第131話 ラティラ視点 色鮮やかに咲く

 四つ灯に木々の鳴る音よりも低く、どろりと重たい音に包まれます。

 中級生。もう、成人後のことを決めなければならないときがやってきてしまいました。


 わたくしの世界が他の人より多くの音で彩られていることを知ったのはいつだったでしょう。

 お父様のご友人で、優秀な文官でありながらも自身の趣味である魔道具作成に勤しむ異例の魔工師、グンヌ様。幼い頃に彼が与えてくださった音の出る玩具に触れたときかもしれません。

 あるいはマカベの儀で、同い年の子供たちが演奏するのを聞き、またその感想を他者と共有したときかもしれません。

 あるいはもっと前、神殿にてサアレやクストの芸術を体感したときかもしれません。


 根もとの部分から感覚が違うのだということはわたくしやその周囲に大きな衝撃をもたらしましたし、同時にマカベの子としての将来が決まったようなものでした。

 ……けれども。

 わたくしが心から望むのは、マカベの妻や、それに近しい文官としてマクニオスを支えることではありません。音楽をやっていくことなのです。

 もちろんマカベにとって音楽は重要な芸術ですから、そうして生きていくにしても音楽に触れる機会は多くあるでしょう。むしろ望まれることも少なくないだろうと、自分の技量をそれなりに把握してもいます。

 ですから、それでも、それでもと願ってしまうのはわがままなのだと、そう思っていました。




 何度、自分が子供らしい子供であれば良かったと考えたことでしょうか。もっと物わかりが悪ければと。

 お父様とお母様の血をしっかりと引いてしまった自分。周りの期待以上に育ってしまった自分。年の離れたお兄様やお姉様だって同じことなのに、わたくしにとっての音楽というものはどこか異質で、それこそジオ・マカベの妻であるヒィリカ様の再来と言われたほどでした。

 マカベの娘で音楽の才を持つならば、神のため、次代へその美しさを繋がなければならないのです。


『明日はヨウラ様の披露会へ行ってまいります』


 木立の者に近い文官や、新しい魔法を生み出した芸術師。木立の舎においては、その子供たち。

 わたくしが出会わなければならない人は多く、交わさなければならない情報はどんどん複雑になっていきます。一般的には木立の舎で披露会が開かれるようになるのは木立の日が近づいてくる十二の月あたりからですが、立場によってはその限りではありません。


 当然そんな彼らの楽器や声の扱いは上等で、よく練られた旋律を美しく風に乗せてみせるものです。……美しく。決められた調子で。決められた余韻を。

 予定調和な音の波。

 決まった道を走る風など、ありはしないのに。そう思えば、彼らの演奏がどれだけ整っていようとも空っぽでしかなく、わたくしには褪せたように聞こえるものでした。


 それは自分自身にも言えることです。役割があるからと言い逃れできないほどに、求められるまま形式を整えてきたわたくしの音。

 木立の舎へ入ったばかりの頃の、詩に込められた意味を読み解き、それをいかにして表現するのか考えていたわたくしはどこへ行ってしまったのでしょう。ほんとうに目指すべき、目指したかった音は。


「ラティラ様の演奏はまた艶を増しましたね」

「ええ、まだ中級生ですのに。今から成人後が楽しみです」


 右手を胸に当てて微笑めば、感謝のかたちが舞う花びらのように香ります。

 ツスギエ布の揺らしかた。陽だまり部屋という籠の中で揺れる風の音をよく聞き、わたくしの風を他の人に聞かせてしまわぬよう。丁寧に、いちばん美しく見えるように動かします。美しく、美しく見える・・・ように。


 演奏する、わたくしの音がまた遠のいてゆく――。


 反対に近づいてくるのはぼこぼこと不調和な音。そのような違和感に囲まれたときに演奏するのは、レイン様の作った曲です。

 彼女の歌には、独特なのに美しく、加えてどこか懐かしい感じのする旋律と、豊かな日々を思わせる構成の魅力的なものが多くあります。たしかに秩序は存在しているのに、ふと外してしまうことも良しとする自由さとともに。

 レイン様自身、子供らしい無邪気さを持ちながら時折はっとするほどに大人びた表情を見せる、揺らいだ音をまとっている人なのです。


 目指すべき音を、それを追い求める姿を、こうして触れることのできる幸運を思うと、身が震えそうになります。


「――こちらはレイン様の作った曲ですね」

「ええ、わたくし、彼女の音楽をとても好ましく思っておりますので」

「ラティラ様が演奏されるとまた違った雰囲気になりますけれど、わたくしはこちらのほうが素敵だと思いますわ。レイン様のお声は独特で、落ち着きませんもの……」


 その豊かな揺らぎこそが美しいのだと、言えたなら。

 感謝を伝える花びらが、はらはらと乾いた音を立てて美しく落ちていくのを、わたくしはぼんやりと感じていました。




「ラティラ、少し良いだろうか?」


 そんなはじめましての声をかけられたのは、選択講義である文学の何度目かの講義を終えてスダの林にある自室へ戻ろうとしたときでした。

 わたくしは一度聞いた音のかたちを忘れませんから、はじめましてのかたで間違いはないはずなのですけれど、彼はよほど焦っていたのか初対面の挨拶すら忘れていたようです。


 首を傾げてみせればそこでようやく気づいたかのように水面に似た瞳を揺らし、わたくしの挨拶を促してくれます。


「スダ・マカベとアイナの娘、ラティラです」

「ジュセムとフィウユの息子、タルヘノだ。すまない、気が急いてしまった。どうしてもこれを見てもらいたくてな……」


 最低限の――本当に最低限の挨拶だけを交わしてタルヘノ様が差し出してきたのは楽譜でした。

 なにやらびっしりと書き込みのあるそれを見てみて、一瞬、息が詰まりそうになります。


「これは……」


 耳で聞いたまま写したのか、いくつか違っているところはありますけれど、間違いありません。レイン様の曲です。

 そして余白部分を埋める走り書きは、どうやら、旋律や歌詞のひとつひとつがどのような効果をもたらしているのか考察したもののようでした。


 ヌテンレを出し、通常より文字が薄くなるよう魔力を調整しながら楽譜の旋律が間違っているところに正しい音を重ねていきます。それから修正した箇所に対応する考察に印をつけ、自分ならどのように紐解いていこうか、と考えたところで手が止まりました。


「……っ、勝手に、申し訳ありません」

「いや、良いのだ。というより、この一瞬でよく理解したな」


 ふむ、と頷くタルヘノ様はどこか満足げで、声を聞かずとも本当に勝手を咎めるつもりはないのだとわかります。むしろその先を期待するような眼差しに、胸がとくんと鳴りました。


「……で、ここからが本題なのだが、その、彼女の演奏を聞き慣れているそなたはこれをどう思うだろうか? 私は、レインの曲を研究する音楽師になりたいと考えているのだ」


 思わずまじまじと彼の顔を見てしまいます。レイン様の曲の、研究をする……?


 もう一度、手にした楽譜に目をやります。彼女がこの曲を演奏するときのことを思い出します。

 ……えぇ、たしかに。この音を発するときの表情も、息づかいも。

 驚きと同時に湧き上がるのは羨望でした。彼はこのようなかたちで音楽を、レイン様の音に触れることができるのです。




 それからタルヘノ様とは何度も話をするようになりました。

 彼は本当にレイン様の曲をよく理解していて、音楽会の他には一度きりの披露会でしか聞いたことがないというのが信じられないくらいです。

 会えば音楽のことやレイン様のことばかりが話題になるので、彼がデリの土地出身の中上級生であることや、どのような家で育ったかを知ったのはずいぶん経ってからのことでした。


 タルヘノ様にとってもそれは同じことで、わたくしの将来について触れたとき、彼は驚いたように目を丸くさせました。


「そなたも音楽師になるのではないのか?」

「……わたくしは」


 美しい返答をするつもりでした。けれども口から溢れるのは硬いばかりの声で、わたくしは自分で思っているよりも途方に暮れているのだと、気づきました。

 またいっぽうでタルヘノ様の声にあるのは純粋な疑問だけなのだということもわかっていました。わたくしが音楽師になりたいと言わないことを心から不思議に思っているのだと。


 ざあっと、絡まっていた枝葉を振り払うような、強い風の音が聞こえてきます。

 わたくしが文官になるのが当たり前だと、そういうふうに考えない人もいるなんて……!




 だからこそわたくしは、レイン様もまたタルヘノ様と似た考えを持っていることを知り、けれども揺らぐレイン様に掬われた心を揺らがせたまま、きっと多くの人が「美しくない」と表現するであろう音をタルヘノ様に聞かせ続けてしまうのでしょう。


「……ずっとお友達ですと、そう言ってくれたレイン様の音がひどく揺れていることに、どうしてわたくしは気づいてしまうのでしょう。彼女が本心でそう言ったことがわかっているなら、それだけで良いではありませんか。これ以上になにを……彼女の音に頼るばかりではいけないというのに」


 あのときの彼女の揺らぎはまるで、ここにあるものではないような、遠い響きを含んでいました。

 それが故郷由来のものなのか、わかりません。けれどその鮮烈なまでの音はたしかにレイン様だけのもので、やはりわたくしには好ましく思えてならないのです。

 ……そしてレイン様には、マカベの美しさを強要されることなく、彼女自身の音を大事にしていてほしいのです。


「どうだろうか。私は、彼女の音に頼るべきだと思っているが。近い場所にいるラティラやカフィナはなおさらな」

「……え?」

「私はレインの音をもっと深く知りたいのだ。それは単純にあの豊かさを美しいと思うからでもあるが、それだけではない。……彼女の曲は、きっと、マクニオスを救うだろう」


 ただレイン様の演奏を聞いて感心するだけの立場ではなく、それをマカベに広めていきたいのだと、そういう音楽を作っていきたいのだとタルヘノ様は言います。

 わたくしは自分やカフィナ様が一緒に演奏できればと考えていただけで、そんなふうに考えたことはありませんでした。


 ……でも。


 マカベの魔力が減ってきていると言われている中で、あれほどの魔力を扱うレイン様。彼女がもっともその力を見せる演奏と曲。

 文官となり、木立の者に近いところで活躍することを望まれているわたくし。本心では音楽師になりたくて、それを良しとしてくれる人は確かにいて。少なくとも、目の前のタルヘノ様やレイン様たちはそう言ってくれて。


「……タルヘノ様」

「なんだ?」


 抑えきれていない感情に溢れてきた魔力をテテ・ラッドレが吸収して、耳が熱くなります。

 そんな耳が捉えるのは鮮やかに綻ぶ花々の甘美な音。……嬉しいことです。わたくしにもまだ、このようなものを紡ぐことができるのだと、久しぶりに聞いた音に笑みました。

 そう、きっと、彼となら。


「あなたの音楽を――……いえ。あなたを、あなたがこれから作る音楽ごと、わたくしにくださいませ!」

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