第8話

 来週末、一学期最後の期末テストが実施される。このテストが終われば、皆が待ちに待った高校最後の夏休みがやってくる。僕は来てほしくない派であるから、テストが長引けばいいのにとひとり落胆した。

 そして、来週末には僕が悩みまくっている進路希望調査表の提出日が待っている。皆は……天川くんはもう提出したのだろうか? していたとして、僕の考えが変わるとも思えないけれど。ネガティブな考え方がぐるぐるして僕は再び落胆した。


「おーくむら」

 今日の授業が全て終わり放課後(つまり自由時間)となった今、背後からあまり聞きたくない声が聞こえてきた。

「天川くん……」

「なあ、今日暇?」

「え?」

 暇か、と言われれば暇だ。けれど今日は図書室で勉強をするという自分への課題があった。先日、休んだ分を取り返す為に。

「今度のテスト、一教科でも赤点が出るとやばいんだよね。奥村って頭いいだろ? 勉強、教えてほしいなって思って!」

「ああ……」

 そういうことなら、と僕は彼に頷いた。それを確認すると天川くんはパァっと笑顔を見せた。キラキラしてるなー、なんて心で思いながらスクールバッグの中に今日勉強しようと思っていた教科書を数冊仕舞う。

「……どの教科が出来ないとか、ある?」

「現代文……? 数学も出来ない……あ、あと科学も無理かな~」

 つまり全部ってことね。僕は分かりきったことを聞いてしまったなと若干後悔した。天川くんはといえば「あはは~」なんて呑気に笑っていた。いいね、君はいつも幸せそうで。そんな心にもない言葉を言いそうになった。

「図書室でやろうと思うんだけど、別に構わない?」

「おー。俺はどこでも。奥村がやりやすい場所なら」

「分かった」

 僕たちは図書室に向かおうと、教室を出ようとしたその時。


「――!」


 不意に、女子の声が僕の耳を穿うがった。誰だろう、それに将成って……?

「天川くんのこと?」

 後ろにいるはずの天川くんを見ると、天川くんは今まで見たことのないような表情をしていた。本気で驚愕きょうがくしたといった表情だった。

「…………?」

 天川くんが、女子の名前を呼び捨てで呼んだ。僕は今まで彼がクラスメイトの女子を、まして男子も下の名前で呼んでいるところを聞いたことが無い。だから、素直に驚いた。

「言ったでしょぉ、次は学校でって」

「ふざけんな」

 何やら彼女は天川くんに用があるようだ。僕は天川くんにひとこと「先、行く」と伝えてその場を離れることにした。

 きっとあの場に僕がいると彼女よりも天川くんが困ると思った。彼女が僕を何故か睨んでいるように見えたから。何故僕を目のかたきにしているのかは分からないけれど、とりあえずあの場から離れることが最善だと思った。

 天川くんが僕を呼び止めようと名前を呼んだ気がした。


 足早に図書室へと向かう。

 彼女の、あの目が僕を見たとき、背筋がぞくっとした。僕があの場から離れるとき、彼女の目と口元が上がった気がした。まるで「ありがとう、この場を譲ってくれて」と言われたような気分だった。

 ――ズキリ。と胸が痛んだ。病気のような痛みではなかったけれど、それが一体何なのか、今は分からなかった。

 やっとの思いで図書室のドアの前へ辿り着く。自分でも知らないうちに走っていたようで、気が付けば息が上がっていた。きっと先ほどの胸の痛みはこれが原因だったに違いない、と僕はそう思い込むことにした。

 息を整えてドアに手を伸ばす。ふと、ドアに張り紙が貼ってあるのが視界に入った。

「え」


【本日図書室は閉館しております】


 と、張り紙に記載されていた。僕は思わず「えぇっ」と声を出してしまった。

(頑張って、走って来たのに……)

 図書室で勉強をすることが、僕にとって心のオアシスだったというのに、これでは勉強どころのメンタルではない。どうしよう、と頭を抱えているとどこからか「奥村」と呼ぶ声がした。きっと、天川くんだ。

「奥村! どうした?」

「あ、天川くん」

 僕は張り紙を指差して天川くんに今日は勉強会は出来ないと謝った。しょんぼり、と肩を落としていると天川くんは何かを思い付いたようで「大丈夫だ」と僕の肩を強く叩いた。少し、痛い。

「うちでやればいい!」

「――はあ?」

 今日一、大きな声を出した気がする。


 僕はまた、あの少し高そうなマンションに再び来ていた。

「ほら、入って入って」

 僕にとっては苦い思い出しかないこの場所に、天川くんに手を引かれながら連れてこられた。この時の僕と天川くんの表情は真反対だったと思う。いや、絶対。

「お邪魔、します」

「うん」

 僕はとりあえず慣れない足取りでリビングに向かい、そしてフローリングの床に座る。二回目だけれど、全く慣れない世界に戸惑った。飲み物を運んできた天川くんに「何で床?」と突っ込まれ、ソファに強制的に座らされる。ふかふかで気持ちが良かった。

 じゃなくて! 僕が今日ここに来たのは勉強をするためである。僕は手始めに数学の教科書を机の上に置き、ノートを開く。天川くんも同じようにノートを開いた。

「じゃあ、分からないところ、どこ」

「え。なんか奥村空気変わった?」

 空気が変わった、と言われて、そりゃそうだろと思う。僕の勉強に対する熱意は(自分で言うのもなんだけど)誰にも負けない自信がある。

「どこ」

「え……と、この数式の……」

 天川くんの分からないという数式を、僕は自分でどう理解したのかを思い出しながらなるべく丁寧に解説していく。天川くんが「ふむふむ」と頷きながら問題を解いていくのを見て、僕はとても嬉しくなった。これは僕の『夢』の一端でもある。天川くんの笑顔を見ると、僕は心の底から「よかった」と思うのだ。

 ある程度教えたところで先ほど解いた問題の回答を確認する。赤ペンで丸を付けていくと全て正解していた。

「……うん。全部正解」

「うはぁー! よかった~」

「天川くんって、理解すれば早いから、結構高得点取れると思うよ」

「ほんと? それは嬉しいな。っと、もうこんな時間か。少し休憩しようか。お菓子でも食べよう」

 時計を確認すると時刻は七時を回っていた。こんな時間にお菓子? と思ったけれど、天川くんが鼻歌を歌いながら冷蔵庫の中を探しているのを見て、まあいいかと思ってしまう。

 不意に彼女のことを思い出す。彼女は一体天川くんのなんなのか。知りたいと思う自分と、知らなくてもいいと思う自分がいた。

 そういえば今日、帰りが遅くなることを家族に伝えていないことを思い出した。僕はスクールバッグの中から携帯を探そうと手を入れる。携帯を取り出そうと中を確認したとき、嫌でもあの紙が目に入った。進路希望調査表だ。そろそろ提出しないと、いけないのに。気持ちはあっても、僕はどうしてもそこから一歩踏み出せずにいた。

「……」

「奥村?」

 天川くんがプリンを両手に持って戻って来た。コンビニとかで売っているようなものではなく、ちゃんとしたお店で売っていそうな少し高そうなプリン。きっとお兄さんが食べようと買ったものではないのか、と思ったけれど「食べよう?」と天川くんが笑顔で言うものだから、なんとなく譲歩した。

「それ、進路希望調査表? まだ出してなかったんだ」

「……うん」

 どちらにするか、それはもう決まっている。けれど両親に相談もなしに勝手に提出してしまってもいいのか。それだけが、不安だった。

「……それを出すのはさ、奥村じゃん?」

 天川くんが僕に問う。

「え、うん」

「だったら、勝手も何も、決めるのは奥村だから。……この紙一枚で、この先の全てが終わるわけじゃない。それは、頭がいい奥村なら分かるよな」

 急に天川くんの雰囲気が変わる。なんだか、大人っぽく見えて、僕は妙にドキドキしてしまう。

「奥村の今は、奥村のものだから。奥村の人生なんだから、自分のやりたいこと、正直に書いて出せばいいと思うよ。それでご両親が何か言うようであれば、俺を呼んでくれてもいい。の為に、を殺すな。そんなの間違ってる」

 いつになく真剣な目をして、天川くんが僕を見る。僕は、反論できない。少し、この場から逃げたくなった。

「……ちょっと、お手洗い、借りてもいい?」

「ん? ああ、リビング出てすぐを左にあるよ」

 教えてもらった通りの道を進み、お手洗いを見つける。中に入り、僕は大きく息を吐いた。

 彼の言った言葉が、脳裏に響き続けている。それはきっと図星だったからだ。

 ――家族の為に自分を殺すな。

 その言葉が僕の心を締め付ける。

「……そんなこと、僕だって分かってるんだよ」

 分かりきっている。でも、簡単には割り切れないんだ。

 僕はもう一度大きく深呼吸をして、自分の頬を自らビンタする。ここで長居していたら彼が心配してこっちに来てしまうかもしれないと思ったからだ。


 リビングに戻ると、天川くんがソファの上で倒れていた。急に怖くなり側に駆け寄ると、どうやら彼は眠ってしまったようだった。先ほどまであれだけ元気にしていたのに、横になっていたら驚くに決まっている。ともかく、ただ眠っているだけのようで安心した。

「…………んぅ……」

 天川くんがくぐもった声を出したので、僕は驚いて一歩引いてしまった。起きてしまったのではないかと思ったけれど、それはどうやら杞憂きゆうに終わったようだ。天川くんは外側に向いていた体を天井に向けて寝返りを打った。クーラーが効いている部屋で半袖カッターシャツのみの彼が少しだけ寒そうに見えたので、持っていた自分のカーディガンを体に掛けてあげる。

 カタン……と、天川くんの手から持っていた携帯が床に落ちる。画面からゴトっと落ちたように見えたので割れてしまったのではないかと内心ひやひやしたが、どうやら無事のようだ。

「……画面、割れちゃ……うよ……」

 机の上に置こうとした時、僕は、息を呑んだ。

「――……?」

 携帯のロックが解除されており、一枚の画像が画面に写し出されていた。そこには男の子と女の子、そして――が写っていた。

「…………せんせぇ……」

 寝言を呟いた彼のことを、僕は今どんな顔をして見ているのだろう。複雑な気持ちが僕の心を埋め尽くしていく。

 そうして、僕は見てしまった。


 彼の――胸に通る一本の傷を。

 僕は、見てしまったんだ。

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