第7・5話

 将成は先日行った定期健診の結果をもらいに通院している大学病院へと足を運んでいた。待合室で携帯をいじりながら、昨日のことを思い返す。


 昨日、海音の様子が可笑しかった。朝から机に伏していて呼吸が辛そうだった。授業中、後ろの席から見ていただけだったので確信はなかった。時間を置いても動く気配がなかった。心配になり将成は海音の背中を優しく叩く。ゆっくりと顔を上げた彼の顔色はいいものとは言えなかった。次の授業は何かと聞かれたので将成は「体育」と答える。すると海音は血相を変えて、ロッカーから体操着を取り出して更衣室へと走り出した。

 授業はバスケ、体育館で行われた。その日の外は六月だというのに暑かった。将成は少しだけ安心した。まだ外でないことから海音の負担が少しでも減るのではないかと思ったのだ。少しして休憩に入る。将成が海音に「お疲れ」と声を掛けた、瞬間、海音の体が前に向かって倒れた。

 あと少しで床に頭を打つところを将成が寸でのところでキャッチする。怪我は無いようだが、顔色は最悪だった。体も熱いことや顔色が青いことから、熱中症や貧血を起こしているのではないかと予想できた。すぐにでも体を休ませてあげないと、と将成は海音を抱きかかえ保健室へと向かった。

 保健室には誰もいなかった。何故、誰もいない! と心の中で叫んだあと、ゆっくりと海音をベッドに横たわらせた。数時間経っても目を覚まさなければ病院へ連れて行こう。将成はそう決めた。

 海音の早退を担任教師に願い、海音の荷物を整理する。その中に気になるものがあった。海音の性格のことだ。ファイリングはされていたが、くしゃくしゃになった進路希望調査表が入っていた。雨に濡れた形跡があったが、それ以上に、何度も書いては消してを繰り返した痕跡があった。痛々しい、迷いが見えた。

(倒れた理由は、これが一番の原因……かな)

 授業への執着。家に帰りたくないと言っていたのに、急に家を飛び出した。けれど、それは海音の意志ではないと将成は推理する。

(家族との確執? 虐待……とか? それは、無い……か)

 しかし、これ以上の詮索は止めようと将成は調査表を仕舞った。

 保健室に戻っても海音はまだ眠っていた。先ほどよりも幾分か顔色は良くなっていた。額に手を当てる、体温も正常に戻りつつあったので将成は心から安堵した。全授業が終わるまであと少し。将成は持っていた難い小説の続きを読み始めた。

 夕焼けが濃くなり、業後を告げる最後のチャイムが鳴る。同時に、海音の瞼がゆっくりと開いた。

 起きた海音に将成は気になったことを問いただした。どうして授業に出たのかと。気持ちが前に出てしまい、少しだけ強めに言ってしまった。それが引金になった。海音が泣き始めてしまったのだ。メンタルが弱っていたところに突っ込んでしまった。しまった――と思った時には遅かった。

 泣き止んでほしい。そう、思った時、将成は海音の口にキスをしていた。

 初恋のひとに似ていたから。たった、それだけの理由で。


「…………はぁ……、余裕なさすぎだろ……俺……」

 ずるずると座っていた待合室のソファから落ちていく。自分の欲の酷さに笑えてくる。弱っていたとはいえ、彼を利用してしまったのだと後悔する。

「……何がないの?」

「……佐央里さおり

 ひとりの女子高生が将成の背後に現れた。橘佐央里。もともと将成と同じ心臓病で同室だった少女で、今は将成たちと同じ高校の生徒だ(クラスは別だが)。佐央里は棒状のキャンディーを舐めながら将成を後ろから抱き締める。将成は少しだけ鬱陶うっとうしそうにそれを受け入れた。イチゴの甘い香りが将成の周りに漂った。

「お前、ここで何してんの」

「私も将成と同じ、定期健診の結果待ちぃ」

「……あっそ」

「冷たいなぁ。幼馴染が抱きつくのがそんなに嫌?」

 カロン、とキャンディーが口の中で転がる音がした。

「うざい。」

「へえ~? ?」

 すっ、と佐央里が携帯を将成の目の前に差し出す。差し出された画面には、昨日のが収められていた。将成は動揺を悟られないよう、必死だった。

「お前……」

「脅迫、じゃないよぉ? ねぇ、こんな子はやめて、私にしなよ」

「前から言ってるだろ。俺はお前とは付き合わない」

 将成がはっきり断ると、佐央里はゆっくりと将成から離れた。

「いつもと同じ答え。分かりきってたケド」

「だったら言うな。同じこと何回も」

「不機嫌にならないでよぅ」

 ふふ、と佐央里が笑う。不気味だと将成は思う。遠くで看護師が佐央里の名前を呼ぶ。彼女は「呼ばれちゃった」と残念そうに呟いた。

「じゃあね。次は、学校で」

 そう告げて彼女は将成の口にキスを落とした。周りの目などお構いなしに、まるで海音とのキスを上書きするように。

「…………甘」

 ファーストキスがレモン味だって、それ、誰が言った?

 将成は口元を強く親指で押しつけ、彼女の付けていたリップごと拭った。イチゴの香りが未だ残る唇に嫌気が差した。


 検査書をもらうだけなのに午後まで時間が掛かってしまった。将成の中では三限目までには学校に行ける予定だったのだが、現在五限目。ただでさえ佐央里に会って気分が沈んでいたのに、と分かり易く落胆した。

「――えっ?」

 教室に入った時、将成は素で驚いた。

「おはよう……天川くん」

「なんで? 今日、休みじゃ」

 昨日倒れたばかりの海音が教室にいたのだ。今日は流石に、昨日のこともあるし休みだろうと踏んでいた将成だったが、海音は出席していた。理由を聞けば「もうすぐテストが近いから」とのこと。昨日の今日で普通に学校来てるって、どれだけ単位に執着してるの? 将成は本気で彼のことが心配になった。

「……やっぱり、昨日父さんたちに何か吹き込んだでしょ、天川くん」

 ギロリ、と海音が将成をぎこちなく睨み付ける。

「吹き込んでなんか」

「嘘だ。何も吹き込んでなかったらあんなこと言わない!」

 あんなこと? 将成は本気で分からないという顔をした。

 昨日、倒れた海音が心配で兄の健に迎えに来てもらい、彼の家まで送ってもらったのだ。その時奥村夫妻に会い、つい、ひとこと余計なことを言ってしまったのである。思い返せばそれが原因だということに気が付き、将成は腑に落ちた。

 曰く「今日は大事を取って休みなさい」と言われたという。それをあんなことと海音は言う。将成は悲しくなった。

「奥村が倒れたことを伝えただけだよ。普通、大事を取って休むだろ」

「僕はもう大丈夫だったんだよっ」

 むすっとした表情をして、海音はそっぽを向いた。その後、話をしようにも無視され続ける羽目になったのは言うまでもない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る