第2話

 僕が彼と出会ったのは高校二年生の秋の頃だった。

 高校二年の秋と言えば、僕の通う高校では文化祭の季節だ。

 僕はこの容姿の所為かよく女の子に間違われることが多く、文化祭でもいじられ役として、教室の出し物であるメイドカフェで女装させられた。……まあ、中学の頃からそういったことには慣れていたので、別に今更何を思うでもなかった。

 流石に店番を二時間以上も続けると疲れてくる。僕は友達にひとこと言い、休憩に入ることにした。

 とにかく、誰もいない場所へ行きたい。静かな、心が落ち着ける、そんな場所に。

 無意識だった。何も考えずにただ進んでいた。ふと、目の前にひとつの教室が現れる。それは音楽室だった。

 声楽部が使用するのは午前中のみで、ひとの気配はなかった。時計を確認すれば、現在は14時を回ったところだった。丁度いい。少しだけ休ませてもらおうと僕は音楽室のドアを引いた。

 秋風が吹き抜ける。思わず僕は顔をしかめた。誰もいないはずなのに、窓が開いていた。カーテンがくるりくるりと風と踊っている。少しだけ寒いと感じ、僕は窓を閉めようと足を進めた。

 窓の側には一台のグランドピアノが配置されている。横をぎった時、僕は思わず驚いてしまった。

 ピアノの鍵盤蓋の上で腕を枕にして誰かが寝ていた。

 僕のクラスの人間ではなさそうだった。芸能人と聞いても驚かないくらい顔が整ったひとだった。両腕の中で眠っていてちゃんと顔は見えていないけれど、かなりのだ。僕は息を呑んだ。彼に見惚れていた。静寂が二人だけの世界を創造した。


「……ん……」


 不意に、彼が声を出した。僕は驚いて二歩ほど後退あとずさりした。その音によって意識が浮上したのか、彼の目が開いたので、僕は再び息を呑んだ。逃げ場がない。どうしよう、どうしようと焦っていると、彼は覚醒し切っていない寝ぼけ眼で僕を見て、そして僕の腕を優しく引っ張った。

「え……――?」

「…………なに、泣いてんの……?」

 何を――と、僕は言おうとした。けれど、その言葉は泡となって消えた。

 口に柔らかいものが触れる。それがに気付くのに、少しの時間を要した。僕は呼吸をすることすら忘れて、彼にされるがまま、


 ――を受け入れた。


 その後、正気に戻った僕は彼の頬を思い切りはたいて音楽室を逃げるように去った。あとになって知ったことだが、彼は文化祭が開催される二日前に転校してきた他クラスの生徒だったらしい。知らなかったとはいえ、少しだけ悪いことをしたなぁと反省した。あの時が、初めての出会いだったと思う。


 そうして冬が過ぎ、春が来た。僕は高校三年生に進級した。特に変わらない日々に飽き飽きしながらも、今日も僕は教室へと向かう。変わったことと言えば、受験生としての自覚を持ち始めたことだろうか。あまり、気乗りはしないけれど。

 教室に入って僕は自分の席に着いた。窓際の一番後ろから二番目が、僕の席だ。

 ちなみに僕の後ろの席は空席だ。本当はこの席に着くひとがいるらしいのだけれど、進級してから一度も会ったことが無い。何か事情でもあるのだろうか。まあ、対して興味など無いけれどね。

 放課後になり、僕は机の上を簡単に片付けて帰る準備をする。……でも、正直家に帰りたくなかった。テスト週間だからなのか、クラスの生徒たちは図書室や教室で友達同士楽しそうに居残り勉強をしている。僕にはそんな友達がいないから、なんだか疎外感。気付いた時には足早に教室を出ていた。

 馴染める気がしない。四月に入ってまだ一週間ほどだけど、僕にはあのクラスが苦手だ。もともと高校で出来た友達も少ないけれど、数少ない戦友たちは別のクラスになってしまった。気の休まる場所など、今の僕には無いのだ。

 廊下を歩いていると、近くで何かの音色が聞こえてきた。音楽室から美しいピアノの音色が響き廻る。誰が弾いているのだろう。テスト週間中は部活動が休部になるはずなので声楽部や軽音部が利用しているとは考えにくかった。

 僕は無意識のうちに音楽室の前に来ていた。恐る恐る音楽室のドアに触れる。ゆっくりとそのドアを開けると、ひとりの男子生徒がピアノを弾いていた。……これは、なんという曲だったっけ。……ああ、そうか、これは。


「……【ノクターン】」

「――え?」


 僕はハッとした。今、僕は何を言ったんだっけ。ピタリと、先ほどまで流れていた曲が止まった。そして、演奏していた男子生徒と目が合った。

 その時僕は、僕の周りの音全てが消え去った感覚に襲われた。

(……あの時の、ひとだ……)

 僕は、あの時と同じように二歩後退る。起こしてはいけないという感情ではなく、恐怖で。ポスリと右肩に掛けていたスクールバッグが床に落ちる。

「……ああ、良かった」

「…………え……?」

「ここにいれば、いつか君に会えるんじゃないかって思ってたんだ」

 あの時の彼が椅子から立ち上がり僕の横に来る。そして床に落ちたバッグを拾い、僕に手渡した。僕は突然のことで手に力が入らず、すぐには受け取ることが出来なかった。彼は、それでも優しい笑顔で僕がちゃんと受け取るのを待っていてくれた。

「……あの時はごめんね?」

「え……」

「ほら、去年の文化祭の時、ここで」

「……憶えて、ないかと」

「うん。ほとんど。でも、君の顔は憶えてた。あの時は女の子みたいな恰好をしてたけど、雰囲気は変わってなかった。会えて、良かった」

 彼は、少しだけ困った顔をして僕を見た。僕はこの時、どういう顔をすれば正解だったのだろう。

「俺、三年二組の天川。天川将成。君は?」

「……三年、二組。奥村……海音」


 四月初旬――放課後の音楽室で、僕は確信した。

 この日から僕は、対して興味など無かった『後ろの空席の天川くん』について考えるようになったんだ。

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