまた笑った。

「送って行こうか?」

「大丈夫です。最寄りも近かったですし、そんなには遅くならないと思うので」

「そうか。じゃあ、気を付けてな」

「はい。ありがとうございます。……将成くんにもよろしくお伝えください」

 そうして海音は帰宅することに成功したのだった。


 リビングに戻ると、将成がソファに横になりながら目を開けていた。健はその姿を確認すると小さく溜め息を吐いて彼の頭を小突いた。「いてっ」と将成は大袈裟に痛がった。

「起きてたんなら送ってけよ、馬鹿」

「…………ばれたかも」

「……あっそ」

「……兄ちゃん。俺、分かった。……心配するのも、されるのも、こんなに辛いんだね」

 健は、とは聞かなかった。

「……やっと気付いたか、ばーか」

 健は珍しく落ち込んでいる様子のにもう一度、小突いた。

「気付いたついでに、話だ」

「なんだよ、改まって。……兄ちゃんらしくない」

 健が、起き上がって話を聞く体勢になった将成の目の前に一枚の紙を差し出す。それはこの間の定期健診の検査書だった。

「これがなに?」

「その中、数値が少し悪い項目が三つあった。ちゃんともらった時、読んだか?」

 先ほどまで上がっていた将成の口角がゆっくりと下がっていく。それは、健の言葉が差す意味を瞬時に理解したことを意味した。

「……その様子じゃ読んでないな。いつも読めって言ってるだろ」

「読んでも、分からないし。難しい横文字ばっかだし。もうちょっと子供にも分かる言葉で書いてくれないと……」

「言い訳だな。じゃあ、してこい」

「えー! ⁉」

「一週間だ」

「ええー‼ 来週末テストあんだけど!」

「じゃあ、いつも通り、補習組で受けるんだな」

「そんなあ~!」

 将成は叫んだその勢いでソファの上から床へと転げ落ちた。

「やっと教室でテスト出来ると思ったのにぃ……。兄ちゃんの鬼! 悪魔! 医者の卵め‼」

「はいはい。さー、早く支度しなさい」

「うう……! また検査入院かぁ……」

 将成は渋々、健に言われるがままに入院の支度を始めた。


 翌日、何も知らない海音が教室に着く。

 後ろの席には将成はいなかった。

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